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 翌日、エルンストにスーツの替えとテレザの小言を運ぶ役目を終えたライデンは周囲を見回していた。
 シミひとつない壁だなとか、建付けが頑丈そうな窓だなとか、こんな隅っこまで掃除は行き届いているんだなとか。今自分が置かれている状況に対して噛み合わない感想ばかり湧いてくる。
「……」
 平たく言うと迷子になっていた。
 エルンストの執務室までの道順は覚えていたが、如何せんそれだけだ。今日は時間の余裕があるからちょっとくらい冒険しても、と好奇心に負けたのが運の尽き。右を見ても左を見ても現在地がどこであるかさっぱりわからない。
 反政府勢力に強襲・占拠されてしまうような有事に備えて、あえて方向感覚を狂わせたり遠回りをさせたりと、連邦の官公庁施設内はエントランスを除いて同じ構造にしていると何かの折にエルンストから聞かされたのを思い出す。ちなみに官公庁施設自体少ない割に外観も似たり寄ったりのものにしているらしい。
「どうしたもんかね」
 短く揃えた頭を掻きながらぼやく。レイドデバイスをこんな平和な日常で使うことは少なくなっていて、今なんてつける場面でもないから誰かに連絡することができない。渡されて二年になる携帯も電波が遠いのか繋がりづらい。
 とりあえずエレベーターホールがありそうなところに行けば地図くらいあるはずだと足を進めて、その先で見たことのある顔が横切った。
 連邦ではかなり見かけなくなった紙の書類の山を抱えて数メートル先を通り過ぎた人物は、昨日エルンストのもとを訪ねてきた少女だった。
 視界を遮るくらい積まれた紙の束と今にも折れそうなピンヒールに、何かの拍子で床にばら撒く気がしてライデンは心配になる。運ぶのに苦労するくらい手に余るのなら分散して運ぶなりすればいいのにと危惧した瞬間、少女の前につま先が投げ出された。
 それに気づくことなく少女は運悪く引っかかったものの、なんとか踏ん張って転ぶのは防いだ。がしかし、抱えていた書類は薄釉の床に盛大に撒き散らされてしまう。
 バランスを取るのが難しそうな靴でしゃがみ、廊下の真ん中に広がる白を少女は丁寧に拾っていく。
 誰か一人くらい助けてやれよと一歩踏み出して――ライデンは舌打ちをした。
 人はいた。
 彼らは彼女を視認していた。
 だがそれだけだった。
 白系種だから助けるつもりはない。いいザマだ。
 大方そんなことを腹の中で考えていることが手に取るように伝わってくる。
 体勢を崩す原因となった足だって、少女の視界が塞がっていることをいいことに明らかに悪意を持って出されたものだった。現に品の良くない忍び笑いがさざめいている。
 ――どこに行っても人間の本質は変わらない。
「ほら」
 視界に入り込んだ紙に、拾っていた手がぴくりと止まる。
「……ありがとうございます」
 がしかしその時間は瞬きの間で、目を合わせることなく受け取ると少女は再び集めるのを再開した。
「見ていて危なっかしい。半分持ってく」
「お構いなく」
 にべもない返事が返される。
「白ブタと関わったら貴方が悪く言われてしまいますよ」
 遠巻きに眺めていた周囲の囁きをどこ吹く風に、少女は紙たちの角を揃える。
「他人の手を煩わせたくありません」
 膝に手を当てて立ち上がった少女は、今度はライデンの目を見て言い放つ。逸らされない瞳には共和国市民のように色付きを忌み嫌う色はない。そう言えばこの少女は昨日もライデンから視線を逸らすことなかった。対応が冷たかったのはただ単に手を煩わせたくないという言葉通りの意味だったわけだ。現に薄く引き結ばれた唇は開かれず、譲る気配は一切ない。
「わかった」
 だから実力行使に出ることにした。
「ちょっと待ってくださいっ」
 彼女の手から束の大半を奪って歩き出す。慌てた少女が奪い返そうとするがひょいと躱す。
「どこまで持っていけばいい」
 そう問いかけながら足を止める気はない。もちろんどこに行けばいいかなんてわからないが、このくらいしないと引き下がってくれないと当たりをつけていた。
「………………二階下の部屋まで、お願いできますか」
 かなりの時間と距離を要してようやく少女が不承不承に行き先を伝える。安易に甘えようとしないところは美徳だが、誰にも頼ろうとしないところは腐れ縁と似ていて感心できなかった。
「あいよ」
「あと」
 ライデンが進んだ方向とは真逆の方向を右手が指差す。
「そちらに行くとまた迷いますよ」
 迷子だとバレていた。

 素朴な階段を下りて、辿り着いたのは大部屋だった。装飾や細工もないシンプルなくせに無駄に大きいドアが開けられ、紙とインクの匂いがほんのり漂う。
「そこの机に置いていただければ大丈夫です」
 指示されたスペースに置くとドスッと紙らしからぬ音が響く。これを一人で持っていたのかと華奢な体を見やり、今持ってきたものよりも前に彼女のデスクにあるファイルのふた山に少し引いた。少女の座高をゆうに超えていて、あることないこと勘繰ってしまうくらいには積み上げられていた。
 ちらりと部屋を見回す。壁際のスチール製の収納棚にはファイルでそこらかしこ埋まっていて、妙な圧迫感を受け取った。
「ありがとうございます」
 デジタル化がかなりのスピードで進んでいるはずなのに、いまだアナログが半分も支配テイル部屋をまじまじと観察していれば頭が下げられ、暫し後に冷えた相貌と見える。やはり自分たちより年下とは思えない顔立ちだった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「……なんで」
「助けてくれた人の名前は覚えておくのが礼儀、と小さい頃から祖母によく言い聞かされてきたので」
 人。
 本当に共和国生まれかと疑いたくなる。随分とまともな祖母のもとで育てられたみたいだ。
 生い立ちを抜きにしても、もともと律義な性質であることもあり得る。昨日会ったばかりで時間はあまり経っていないけれど、少女がどういう性格をしているかはわかった。
「二度も助けていただいたのなら尚更です」
 律義通り越して相当頑固だ。
「ライデン・シュガだ」
「⁉」
 根負けして名前を告げた瞬間、白瑪瑙に驚愕の色が宿る。ここに来てから初めて見る彼女の感情らしい感情の発露に、今のどこに驚く要素があったのかと訝しむ。
「何か」
「……いえ、ごめんなさい。知り合いに名前も似ていたので」
 名前も。
 他に重ねる部分がある口ぶりだ。
「以前はお名前を訊かずに退出してしまい、大変失礼いたしました。私はリズベット・マイヤーと言います。もし呼ぶ機会がありましたらマイヤーとお呼びください」
 動揺を消して自己紹介した少女、リズベットにスピアヘッドのハンドラーに着任した当初のレーナを重ねていたことを訂正する。急に距離を詰めようとはせず、適切な距離感を保つ。あのときのレーナより一つ上なら機微を理解していて当たり前かもしれない。
 ふとリズベットの足元のゴミ箱に目が行く。プラスチックの底には栄養補助食品の空箱が転がっていた。
「昼飯は食ったのか」
「はい」
 堂々と嘘をつかれ、呆れのため息が零れる。昼食を取っている時間にも関わらず、この部屋は料理の臭いで満たされていない。
「それは飯じゃねえだろ」
「味はどうでもいいです。栄養を摂取でいればそれでいいので」
 シンみたいなことを言いのける。いや。まだ量を取るシンのほうがいくらかマシだ。
「あんなのはいつものことなのか」
 ぱちくりと睫毛を瞬かせるとややあって、さっきのですかと冷たい息を吐く。
「されて仕方のないことですから」
 暗く翳り、諦めたように頬を歪める。その横顔に心の底がチリと焼けついた。
「玄関までお送りしましょうか」
「あー……」
 そう言われて、自分が迷子であったことを今更ながらに思い出す。建物の奥側にあるであろうこの部屋まで来てしまったことで余計に帰り道から遠のいていた。
 二度とここに来ることもないだろうからと、メモを書いてくれれば帰れると伝える。リズベットはわかりましたと二つ返事で手描きの地図を用意してくれた。
 几帳面に伸ばされた線と達筆な字に本人の性格を垣間見る。昨日今日しか関わっていないものの、悪い人間ではないのだろうと何となく想像できる。良い人間であるかは測りきれないけれど。
「今幸せですか」
 メモを渡されるとなって、唐突に尋ねられた質問に面食らう。
 なんで今幸せかとたった二日しか会ったことのない人間に尋ねらなけらばならないのかと思わなくもないが、五人の中でもその手の話について意見を交わした時間がふと頭をよぎった。
 仲間もいる。戦場に立つ誇りも捨てずにいられる。幸せとかいう本当にあるか証明できないくせに御大層な概念なんかなくたって生きていける。思い描かなくても、手に入れなくても今のままで十分満たされている。
「別に」
 そう答えて返ってきた反応は、
「どうして、」
 隠しきれない失望に塗れていた。
「どうして幸せになれるのにならないのですか」
 信じられないと、冷え固まった表情が象る。
「あなたがたを戦場に縛り付けたのは我々白ブタですから戦うななど侮辱に等しいことを宣うつもりはありません。ですがあなたがたはもう共和国を出た。それなのにどうしてまだ共和国に戦わされていたときと同じように未来を思い描くことを考えないのですか」
 怒りを堪えるように黒いグローブが拳を握る。
「一体いつまで――共和国に囚われているつもりで」
「ムカつくな」
 口を衝いた言葉はライデンの感情そのものだった。
「……どこがですか」
「俺らの前で手首切ってるのを見せつけてるのと同じだって言ってんだよ」
 目の前の女にそんなつもりはないのだろう。実際無意識だとライデンも感じているし理解もしている。
 だが。
 自分は幸せになれないのに。
 そう妬んで糾弾しているのが腹立たしい。
「勝手に憐れんで妬んで。俺たちが幸せになってれば自分の罪が許されるかと思ったか」
 ぐっと押し黙り、掴まれた右腕のジャケットに皺が寄る。その様子に、ないはずの鱗がさらに逆撫でられた気がした。
 共和国のしたことは一生消えない。免罪符にされるなんてまっぴらごめんだ。だからそんな傷付いた表情をされる謂れなんて――
「戻りましたー」
 打ち破るように開かれた扉とともに空気を読まない声が響く。
「……って。え、何この空気」
 食事から帰ってきた若い役人が部屋の冷たい雰囲気に腰を引き、女を見るなり眦を釣り上げた。
「ちょっとマイヤーさん。部外者はここにいれたら」
「……誰かに頼まれた資料を運んでいたところを助けてもらっただけです」
 あからさまに男がリズベットから目線を外す。音はしないが唇は白髪頭がと侮蔑に濡れる。
 礼だけ取りなしてライデンは部屋から出ていく。あの空間から抜け出したくて自然と足は早まる。
 もう二度と会うものかと数歩動いて、手の中にあるメモの存在を思い出す。あの女が書いたメモに従うものかと破り捨てたくなったが、今はこれがなければこの建物の玄関に辿り着くことすらままならない。
「ライデンくんおかえりなさい」
「……ただいま」
 簡潔かつ的確に書かれたメモのおかげでライデンはすぐにエルンストの家に帰ることができた。タッチの差で帰っていたアンジュが不思議そうにこちらを窺うのを通り過ぎて、自室に引っ込んだ。
 ぐしゃりと潰したメモをゴミ箱に投げ捨てる。道中で消えるだろうと考えていた苛立ちは道のりでまったく解消してくれなかった。
 体を投げたベッドの上で目元に腕を当てる。こんなにも憤ったのはいつ以来だと無意味に思い返す。
 憐れまれるだけなら何も感じなかった。これが世界の姿なのだと共和国にいた時も、連邦で生きるようになってからも割り切っていた。
 怒りという感情は多くの場合、本質に触れた反射だ。話の本質、関わっている人間の奥底にある本質。それらは繊細で丁重に扱わなければならないがゆえに無遠慮に触れられたときの反応がすさまじい。ぶつけられた側だけでなく、ぶつけた側も傷付くほどに強烈に。
 ライデンがあんなにも気が触れそうになったのは、リズベットという少女に自分の奥底を見抜かれたかもしれないという恐怖からだった。
 明日生きていればそれでよくて、仲間がいてくれたらそれで満たされて、今のままで十分幸せで。
 思い描いてもわからないと腫れ物を扱うように触れないでいることを、たった三文字で見透かされたかと思ったのだ。
 じゃあお前が教えてくれよと虚空に怒鳴りたくなったが、即座に理性がダメだと切り捨てる。出会って二日も経っていない相手に、しかも白ブタに掻き回されて答えを乞うなんて。追い詰められているからといってなりふり構っていなさすぎる。縋る選択肢として出してくれるなら藁のほうが何倍も心が軽かった。
 少女の傷付いた顔がフラッシュバックする。
 どうして、どうしてお前のほうが傷付いた顔をするんだ。
 彼女は白ブタで、ずっと自分たちに押し付けて、踏み躙ってきて。そう考えるたびに自分が被害者意識に立っていることを突きつけられて、更に苛立つ。
 もう関わらないだろう。
 彼女に会ったときから何度も頭に浮かぶ言葉だ。関わらないだろうという希望的観測を抱くどころか、もう関わりたくもないと嫌悪が混じっている。
 そのくせリズベットという少女はライデンに無視できない傷をつけた。


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