24

 登る朝日の隙間をくぐり抜けて、命からがら祖母たちの住む八区にたどり着く。見慣れた裏口の扉を煤と泥と皮脂で汚れた指先で叩けば、逸る足音が出 迎えた。
「あなた……!」
 喜色と安堵に緩み、そして抱えられたソレ・・を目にした途端、細身の身体は硬く凍った。
「ごめ、なさ」
 つっかえた謝罪にすぐさま我に返った祖母は、周囲を警戒しながら中へと引き込んでくれた。
「謝らなくていい。向こうの二人は」
「とうさんとおじいさま、は」
 枯れ果てたと思っていた涙がふたたび溢れ出す。こびりついて消えてくれないのに、いざ言葉にしようとすると喉奥でくぐもってしまった。
「――リズ?」
 ガタリと奥の扉から色褪せた白のショールの端がはためく。ふらふらと幽霊のような足取りなのに、白銀の瞳は妹だったものをずっと見つめていた。
「おかあさん、」
 会いたくて、今一番会いたくなかったひと。
 やがて目の前で立ち止まり、指先が伸ばされる。叩かれると身構えていたけれど一向に痛みは訪れることはなく、頬にある感触に恐る恐る帳を上げれば鋼鉄と評された表情がとても頼りない色をまとっていた。
「リズ」
「おかあさん」
 そして気づく。明らかな違和感があることに。
「リズ」
 頬に添えられていた手が左右の肩に滑り落ち、
「――ゆるさない」
 爪が肩に食い込んだ。
「お前のせいで」
「自分の娘に何を言っているかわかっているの!?」
 いつの間にか母は祖母によって壁に押しつけられていて、その光景を金魚のような呼吸で見つめることしかできない。
 三人が死んだのは。
 わたしのせい・・・・・・
 腕の中の妹が錨のように重くのしかかってきた。
 祖母の手を振り解いて、母が扉の外へ身を踊り出す。その光景にへたり込んでいた体に一時いっときだけ力が宿る。
「おかあさん!!」
 せめて父から預かった伝言だけはと後ろ姿を呼び止めてみたが、ついぞ母がこちらを振り返ることはなかった。

 本棚の陰で膝を抱えながら、指をひとつずつ折りたたんでいく。いい子にしていれば母は帰ってくる。きっとそのはずだ。これから望んだ理想の子になれば許してくれる。
 そんな幻想を今日も待つ。眠りを拒みながら。
 瞼を閉じると蘇る。罵声、悲鳴、暴力、悪意。そして託された願い。
 たとえ祖母が自分のせいではないと根気強く上書きしてくれても三人が死んだ事実が変わることなく、刻まれたものは切除する以外に癒すことはできない。
 三人を殺した軍人どもでさえ、消えやしない。
 頭皮に爪を立て、何度も掻き毟った。でも消えてくれない。それだけではない。あの場にいたひとたちがどんな服を着ていたか、色柄に形、どの位置にどのくらい黒子があったかなどすべて鮮明に覚えていた。否、覚えているなんて生易しいものではない。こびりついて剥がれなかった。
 自分から奪っていたもの、奪われたものを思い出させるすべての因子を忘れたいのに、思い出すたびにざくりざくり刻まれていく。
 見かねた祖母からウィッグと、ベティという名を与えられたのは強制収容が始まってから一週間も経ったあと。彼らと過ごしていくのなら相応の振る舞いをしていかなければならないと言った祖母の硬い表情に反して、自分の心は人工の黒に浮き足立った。これさえあれば、自分もあの輪の中に入れるのでは、と。
 淡い希望は部屋の外になかった。
 白色を持つ自分へ向けられる憎しみと拒絶の槍。同じ立場だと必死に伝えようとも、決して届かぬ断絶。
 二度と関わらないと、匿っている彼ら――エイティシックスと呼ばれるようになった彼らと生活の時間帯をずらしたことに祖母はいい顔をしなかったものの受け入れた。お互いのためを思うなら最善策だ。
 フラッシュバックと悲しみに蓋をするために本を読み、時折外から聞こえる同年代の子たちの声をBGMに日々をやり過ごす。それが正しくて、平和なのだと弱い心に刷り込んでいった。
「っ」
 窓を叩く規則的な音に潜り込んでいた意識から顔を上げる。祖母のところに逃げてきた直後、部屋に石を投げられることがあった。祖母に烈火のごとく叱られてパッタリと止んだのでそれ以来の訪問である。嫌な走り方をする心臓を握りしめ、恐る恐る窓辺に近寄っていく。
 鉄黒の髪が窓枠のなかでぴょこぴょこ跳ねる。
 匿われている子たちのなかで年長組の男の子だと気づくのに時間はいらなかった。祖母の叱り方に似た、叱り声を窓越しによく聞く。よく気がつく子。でも子供らしさもなくさないでほしいと願われていた、みんなの中心にいる男の子。
 どうしてとぐるぐると渦巻く困惑にたたらを踏んだせいで、本の角を机の角にぶつけてしまう。
 鉄黒の瞳がこちらを捉える。出た後の反応が怖くて、冷や汗と動悸が止まらない。けれども目が合ったのに挨拶しないのは失礼であると躾られていた四肢は、おずおずと窓を開けた。
「よっ」
 あまりの軽さに恐ろしさがその場に手足を縛った。
「……ご用件は」
「……ないっちゃあないけど」
 この部屋に誰が住んでいるか知らないはずがない。もし単なる好奇心でここまで来てしまったのなら、拒絶しなければならない。
「あることないこと言われたくないなら早くもどって」
 言葉が強くなってしまったが、紛れもなく心からの祈りであった。自分に関わってしまったせいで誰かが傷つくのは許容できない。
「それ」
 抱えていた図鑑を彼は顎でしゃくる。
「本物見たくねえか?」
「……ほんもの?」
「自分の目で見たもんのほうが絶対いい」
 そう言ってライデンは視界から消えた。体調が悪くなったのではと慌てて窓の外に乗り出せば、目の前に瑞々しい緑がいっぱいに芽吹いた。
「やる」
 三つ葉のクローバーに、白い花。
 向こうの家で暮らしていたときに、四葉のクローバーを見つけようと祖父と一緒に散策した記憶がある。地べたに顔を近づけ、小さな虫たちに驚き。初めて知る土の感触と草の香りに心を躍らせ。あの後は結局四葉を見つけられたのだったか。
 三人を喪い、ある一人からは拒絶されて以来、家族との思い出に浸ることすらできなかった。思い出したいのに、思い出すのは別れのときの顔ばかりだった。
「……ありがとう」
 四つ葉にしない無頓着さがいかにも男子らしい。励まそうという意図があったとしても、まさかずっとできていなかったもういない人たちへの哀悼の後押しをしたなんて想像すらしてないだろう。
 それでいい。そこまでこちらの背景を背負わせたくない。
 まだ傷は癒えないけれど、今やっと優しい思い出のなかで家族を蘇らせることができた。
「ありがとう」
 きっかけなんてそんな小さなことだった。
 少しずつ外に出るようになってから、他の子たちから話しかけてくれる機会も増えた。ライデンと時々話しているのを遠くから見ていたのだろう。ライデンが人の目を盗むように逢瀬を重ねてきていたらまた結果は異なったのだろうが、さっぱりとした性格の彼は毎度衆目を気にせず会いに来た。
 それでも視線はあいも変わらず怖かったし、劇的に状況が変わることもなかった。都合のよすぎる未来を望んでいなかったので何とも感じていなかった。ただ行くあてのない怒りの矛先になることが少なくなかった。
 お前のせいで両親が連れていかれた、何故両親が死んでお前が生きているのか。
 自分のせいではないことも、相手が苦しんでいることも理解していた。その上で粛々と受け止めていた。
「んなの知るか。たまたまだろ」
「たまたまって……たったそれだけで納得できるかよッ」
「じゃあどんな理由だったら納得するんだ」
「っ、それは」
「納得できねえからって八つ当たりするのは弱いヤツがやることだ。だからガキって言ってんだろ」
 間に入ってくれるたびに疑問がついて回る。どうしてライデンはこんなにもブレることがないのだろう、と。たとえ私個人だからではなく、祖母の大事な家族という位置づけがあったからだったとしても、並大抵の、それも十代そこらの少年が丁度いい生贄を前にして当たり散らかさないのはかなりの胆力を必要とする。私に噛み付いてきた彼らが当たり前なのだ。
 一瞬だけ飲み込むようにライデンが眉を顰める。しかし瞬きの隙間に険しい表情は跡形もなく霧散していた。
 ブレることのない強さだけで彼はできているのだと思い込んでいた。だからずっと憧れていた。それがたった今覆された。強いとは自分の中にある弱さを自覚し、たとえ暴れそうになったとしても調伏させる。
 劣等感に似た靄に嫌気がさす。どうしてこんな風になれないのだろう。きっと生まれが違う、とそこまで考えて自己嫌悪に苦しめられる。
 誰に話したとしても解決しない、寧ろ迷惑なこの感情を隠して、箱庭を崩さぬよう、黒い羊はそっと息を潜めていく。彼らが不自由のなかでも幸せに生きていけるのなら、いくらだって我慢できる。
 箱庭が箱庭でいることを時間は許さなかった。
 裏門からそっと音を立てずに帰ってくる。祖母のお使いで街から帰るときのルーティンは、続けて裏の玄関に置いてある黒のウィッグに手を伸ばさせた。ただ今日は調整が上手くいかず白の地毛がなかなか入らない。
 天気や体調が悪いのかとやっと嵌った直後、子供たちの悲鳴が遠くから湧き上った。
 お使いの品が入った紙袋を投げて、慌てて震源地へ走る。そこでは家族を殺したやつらと同じ色の軍服が学校を蹂躙していた。
「まだ残っていたか」
 しまったと思ったときにはすでに腕を掴まれていて、外へ引き摺られていく。門の外では祖母が軍人に縋りつき、級友たちが泣き叫びながら次々と載せられていた。
 怒りで頭に昇っていた血がサッと引く。収容所に連れて行かれるのだと悟った身体は必死に捩ったが、反動で被っていた黒のウィッグが落ちてしまう。
「なんでカツラなんか被って……ああそういうことか」
 隙をついて、ビニール袋みたいな扱いをされたウィッグを軍人は拾い上げる。
「溶け込もうとしたのか? 涙ぐましい努力だな」
 いいことを教えてやろうと、嘲りに唇を歪めその男はしゃがみ込む。
「お嬢ちゃんがどんなに頑張ってもお嬢ちゃんはブタどもにはなれねえんだよ」
 腐ったアルコールの吐息に体の芯が冷たくなっていく。
 どんなに白系種ではないと振舞ったとしても、自分は他人を犠牲にして無自覚に生きる白豚である事実から逃れられない。
「どうして、連れて行くの」
 静かに奈落へ狂っていく頭がずっと抱えていた質問が零れる。
「みんなが何をしたっていうの。何もしていないじゃない!」
「生きてるだろ」
 その問いを投げかけたこちらがさも悪いような言い方に思考が停止する。
「何もしてない上に生きている。それ以上悪いことがあるか?」
 細く残っていた理性がねじれていく。
「ゆるさない」
 気づいた時には、男の脹脛に爪を立てていた。
「こんの……!」
 振り払おうとするがしがみつく。ついでに歯も立てる。
「クソガキッ!!」
 石畳に放り出され、鳩尾には革のつま先が、頭には踵が何度も襲いかかってくる。
「今のお前に何ができる! エイティシックスを使い潰している同類のくせに!!」
 ゼェハァと情けない息切れを後目しりめに体を起こす。
「許してたまるか」
 自分と違う何かが存在しているだけで悪だと宣う思想を理解するのは諦めた。同じ人間だと思いたくない。あるのは煮え滾る憎悪のみ。
「……できるもんならやってみろ」
 無理だろうがなと去っていった男の背を、視界から消えるまで睨みつけた。
「ベティ……?」
 土煙の幕の向こうから、祖母がはじめて認識したように名前を呼ぶ。
 それまで忘れていたように。
「今の車追いかけてくる」
 傾いた天秤から目を逸らすように、車が走っていった道を追う。
 血の繋がった孫より、情熱を注いだ彼らのほうを気にかけるのは仕方のないことだ。彼らの方が祖母といた時間は長いのだから。
 最後に落とされたおもりで蹴られた箇所が疼く。あそこで抵抗しないで大人しく連れて行かれればよかった。そうしたらこんな足元が覚束ないような、居場所がないような苦しい気持ちに気づかなくて済んだ。
「向こうに行ったらどんな扱いを受けるかわかって言っているの!?」
「わかってる」
「だったら!」
「でもここであんなヤツらと同じだと思いながら生きていくなら、みんなのところに行く」
 悲しいのに笑いが零れる。助長させるのは必死に引き止める祖母の滑稽な姿だ。今更取り繕われたって決まってしまった心はそうそう変わらない。
 パンッ! と玄関前に響いた破裂音が遠くに聞こえる。家族に手を上げられたのは初めてだなと、痛みがジワジワ広がる頬を指先で撫ぜればそのまま腕を引かれた。
「来なさい」
「嫌」
「ベティ」
「嫌だってば!!」
 こちらを見ようともしない祖母の腕をがむしゃらに振り回す。けれども子供の抵抗虚しく、そのまま祖母の私室に連れ込まれてしまう。
 これから何をされるのか。嫌な予感に身体を震わせていると、机の引き出しから一枚の紙切れが取り出され――凍りついた。

 リズベット。

 知らない、そのくせ似た音が我が物顔で記載されている。
 空白の父の欄と、知らない誕生日。合っているのは母の欄と生まれた年だけ。
「生きなさい」
 父と同じ言葉が絡みつき、力が抜ける。ベティと呼ばれたあの時から結末はもう決まっていたのだ。
「……わかりました」
 顔を上げ、同じ色を仰ぐ。
「大ッ嫌い」
 引き攣った祖母の表情は到底この絶望の足しにはなりやしなくて、歪んで戦慄く唇を噛み締める。
 父をいないものとした。私の名前を奪った。そして最も嫌いな種族として生きることを強要した。人としての死でないと、どうして言い切れる。
 どう足掻いても白系種として生きていかねばならないのなら、お望み通り畜生にも劣るクズの一員として生きてやる。生きて生きて、仲良くこの国全員焼き尽くしてやる。
 卑怯にも生き残った自分ごと。


「っ」
 撃たれた右肘がじくじくと痛む。感覚があるだけまだ上々かと歯を食いしばる。歩きながら気を失い、その間に嫌な過去を思い出していたなんて器用だなと自嘲する。ペンローズ大尉にもらった痛み止めはかなり強力だったらしいが、効果が切れると代償も大きいようだ。
 彼女の適切な処置のおかげで傷口から細菌が入ることは今のところ防いでいるものの、痛覚がなくなったらいよいよ切り落とす覚悟を決めなければならないなと、傷口を左手で抑えながらぼんやりと考える。戦闘において使い物にならない腕なんて今ここで切り落としたって構わなかったが、戦闘以外で役に立つこともまだあるかもしれない。まともな治療も受けられず助からない命が多くある中、手当てをしてもらったことを鑑みれば自分は大層運がいい部類に入る。
『心残りがあるならそちらに行って構いません』
 ひと房だけ真紅に染めた大尉の言葉を反芻する。
 戦局全体にかかりきりだった彼女は一人ひとりの事情なんて思考を割く暇はなかったはず。だから見抜かれていたことに驚きを隠せなかった。
 置いてきたひとのこと。ここにいてと縋ってくれたひとの手を解いたこと。
 心残りを盾にこちらが戦場から足を洗わないと露ほども疑っていない瞳は今でも鮮明に刻まれている。
 辛うじて大通りであっただろう歯並びの悪い道を背に、目印となる建物も更地になった場所を見下ろす。
 瓦礫ばかりでここだと確信を持って言えなくてもおかしくない。しかし、しばしば通っていた道を今更目印がなくなったくらいで忘れたりはしない。
 幸いにもシェルターの扉はすぐ見つけることができた。幾度と見た鋼鉄製の扉は重く、枠も歪んでいる上に力を入れられるのは片腕のみ。やっとの思いで扉が開き、地下へと通ずる石造りの階段を下りていく。かすかだけれど空気の流れがある。きっちりした造りにしたものだと、家主の真面目さに苦笑いしてしまった。
 アレクに再会できたらなんて言おう。アレクの安否を確かめることが主なことであるけれど、それと同じくらいにアレクに話したいことがあったのだ。
「……は」
 目の前の現状を噛み砕くのにどれくらい時計の長針が進んだことだろう。
 想定していたより多くの人間が逃げ込んでいた。お人好しのアレクの家のことだから近所の人を受け入れたのだろう。大勢を助けたいと言っていた。
 土埃が漂うのも二ヶ月もまともに換気できていなかったことや、戦闘の衝撃でところどころにガタが来ているせいだと判断できる。
 だがこの有り様はなんだ。
 食い散らかされた缶に、転がるガラスの瓶。
 思わず背を向けたくなる腐臭。
「っ」
 横たわる人だったモノは肌におびただしい数の痣を抱えていて、シェルター内で何が起こったのかをようやく理解した。
「ッ!」
 後頭部に食らった衝撃に意識が一瞬飛ぶ。
 何が起こった。
 いいや、頭はわかっていた。だが戦闘で疲弊した心は理解したくないと叫んで、現実を直視することを拒んだ。
 不衛生な床に肘をつき、頭を擡げる。自分を睥睨する複数の目。そのどれもが虚ろで、排気ガスを含んだ濁りを持っていた。
「っ」
 仰向きにする手から咄嗟に右方向に避けた。それが運の尽きか。床に散らばっていたガラスの破片と缶の蓋が右肩に食い込み、激痛に動きを止めてしまった。
 その瞬間、ケモノたちと目が合う。
「――ッ!!」
 本能の警告を上塗りするように服の中を不届き者がまさぐる。脂まみれで塗装された指先に嫌悪で悲鳴が迸ったが、男たちの掌に吸い込まれてどこにも届かず消えていく。
 圧倒的な暴力に軍人に歯向かって取り押さえられた幼少期が引き摺りされる。無慈悲である分だけ〈レギオン〉の方がまだマシだと錯覚しかけた視界に、見知ったひとはいた。
「っ、アレクッ!」
 ずっと安否を心配していた友人の姿に安堵し、その恒星の名前を叫ぶ。
 しかしこちらを眺めていた瞳に光はなく、言葉もなく逸らされた。
「アレ、ク……」
 浅ましくも伸ばした腕はふたたびタイルに縫い付けられ、そして蹂躙は始まった。

 ――嫌ダ、やメて、おネガイ、キもチ悪い

 言葉になり損ねた叫びが自分の喉を突き破る。振り乱した髪がその音を掻き消すも、痛みによって高低がついた音は真っ白になった頭を嘲笑うように響く。

 ――ねえ、わたしのかみさま。
 ――これが罰ですか?

 定まらない焦点のなか、生理的な涙が眦から零れる。
 戦って、戦い抜いた果てがこれか。
 揺さぶられながら蓄積していく痛みと怒りは、やがて螺旋を描きながら細く鋭く矛先を探し始める。
 どうして。
 誰のせいだ。
 誰が悪い。
 そうして研がれた激情はある糸口に辿り着く。
 覆い被さっている男の腰を膝頭でそっと擦る。拒絶を肴に涎を振り回していた何周目かの男は享受への変化に興奮し、首に鼻先をすり寄せてきて――

 その瞬間、喉元を喰いちぎった。

 血の味が口の中で花開き、のしかかっていた重さが消えたと同時に罵声と絶叫がのたうち回る。

『子供に何を物騒なこと教えてるの!』
『いやあ、こいつの飲み込みが予想以上に早くてつい』
『ついじゃないのよ、もう……』
『ごめんごめん。嬉しかったんだ。優しくて、頭が良くて、運動神経もいい。正真正銘、君と俺の子だよ』

 声なんかとっくに忘れ去ってしまったはずの両親が脳裏で鮮明に笑う。優しくて、穏やかで、泣きたくなる記憶にごめんと届かぬ謝罪を告げる。
 束縛から逃げ出し、硝子の破片を掴むと一番近くにいた獣の急所に突き刺す。
 声もあげる暇もなく、ただ血が舞い散る。そこでやっと男たちの目に怯えが宿った。自分が狩る側ではなく、狩られる側だと悟ったのだろう。恭順の意を示す手もなく、自分たちより力のない女から後ずさるだけ。
 虫螻の断末魔が沈黙の餌になるには時間はかからなかった。
 掌にどろりとした液体が伝う。素手で硝子を握れば皮膚が切れるのは当たり前だ。痛みがいつまで経ってもやって来ないのを違和感を抱くがどうでもいい。
 つま先に硬い感触がぶつかる。取り上げられていた銃だ。もう一生手放してはいけないなと戒めながらスライドを撫でる。
 殺気が背後に立ったのはそのときだった。
 手負いの獣が見せる、最期の一擲。
 殺し損ねたことの反省はしなかった。脅威は今ここで屠るのみ。
 振り返りながら引金に指をかけ、黒い影に銃口を定める。刹那、右肩を強く引かれその間に影が腕を広げて滑り込んだ。
 薬莢が甲高く跳ね、砂袋が間を空けて二つ落ちる。ひとつは床に落ち、もうひとつは体に凭れかかってきた。
「アレク?」
 静寂が肺に染み込んできたあと、ようやく事実を飲み込めるようになる。
「ど、して……」
 アレクの胸元が赤く一点を中心に染まっていく。誰がやったなんて、そんなこと。
「嫌、」
 頭の靄が晴れていき、指先が思い出したかのように震え始める。
「いやよ。ねえ、嘘だって笑ってよ。ねえってば」
 あの日からずっと零したことのなかった涙が溢れ出る。
「おねがい、ひとりにしないで」
 置いてかれていくばかりの人生だった。家族からも、友からも。
「おねがい、ひとりはいやなのっ」
 あなたは約束してくれたじゃない。
 待っている、と。
 あなたまで私を置いていくのか。
「一生傍にいるからっ!! だから私をひとりにしないでッ!!」
 何でも言うことを聞くから、もう何も奪わないで。
「――…………ゆ……る…………さ、な……い」
 涙が弾ける。

「し……あわ、せ、に……な――…………っ、たら」

 二ヶ月も履き続けて皮脂で固くなったズボンを赤が染め上げていく。汚れたタイルに広がっていく漣はいつの間にか止まったいた。
 アレクの痩せこけた頬を撫でる。腕や太腿、腹部など見えないところも同じようになっているに違いない。よく見れば殴られた痕もあった。
 犯してきた彼らも精神的にも肉体的にも追い込まれていた。二ヶ月、ここにある食糧だけでこの人数の空腹をしのげるわけがない。自分とアレクが想定していたのはせいぜい三人程度だ。
 わかっている、そんなことはわざわざ言葉にして羅列しなくともわかっている。彼らだってここまで追い込まれなければ理性的な判断を下したことくらい想像できる。
 ――共和国のブタどもにそんな理性が元々あれば、の話だが。
「いこう、アレク」
 情婦の赦し、あるいは天使の睦言。
 秘密を無邪気に共有する年端のいかぬ少年少女のようにアレクの耳元で囁く。
 クズどもを許せるわけがない。けれどそれ以上に許せなかったのは自分だ。守れなかった、助けられなかった。
 殺してしまった。
 自分を優先したのがすべての原因だ。あなたを蔑ろにした報いは受ける。でも今、この場所ではない。
 かすかに残る体温がこれ以上奪われないように抱き締め、全身の力が抜けて重くなった体躯を肩に背負う。
 階段を登りきった先の外は死の臭いで溢れていた。だが今更顔を顰めることはない。鼻を覆いたくなるほどの腐臭もこの二ヶ月で慣れてしまった。
 見上げた空の向こうに航空機らしきものが飛んでいた。もしかして生き残っていた国が他にもあったのだろうか。たとえ億が一あったとして、他所の国がこの国の愚行を知ったらきっと差し伸べた手を引っ込めたくなるだろう。
 善良な市民という随分と分厚い面を被った豚ども。
 滅びてしまえ。
 自分から大事なものをすべて奪っていった共和国なんか、土地も功績も誇りも命も何もかも失って、跡形もなく消え去ってしまえ。
 灰色の空を仰ぎながら怨嗟を吐く。今ならあのとき泣き叫んだ祖母の気持ちも真の意味で理解できた気がした。叫ばないと形を保っていられなかったのだ。
 ふと猫の声が耳に届く。なんと運のいい猫だと薄ら笑みが零れる。猫よりも強い個体である人間がことごとく塵のように踏み潰されているのに生き延びるなんて、この世界もなかなか酔狂なことをするものだ。
 一体どんな気まぐれだったのやら。
 アレクを置いて猫の声がするほうへ歩き出す。それくらいアレクは許してくれるだろうとガラクタの道を踏み進めていく。
 瓦礫の麓でひとり、赤ん坊が泣いていた。
 なぜ、どうして。一気に混乱する思考なぞお構いなしに泣き声は止まない。まるで懸命に泣くその声が生きたいと願っているようで。
 もういないあの子を重ねてしまったときには手が伸びていた。
 赤ん坊を瓦礫の麓から動かす。細腕の揺籃は何に代えてでも我が子だけは守るという意思があって、取り出すのに苦労した。
 上がった息を整わせ、揺籃の主を一瞥する。わずかに覗く女性の瞳は濁っていて、服も乱されてところどころ破れている。傍に落ちている食糧と、考えたくもない汚れが身体に刻まれていることから本当は目を逸らしたかった。けれど母親の想いを無下にするほど人間として削がれていたくないと、そっと左の薬指から指輪を抜き取り、焼け焦げたレストランのオーニングをその体にかけた。
 ともあれ、早く赤子に食事を与えなければと踵を返す。このままでは赤ん坊は衰弱してしまうことは確実だ。母乳や粉ミルクを与えられるのが一番だろうが、生憎本物も代替物もない。
 ――いや、あるか。
 アレクを背中におぶって、落ちないように紐で自分の体と一緒に縛りつける。赤ん坊はいまだ健在の左腕に抱いていけば問題ない。シェルターから引っ張ってきた他の荷物は代替可能なものばかり。
 この子だけは、この子だけでも生かさなければならない。その一心でむくんだ足を動かした。
 まずは食料を調達する。隣のギアーデ帝国、もといギアーデ連邦の救援があると道中にて情報を得ていた。
 人の流れを追いかけて補給所で自分の食料と、粉ミルクを受け取る。未成年が赤ん坊を背負っているという状況に不躾な目線に晒されたが、いちいち気にしていられない。何としてでも赤ん坊を生かさなければならず、ここで倒れる訳にはいかなかった。
「貴女」
 呼び止める女性の声に振り返れば、黒の軍服に赤いネクタイと、悲しくなるほどの様々な彩りがそこにあった。
「どこに戻るの」
 そんなもの、アレクのところに決まっている。そう言ったら、その光景を見たときに目の前の鮮やかな色彩はきっと不快に歪むのだろう。
「若い女の子と赤ちゃんだけじゃ危ないわ。補給所の近くに移った方がいい」
「おい」
 追いかけてきたであろう男性の軍人が咎める。女性の軍人とは対照的に、こちらを見る色には嫌悪が浮かんでいた。
 女性の軍人は戦争で女がどんな扱いをされるのか分かっているから声をかけてくれたのだろう。世界はクソッタレでも悪い人ではない。そのことだけ感謝して、頭を下げて去る。
 何度も供給所に通った甲斐もあり、必要最低限の情報は得られた。
 飛行機が来ているということはすなわち、飛行場があるということに他ならない。考えてみれば至極当然のことではある。けれども〈レギオン〉に制空権を奪取されていると以前いた戦隊から聞いていたため、少しばかり驚いてしまった。
 建物の陰から向こう側を覗く。
 軍の輸送機がはらわたを無防備に開けていた。
 連邦に密航するなんて馬鹿げた計画だ。恥も捨てて縋りつく白ブタに連邦軍がどういう反応を示すかなんて火を見るより明らかだ。一方で共和国人が集まるコミュニティに行ったとしても、まともな扱いをされる可能性はゼロに等しい。自分は我慢できるけれど、この子がされたらどうなることか。
 深呼吸をする。確信に似た想像で情けなく身体が震えている。
 一か八か。
 昼休憩の交代の隙間を狙い、補給物資が空になった木箱に紛れて乗り込む。
 アレクの腐臭、それとも赤子の鳴き声。万が一離陸する前に発見された場合に備えて、輸送機の腹付近に身を隠した。しかし二つの時限爆弾がいつ爆発するかわからない。
 痛いほど脈打つ心臓と二人を抱え込む。
 飛行間隔と機体番号は数日間の張り込みで押さえている。この機体が整備のため共和国に戻ることはないことも。
 足音、話し声、エンジン音。
 ハッチが閉まり、間を置いて重力から逃げていく感覚が体を包む。
 ようやっと止めていた息をすべて吐き出す。ハッチが閉まってしまえばこっちのものだ。遅かれ早かれ密航が露呈するだろうが、まずは第一関門を突破した。今は休めることに心から感謝するべきだ。
 緊張から解き放たれて強烈な眠気に襲われる。起きた後の交渉など詰めなければならないことが山積していたが、眠りに誘われるまま藁に沈み込んでいった。

 彼方で赤子の鳴き声が聞こえる。
 泣かないでと祈っていた手を解く。その子は私の大事な子なの。守らなければならない、たったひとりの――

 全身の強い痛みで意識が覚醒する。地面に叩きつけられたのだと、頬にあたる大小のある凹凸を睨みつける。
「どうすんだコレ」
「上に報告するしかねえだろうが」
「だが――!」
 共和国の発音と些か異なる抑揚が何やら揉めている。
「ここは……何処ですか」
 第二関門の前かと叱咤して、肘をついて体を起こすと連邦軍の整備兵や操縦士が皆一様に口を閉ざす。
 答えられないのはわかっていた。それがなによりの裏付けで、欲しかったものだった。
「どうか上役の歴々にお取次を」
「……一体なんのつもりで」
「……」
 素直に『助けてほしい』とは口が裂けても言えなかった。この痛いくらいの嫌悪が返してくる反応くらい馬鹿でも想像がつく。
「とある家門の縁を探しに」
「なんの騒ぎだ」
 当たり障りのない答えをかぶせるように、厳のごとき声が降りかかる。
 人を寄せつけない鋼色に、酸素を喰った鮮血のネクタイ。黄土色の肩章にある星と、銘々の略綬が共和国に派遣されてきた軍人とは桁外れであった。
「共和国の白系種が荷物に紛れ込んでおりました。密入国を謀ったかと」
「戻せ」
 問答無用の命令に黙る下士官たち。その割れた波間にアレクの姿を見つける。
 このままでは終われなかった。
「エーレンフリートという名字の御方を探しに参りました」
 佐官が足を止める。それだけで成果は充分だ。
「知らないな」
「夜黒種の、と言えば絞り込めますか」
 どうして白系種が名前だけでなく人種の系統まで知っているのか訝しがるのも無理もない。だがこちらにとってその反応は悪手だ。
「――エーレンフリートは俺だが」
 鋼色の人波を分けて出てきたのは、切れ長の目の青年とも呼べるような男だった。
「准将」
「マイヤーという家門をご存知ですか」
 父方の祖母が帝国出身、それも貴族であることは父から聞かされていた。年齢としても祖母が祖父と逐電したことくらい聞き及んでいるだろう。
「祖母の生家と言えば伝わりますよね」
「……なるほど」
 願ったり叶ったりの出現に一瞬でも浮かれた心をとりなす。期待は禁物。けれど本能は一縷の希望に賭け、わずかに緩んだ拘束から抜け出した。
「お願いです。この子をお助けください」
 擦り切れた膝に金属の凹凸が食い込む痛みに耐え、鼻先を冷たい床に擦り付ける。爪が割れ剥げ、赤黒く潰れた指先が視界に入る。
 赤ん坊を人質にしている自覚はある。連邦を試している自覚もある。でもそれが根本の理由じゃない。
 助けたかった。もういない妹と同じ歳の子供を助けたくて。自分勝手な禊にも等しい愚かな行為だと理解しても、そうせずにはいられなかった。
「貴様らがしてきたことを理解してなお助けろと言っているのか」
 エーレンフリート家の彼――ではない横槍が出てくる。エーレンフリート家の彼の父親世代、もしくはそれよりも上に見えた。
「……だからこの子だけと」
「無理だな」
 取り付く島が猫の額ほどあったらよかった。
「お願いです。何でもしますから」
 我ながらみっともない口上に案の定嘲笑がどこかから漏れる。
 第三者から見たら虫のいい話だろう。迫害してきたのに助けろなんて厚顔無恥にもほどがある。それでも退けなかった。
「これだから白髪頭は。元の場所に戻せ」
「っ、私はどうなっても構いません! だからどうかっ!」
「そこの死体も捨て置け。ああ、衛生面は考慮しろよ」
 我が意を得たりと佐官は陸に打ち上げられた鯨のようにピクリとも動かないアレクと、ぐったりした赤子をどこかへやろうと指示を出していく。
 大事なひとから引き離されていくのを、二人ががりで引き摺られながら何も出来ずに見つめることしかできない。
 あのとき家族が殺されていく場所から逃げた自分が重なる。また私は同じ過ちを繰り返すのか。
「赤ん坊はどうしますか」
「その女と一緒に共和国に戻せ」
「しかし」
「恨むなら親の業を恨め」
 引鉄は無情にも引かれた。
「――今なんと仰いましたか」
 巌が不機嫌なまま視線を寄越す。
「右も左もわからない子供が死ぬのは親のせいだと、仕方のないことだとそう仰いましたか?」
 乾いた唇からひび割れた声が血を吐く。
「私たちがそう思われるのは当たり前のことです。甘んじて受け入れます。でも親の罪を背負っているからと、産まれたばかりの子も死んでいいと?」
 そんなことで死んでいいと? だったら妹が死んだのは仕方ないことだと?
「ふざけるな」
 自分でもこんな低い声が出せるのかと疑うくらいの唸りが漏れ出る。向けられた銃口らをあの日の白ブタどもと同じ大人たちのように睨みつける。
「結局貴方がたも白ブタどもと変わらない。他者を色だけで判別して、その人物が為したことには蓋をする」
 わずかに気色ばむ空気に、呆気なく引き金を引いたのはどちらだと心の底で詰じる。
「そもそもあなたがたが〈レギオン〉をちゃんと制御していれば、レギオンなんか作らなければ、戦争なんかしなければ、門閥貴族が国のために諫言をしていたらこんなことにはならなかった!」
 棚上げだと言われても構わない。だが腹に溜まっていた怒りが噴き出すのを止められない。
 戦争なんてなければ、エイティシックスと分類された彼らへの迫害なんて起きなかった。戦争を止める手立てを持っていたにも関わらず、何も施さず傍観していた旧帝国の貴族どもに言われる筋合いはない。
「ゆるさない」
 子供が親世代の罪を背負う必要なんてない。もしそんなことがまかり通る世界なら、
「こんな世界、滅ぼしてやる」
「――奇遇だね。僕も同感だ」
 深く、明朗に、体の奥底までに行き渡るその声を一生忘れはしないだろう。
「閣下」
 白髪が混じる黒髪の壮年の男性は、慇懃に自分を窘める声を無視して近づいてくる。
「物心ついている君のような青年世代は一万歩譲っても、生まれたばかりの子供まで死んでしまえと言える世界なんて存在する価値なんてないよ」
 声だけ聞けば微笑んでいると信じただろう。しかし眼鏡の奥で光る目は露ほども笑っておらず、自分の目の前にいる人物がいかほどの人物であるか本能が正確に警告してきた。
 獅子の咆哮すら捻り潰す圧倒的な力。
 竜。
 それも人を滅ぼす、火の邪竜ファヴニール
 嫌な汗が手のひらに溜まっていく。息も浅くなっている。それでも目を離すことは選ばなかった。
「君の話を聞こう」

 エルンスト・ツィマーマンと名乗った男性はギアーデ連邦元首、大統領の地位を持つ男であった。彼主導による聴取で、赤子は連邦に長く住んでいる白系種の夫婦のもとに、少女はエーレンフリートの家で一時身元預かりの措置に落ち着いた。
 書類上の兄として、あの場に居合わせたヴィレム・エーレンフリートが後見人を務めることになったと聞かされたのは、彼自身生家にいる頻度が低いという理由で移されたエーレンフリートの分家だった。
 エーレンフリートの邸宅で待っていたのは放置と変わらぬ生活だった。共和国の白系種を受け入れたことに加え、稀に見る高待遇。しかし実情なぞ薄っぺらいもので、広大な敷地で散歩をしても誰も咎めない放任だった。積極的に外界と関わる気もなかったからいい。ただあの子だけが幸せに生きていればいい。無為に日々が過ぎたとしても大勢たいせいに影響はない。
 幻想はものの一週間で崩れ去った。
 ある日突然部屋の扉が無許可に開け放たれ、そのまま独居房のような部屋に連れていかれた。机と椅子だけの空間に無機質な機械みたいな軍人が加わって一層息苦しさを感じたところに、彼らは今まで見聞きしたものすべて吐き出せと脈絡もなく言い放った。
 エーレンフリートの使用人は優秀だなと遠く感想を放り投げる。見たもの聞いたものすべて記憶できることをこれまでの自分の挙動から汲み取ったのだろう。
 たかが一端の子供の見聞なぞ取るに足りないはずだが、との疑念はすぐに解消された。連邦は各第一戦線に破棄されていたエイティシックスたちの生年月日といった本当の戸籍がほしいと続けた。共和国と戦線を繋いでいた主要な補給基地はほとんどが全壊していて、連邦が獲得できたものはわずかばかり。ほんの少しの詳細でもほしいようだ。彼らが存在していた証拠になればと、自分の持っていた北部戦線に置かれていた彼らの情報はすべて連邦に伝えた。
 連邦の知りたい情報は伝えきっただろうとようやく背もたれに体重を預けられたのも束の間。共和国の政治、経済、軍事。文化、風習、医学、工学、哲学。一分野綴ったら、また次の分野と、来る日も来る日も尋問のごとく部屋に拘束され、大侵攻で焼失してしまった国立図書館の蔵書および廃棄されたはずの機密書類の中身を吐き出す毎日が始まった。
 本当にほしかったのはこっちかと休憩の隙間に溜息を吐く。北部で戦った彼らの生きていた証なんて前座にすぎなかったのだ。
 そのことに憤りや悲しみを感じることもない。理不尽に対して感情を動かすことはあの時以来億劫になっていた。
 だって何も変わらない。何度哀願しても聞き入れられない。心を砕く一方なんて空しいだけ。目標はすでに達成された。未来なんて要らない。
 そんな日々にあのひとは突如現れた。
『迎えに来たよ』
 差し伸べられた手は連邦に来てから触れたどの手よりも優しくて、気がついたらその手にすべてをのせていた。
 底知れないひと。それがマイヤー卿への印象だった。
 優しいひとだと思う。困ったように笑う表情が今はいない父親の面影に似ていた。引き取られて最初の頃は視線が合うのを避けるくらいには。
 ただ同時に、瞳の奥底に空虚も感じていた。暴徒化した市民・・に妻子を殺された話を直接聞かされたときは、瓜二つだと納得したものだ。大事なひとたちを奪われ、その穴を埋めることもできず、ひたすらに息をするだけ。そんな二人の日々が傷の舐め合いであることはお互い口に出さずとも理解していた。
 監視のデバイスはマイヤー卿の奥方がつけていた婚約指輪と、アレクが最期のときまで愛用していたスタッドピアスに取り付けられた。死んだ人間の重みと、罪を忘れないでいられる痛みはうってつけだった。
 日の短さが目につき始めた頃、少しずつ混乱から脱却しつつある省庁で勤めないかとマイヤー卿から打診された。元々役人志望だった話をどこかのタイミングでしたのを覚えていたのか。真偽は定かではないけれど、無職でいることに後ろめたさが強くなっていた時期であったのでちょうどよかった。
 役人として志願してきた共和国出身の白系種に白い目が向けられることは覚悟していた。嫌がらせを受けたとしても、このくらい当然だと受け入れれば何も痛くない。それよりも酷かったのは、少しでも気を抜くと背後から聞こえる囁きだった。
 ――どうしてお前だけ。
 自分が作り上げたノイズだと脳に言い聞かせる。どうしてだなんて、わかっているようで不透明だ。かつて祖母の学校で投げられた幼い八つ当たりと一緒だ。だからやれることをやる。それしか自分にはないのだから。
 絡みつく怨嗟を掻き消すように、朝も夜も働き通した。人としての誇りを穢すような命令も中にはあった。だが大抵はすんなり頷くと決まって青ざめた顔でなかったことにされたので、実際手を染める大事には至らなかった。
 ずっと戦場だった。
 向けられる悪意は容赦がない。弱みを見せればこれ幸いにと嬉々として甚振ってくる。殴ってもいいという状況をお膳立てされれば誰だって免罪符を棍棒にする。
 そんな目に遭うことは許容できても、無様なところは見せたくなかった。ここにいると決めたのは自分なのだから弱音なんか吐けない。弱みを晒した瞬間にもっと加速する。そもそもここには味方なんていない。
 そうやってヤマアラシのように向けられるすべてに神経を配って。

 ライデンに再会した。

 最初は彼だと気づかなかった。今にして思えばいくら勤務地を転々としていたとは言えど、彼らを保護したというニュースを何処かしらで目や耳に入れているはずだ。しかも実名は公表されていたし、大統領の自宅に同年代が現れたら気づかないほうがおかしい。
 名前を聞いて動揺するこちらをよそに、彼は何も覚えていなかった。
 それでいい。穏やかな記憶に引っ張られるように悍ましい記憶も思い出してしまうのなら、いっそのことすべてなかったように漂白されていたほうがいい。たとえ自分だけが覚えていることになっても、彼の幸せを邪魔していなければ十分だった。
 けれどライデンはこれからの幸せを考えていなかったと知ったとき、悲しみとそして同様の妬ましさに身が焦がれた。
 どうして。幸せになる権利をあなたたちは持っているのに、どうして諦めるの。見ようともしないの。
 私が諦めたくなくても諦めたものを、どうして価値のないものだと捨てることができるの。
 私は二度と望めないのに。
 カッとなって八つ当たりした私を、ライデンは傲慢だと冷たい瞳で見下ろしていた。
 目が覚める思いだった。
 一体いつから自分は赦されたいと願っていたのか。許されないものは許されない。アレクも、祖父も、父も、母も、妹も。許してくれない。
 ではどうする。この先決して許されないのなら、罰を下されるその日まで腐っているつもりか。
 そんなこと自分が一番許さない。
 今まで言われっぱなしだった人間が急に反抗し始めて周囲は驚いていたが、いちいち気にしなかった。どうせ報いは受けるのだから、だったら最後の審判まで好きに生きようではないか。
 いつか訪れる終わりを待ちながら目まぐるしい日々を駆け抜けていたとき、ライデンと再び道が交わってしまった。関わらないようにと色々と張り巡らせていたのだが、ペンキをかけられた日から事ある毎に言葉を交わしていた気がする。
 どうやら幸せになろうとライデンは考えるようになったらしい。たびたび二人きりで話すようになったライデンの口から語られる日々は鮮やかで、やっと彼が人としての喜びに気づけたことに心が満たされる。
 瓦礫から拾ったあの子も、今や温かい家庭で不自由なく生きている。
 それだけでもう十分。これ以上望むことはない。
 そう満足していたのに。

「リズベット」

 私を呼んでくれる声が嬉しかった。私に向けてくれる視線が嬉しかった。一緒に過ごす時間が愛おしく、このまま長く続けばいいのにと終わりが寂しかった。

『置いていったくせに』
 暗闇の中、アレクの声が心臓を掴む。
『殺したくせに』
 何人もの声が重なって残響する。
 足元から無数の腕が伸びて、奈落へと引き摺り込む。
 違うと叫びたかった。だが喉から声が出ることはない。
『どうしてリズだけ幸せになろうとするの?』
 アレクが小さい赤ん坊を腕に抱いている。赤ん坊は私が喉から手が出るほど欲した色でこちらを捉える。
 自分を責めているようなその色に背を向けて走り出す。

 幸せになろうとしてごめん。
 助けられなくてごめん。
 生きててごめん。

 浸るための自己憐憫だと知っている。けれど自分が犯してきた罪が今になって身を竦ませる。もうやめてくれとその声たちから耳を塞ぎたかった。でもそんな無様を見せたくなくて、ライデンを突き放した。
 胸の高鳴りは地獄のはじまり。地獄で生きていく覚悟もない人間が感じてはいけない。
 忘れてください。要らぬ傷をつけた女のことを。そしてその傷のことすら綺麗さっぱり消してください。
 それが自分のできる最大の祈りだと信じて。

 □□□

 小雪降り頻るなか、胸元のジャケットを握る手はいまだ震えが止まっていなかった。
「なあ、ひとつ訊いていいか」
「……もちろん」
 ライデンはリズベットにかける言葉を探していた。聞かされた半生を咀嚼するには時間も余裕もなくて、ようやく聞けた問いかけはあまりにも自分本位だった。
「本当の名前は」
「…………もっと他に突っ込むところあるでしょ……」
 リズベットから力が抜けるのも尤もだ。けれどリズベットの出自については説明してもらったもので十分だった。
 ずっと引っかかっていた。白系種でありながら白系種に対する過剰とも呼べる憎悪、その根源がどこから来ているものなのか。立て篭もっているエイティシックスをおびき寄せるために、何故白系種の赤子を殺さなければならなかったのか。マイヤー卿がリズベットを大事にする本当の理由。
 すべて非効率的、もしくは非合理、不可解だ。だがリズベットが、リズベットの家族がエイティシックスだったらどうだ。
 片親どちらかが白を持ち、どちらかが純粋な白系種ならば半分の確率で銀髪銀目の子供が生まれる。白系種であれば説明がつきにくいこともすべて説明できる。
 難なく窓枠を片手で越えたとき、ダスティンとの腕相撲に圧勝したとき。ちょっとした身体能力が白系種にしては高かった。男の膂力と張り合えている時点で深く考えるべきだったのに、そうしようともしなかった。
 先入観、偏見。そしてリズベットの努力。
 外見は完全な白系種をノーヒントで看破することは誰にもできない。
「その優しさがきらい……どうして責めてくれないの、軽蔑してくれないの」
 リズベットの稚い言い方につい気が抜けてしまった。きっとエイティシックスであることを隠してきたこと、生き抜いてしまったことに罪悪感を抱いているのだろう。あまりにも真面目がすぎる。
「優しいって言うけど、そんな出来た人間じゃねえからな」
 もし本当に優しいのなら、リズベットを選べた側の人間の考えだと思わないし、今からリズベットを傷つけやしない。
「お前は罪を償いたいんじゃない。楽になりたいだけだ」
 許された先に待つのは解放感だ。死にたい、消えたい。すべて終わりを望むものばかり。全部相手のためじゃない。自分のためだ。
「許されたいなら這いつくばってでも生きるしかねえんだよ」
 死人は答えちゃくれない。先に逝ってしまった彼らに恥じないよう生き方で示すしかない。そうやってライデンは生き抜いてきた。
「もし消えたいとかまだ少しでも思ってるなら無理だぞ」
「え」
「散々俺たちに傷を残したんだ。死ぬくらいじゃ許さねえから」
 半ば冗談の言葉にくしゃりとリズベットの顔が歪む。
「幸せになって、いいのかな」
 その言葉がリズベットの人生が詰まっていた。
 大事なひとを置いていった。
 色を偽って生きてきた。
 大事なひとだったのに、大事なひとを殺した。
 そしてたとえ一過性のものであったとしても、忘れてしまった。
 リズベットの傷をひっくるめてライデンは伝える。
「お前は誰の人生を歩きたいんだ」
 アレクの人生か。救えなかった妹の人生か。誰かに押し付けられ、貼り付けられた人生か。
「どうしたいんだ」
 誰に定義されたものでもない。心からの叫びをライデンはリズベットから聞いていなかった。
「泣くな、なんて言わない。でも後ろを振り返り続けてたら前に進めない。お前を大事にしないで、お前の足を引っ張る奴らの思い通りになるなよ!」
「――普通に、生きたい」
 ポロリとこぼれ落ちる。
「ただひたすらに、私として一所懸命に生きていきたい。それだけでいいの」
「本当か?」
 この期に及んでしり込みしたリズベットを煽る。
「それだけで満足か?」
「――幸せになりたいのッ……!!」
 雪夜に少女は吠える。
「リズベットって呼ばないで、本当の名前で呼んでっ!」
 他でもないライデンに向かって。
「  って呼んでっ!!」
 叫んだリズベットを掻き抱く。
「泣いていい」
 理不尽に対して誰もが感じる悲しみを共有しなかった。罰だと、報いだと受け入れてきた。その強さは気高くて、重かっただろう。
 荷を下ろしていい。また抱えていい。だから今は泣いていい。
「どうして、どうして幸せになっちゃいけないのっ? わたし、わたし、普通に生きたかっただけなのにっ」
「ああ」
「ただ必死に生きてきただけなのにっ」
 あのとき誰もがそうだった。必死に生きて、藻掻いて。そこに差などなく、ただ平等に偶然だけがあった。
「ごめ、っ、ごめんなさっ」
 懺悔。
「傍を離れてっ、間に合わなくて」
 告解。
「自分のことばっか考えて、今更だって分かってるっ! でも、でもっ!」
 掴まれた服がシワを深く作る。
「あいしてる、あいしてるの……!」
 ライデン以外へ向けた愛であっても、ライデンは受け止めると決めた。
「あなたに会いたいっ、もう一度笑いかけてっ、もう一度声を聞きたいのっ」
 腕の中で泣きじゃくるリズベットが淡雪となって消えないように抱き締め返す。
 この愛は何処にも行けない。なれど叫ぶくらい許されたっていい。
「ごめっ、なさいっ。一生、忘れないっ、傍にいるって、あなたを一番に想うって、約束、破って」
 一度堰を切った涙はライデンの服に染み込んでいく。
 生きていれば変わる。どうしようもない事実で、不変を願わずにはいられないのもまた人のさが
「ごめん、愛してる。愛してる、たとえ許されないとしても」
 誰にも訪れる変化を罪悪に感じるくらいにはリズベットは真面目すぎた。
「さっきも言ったけど、俺はアレクとお袋さんを許さないからな」
 なりを潜めた嗚咽に届ければ、あどけなくビー玉のように揺らぐ瞳がライデンを見上げる。
「お前のことが本当に大事だったなら、死に際に呪いなんて絶対残さない」
 二人とも死んでしまったのでその言葉の裏にどんな意図が存在していたか確認することは叶わない。だがたとえもし呪いをかけたとして、ライデンだったら己の力量不足が原因の結果を誰かのせいになんてしないし、ましてや大切な人間のせいになんかしない。
 その禁忌を二人は犯した。そんな人間に惚れた女の心を奪われたまま負けたままでいられるわけがなかった。
「あれ以上何ができたかなあ」
「何もない」
「……うん」
 六歳の子供が、十一歳の子供が、十七歳の子供が。守られるべき無力な子供が理不尽を前に何ほどのことができただろうか。
「生きてただけ充分だ。頑張ったよ、  は」
 先程知った少女の名前とともに労う。きっと誰も言ってこなかったに違いない。自分たちエイティシックスが分け合えた傷を。
「……ライデンは泣けた?」
 この少女のこういう敏いところが憎めず、ライデンは不格好な笑みを零す。
「まだだな」
「だったら私の傍で泣いて」
 傍に誰も置かまいとしていたリズベットの言葉を喜びたくて、でもその歓喜を塗り潰すような悲しみが胸を覆う。
「涙は見せなくていいから」
 先に逝った友たちを想う。眦は雪を溶かすほどに熱かった。

「おかえり」
 扉を開けると、玄関先でマイヤー卿が仁王立ちで待っていた。
「雪の中何してたんだか」
 深い溜息に叱られると身を竦めた二人だったが、肩や頭に降り積もった雪がぞんざいな手つきで払われていった。
「今お風呂を沸かしている途中だから、ライデンくんもお風呂入っていきなさい。夜も遅いし、客室も空いているから泊まっていくこと」
「いや泊まるのはさすがに」
「ずぶ濡れで帰したらツィマーマンに殺される」
 どこか不機嫌に踵を返すマイヤー卿の背中に安堵が見えたのは願望かもしれない。
「ああ、それと」
 ずぶ濡れのコートを脱いでいると、マイヤー卿は鋭く目を流してきた。
「手を出したら社会的に殺すから」
 何に、とは言及しない。手を繋いで帰ってきた二人にすべてを悟ったのだろう。バタンと居間に消えていったマイヤー卿を見送り、ややあって隣のリズベットを見やる。淡く撫子色に染まった耳朶の理由を寒さのせいにしてほしくないなと願ってしまった。
 先にリズベットが風呂に入り、ライデンが風呂から上がったのはあと半刻で日が変わるときだった。詳細は明日の朝に聞くと言ったマイヤー卿の声音には先程までの不機嫌はなかった。
「んじゃ、おやすみ」
「ええ。おやすみなさい」
 客室に行こうとしたが、いまだリズベットは部屋に入ろうとしない。
「どうした」
 マニキュアが塗られていない指が絡んでは解けて、やがて意を決したようにか細い声が振り絞られた。
「離れ、がたくて……」
 釘を刺されておいて正解だった。
「  」
「あたっ」
 額を指先で弾けば、小気味良い音が甘くなった空気とともに消えていく。
 とんだ殺し文句だと頭を抱えたくなる。計算づくでないのが彼女らしいが、額を押さえながら睨みつけてくる上目遣いはこの一日の終わりとしては最凶に暴力的だ。
 銀紗の髪をぐしゃぐしゃに撫で、部屋へ促すよう頭の重心を押す。
「また明日」
 たった五文字を宝物のように抱えた少女を見届けると、いまだ冷え込む灰銀の世界を横目にライデンは客室の寝具に潜り込んだ。
 用意された羽毛布団はエルンスト宅のものよりも肌触りが良い。あまりの滑らかさに普段なら居心地が悪くなるはずだったが、抗えぬまま眠気に堕とされていく。
 目蓋が降りていくなか、明日は晴れるといいなとライデンは淡く祈った。


BoyMeetsXXX