「クリスマスパーティーの追加の買い出し」
赤金緑ときらびやかなパッケージでいっぱいになったカゴを上げ、二週間ぶりに顔を合わせたシデンは肩を竦める。用意した分では足りないと世話になっている家の子らが騒ぎ出したので、宥め
「そっちこそ誰かといんのか? にしては量少ねぇけど」
「今パン探しにリズベットが行ってる」
「夫婦か」
呆れたようにシデンがため息を吐く。
「いつまでアイツに構ってんだよ。てかまだ手こずってんのか? ヘタレは卒業できてねえみたいじゃん」
「余計な世話だ」
ニヤニヤするシデンを手で追い払えば、これ幸いに人喰いワニは肩に凭れかかってくる。カゴの内容からライデン一人ではないと見抜いたところと言い、これだから戦友は目ざとくて嫌になる。
「どこまで行った? 前に機動群で集まったときは通い詰めてるだけって言ってただろ」
話すんじゃなかったと、数ヶ月前の自分の所業に顬が痛くなる。当時は茶を濁したつもりだったけれど、きちんとシデンには筒抜けだったようだ。
「今日二人で夕飯食った」
「ライデンの手作りで?」
「向こうが店選んでくれた」
「……それだけ?」
「十分進展だよ」
意識してくれているのはわかる。あの人付き合いシャットアウト人間が自分から誘ってきたことでも奇跡に近い。
「自己肯定感低いよな人狼ちゃんは」
「どこが」
「もっとアイツに求めたっていいだろ。どこで何を思って、今のまんまでいいと納得してんだか」
そう指摘されてもライデンはいまいちピンと来ない。今のままでいいと納得しているわけでもないし、要求だってしている。もし見返りを求めていないように見えるのなら、絶死の戦場で報われるのを望むだけ無駄だと日常に染み込んでいたからかもしれない。そう仮定すると、シデンも含めエイティシックスたちは全員自己肯定感が低いという証明になるが、横道に逸れるので黙っておいた。
「頼られるのは居心地がいいよな。でもそれは裏を返せば、誰かの世話を焼くこと、つまりは他人で自分の隙間を満たすことだぞ」
虚をつかれた表情のライデンに、やっぱりなとシデンは口をへの字に曲げる。
「無償の愛に、献身。耳障りはいいだろうよ。それが性分だったり、ライデンのためになってたりしていたらアタシだってあの四人だって口を挟まない」
でも違うとシデンは否定する。
「誰かに頼られるばかりの生き方は他人に依存してるのも同じだろ」
八六区でそう生きてきた。連邦に来てからもそうだ。ずっとそうやって息をしてきた。
「だからシンがいねえと何もできねえって言われんだよ」
放っておけばいいのに、放っていてもライデンに支障はない。ひとりで勝手にくたばってればいい。実際似たような文言を使って突き放したこともある。
それでもライデンは放っておかなかった。リズベットが雪のように消えてなくなるのが恐ろしかったから。しかしその気持ちに不純物が混じっていなかったとは反駁できない。自分の所在が曖昧になるからリズベットに消えてほしくない、なんて。
「引っ張られすぎんなよ」
じっとこちらを見つめる二色の瞳。片割れの色は白銀。どうしてこうも白銀という色は有無を言わさない圧を持っているのだろう。
「ありがとな」
「……ンだよ気持ち悪ィ」
「お前だけじゃない。ほかのエイティシックスたちもな」
やめておけ、気の迷いだと大人は釘を刺してきた。エイティシックスたちも大変だぞと苦言を呈することもあった。ただ違うのは、誰一人としてライデンの気持ちを否定しなかったことだった。
両者とも心配してくれていることは痛いほど理解している。その上でライデンは、心のどこかで背中を押してくれることを願っていた。
無意識に自分の想いを潰してきた人生だった。ほかのエイティシックスたちと比べて自分はまだ削れていない。だからワガママの優先順位は彼らが"先"だと、一歩引いていた。
本当に誰かの一押しがなければ何もできない情けなさに苦笑いせずにはいられない。けれども嫌な感じはしなかった。
「なんだよそのカオ」
「無自覚ヤロウめ」
静かになった横を不審に思って窺うと、苦手な食い物を無理矢理口に突っ込まれた表情でシデンが呆れ返っていた。
「で、戻ってきたみたいだぞ」
くいっと上げられた顎の示す先を振り返る。パンの袋を片手に佇む待ち人に遅かったなと声をかけようとしたけれども、リズベットの表情に言葉が喉の奥で彷徨った。
「イーダ大尉」
「へえ、本当にアタシらと別れてからの記憶がねえんだ」
ふーんとシデンが近づいてきたリズベットの顔をまじまじと覗き込む。わずかに仰け反らせたリズベットの頬は引き攣っているが、先程一瞬だけ見せていた怒ったような表情はなりを潜めていた。
「ご無沙汰してます、と言うのはきっと適切ではないのですよね」
「ま、ライデンとお前を比べたら会ってないスパンは長いけどな」
「そうですか」
「相変わらずお人形みてえなカオ」
「……それは悪口で――」
「なあ人狼ちゃんもらっていいか」
ぶっ込まれた内容に眉を顰めずにはいられなかった。
「シデン」
「今どんな状況になってるかは全部聞いたぜ。記憶喪失なんてとんだギャグだけどよ――死んだ人間にいつまでも囚われて、それで生きてる人間を盗られるのは嫌だってか? いい御身分なこった」
引っ掻き回すなと名前を呼んで言外に窘めるが、人喰いワニに聞き入れる様子はない。
「我儘もいい加減にしろよな。お前だけが不幸になるなら願ったり叶ったりだけど、ライデンまで巻き込むんじゃねえ」
「――そう思っているなら、私の許可なんか取らずに勝手に奪えばいいのではありませんか」
底冷えするほどの無がシデンの挑発をいなす。吹雪吹き荒れる雪山が揺らがないような、畏怖ある強さがあった。
「ライデンが誰を特別にするか、決めるのは私ではありません。ライデンです」
それに、とすげなく突き放す少女の瞳には哀れみが浮かんでいた。
「貴女が本当に欲しいものは違うでしょう?」
「シデーン!」
一触即発の影から姉貴分を呼びに幼子が現れる。シデンを慕っているのをありありと伝えてくる無邪気な笑顔はピタリと固まる。知らない人間がいたことへの驚きと、見たくない天敵に出会った恐怖が浮かんでいた。
「おいコラ、目当てのモンはちゃんと見つかったのかよ」
「う、うん」
「じゃあ行くぞ」
頭をぐしゃぐしゃに撫でて、シデンはちびっ子と踵を返す。
「じゃあなライデン」
片手の挨拶へ、おうと軽く返す。完全に見送ったあとでリズベットの表情を見やる。揺らぎは消えていて、いつもの無風がそこにあった。
「レジ行きましょうか」
カラカラとカートの車輪が鳴る。タイルのくぼみに足を取られて空回りする音が嫌に響いていた。
触れた肌から熱を奪っていく夜道に二人分の足音が消えていく。空は今にも雪を零しそうなほど煤色を帯びていた。
ライデンの半歩後ろをリズベットがついてきている。腕を伸ばせば触れられそうな、お互いの吐息の音さえ拾えてしまう、絶妙な距離が二人の間に横たわる。
夜半の最後のニュース。液晶画面を見上げる。そこにはフレデリカの姿が映っていた。
元気にしているだろうか。風邪を引いていないだろうか。傷ついていないだろうか。悪意に晒されていなければいい。
「ライデン」
終わりを告げるわずかな灯りが見えてきた。マイヤー邸の目と鼻の先で、焦燥と名残惜しさを突き飛ばす、ひどく静かな声がライデンの名を呼んだ。
「もう大丈夫です」
「……何が」
そう切り出される覚悟をしていたというのに、問いかけた声はひどく掠れていた。
「私は自分の足で歩いてゆけます」
顔を顰めるライデンとは対照的に、リズベットはどこか清々しさ香る表情を浮かべる。その表情がお前にできることは何もないのだ、とライデンを突き放しているとは知らずに。
「ありがとう。私を見捨てないでくれて。嬉しかった」
それ以上口を開いてくれるなと、口元を強引に覆いそうになる衝動をすんでのところで握り潰す。寒さで赤くなった鼻先と眦とともに現れた下手くそな笑顔を崩したかったにもかかわらず、だ。
「これ以上はもらいすぎです。バチが当たってしまう」
「……なんでお前が幸せになったらバチが当たるんだよ」
「屍の上でのうのうと生きていた共和国の白ブタが幸せになるなんて、許されるわけが――」
「ダスティンもそうだって言うのか」
滑らかだった口上がぴたりと止む。
「言い返せないなら、白ブタであることを言い訳にしてきたって証明になるぞ」
リズベットは連邦にいるときは基本的にその人物の生き様と向き合っていた。所属や生まれは二の次で、誰も彼も良くも悪くもフラットに接していた。自分たちではどうもできない属性ではなく、自分の意思で何かを成し遂げたか否かで区別していた。
そんなリズベットが一括りにするのは、決まって自分の幸せに関わる話や共和国の白ブタの話が出てきたときだった。
「俺を突き放す理由が俺の中にないのならずりィな」
WキライW
たった一言。
拒絶してくれたらライデンは身を引く。また自分は想いが届かない経験をしたのだと、己の性分に舌打ちをして、気持ちを雑踏に葬る。
けれどリズベットは決定的な言葉で拒絶しない。
ライデンは言ってやりたい。リズベットが今どんな表情をしているのか。リズベットには悪いが、シデンが揺さぶってくれたおかげで滲み始めている。
羨慕、煢然。
本当は幸せになりたいのだ、と。
物分りのいい大人の表情と言葉を紡ぐのなら隠しきれ。隠しきれていないから、諦めの悪いライデンはどうしようもなく足掻きたくなる。
「……知らないからそう言える」
「そうだよ。知らねえから教えてほしいんだよ」
知ろうとするのは暴力的な行為だと、目の前の少女と交流していくなかで知った。愛しているのならばすべてを理解するよりも、理解できないことを受け入れるべきだ。
けれど許容できない。
幸せになってはいけないと瘡蓋を何度も剥がされ、幸せを毒と身体に馴染ませる。そうして作られた傷に苦しむ姿を、指を咥えて見ていろと言うのか。
「アレクが幸せになるなって望んだのか」
「……え」
「お前を置いていった人間全員が、お前に幸せになるなって呪いをかけたのか」
責任感の強いリズベットなら自分のせいだと抱え込む。そうして前に進む原動力や支えにして、共和国で暮らしていたときは呼吸ができていたのだろう。
けれど呪いはこれからを生きていこうとする人間にとって毒にしかならない。リズベットの生きる気力を粉々にしていった挙句、傍からいなくなって、呪いと傷だけを残していったことは暴力と変わらない。
「もしそうなら俺は許さない。お前に呪いをかけた奴ら全員」
ライデンが大事にしたいと思った人間を痛めつけて、どうして許せるのだろうか。もしその行為も愛だと呼ぶのなら、なんと気持ち悪い代物だろう。
「――ぁ……」
か細い声が二人の間に攫われる。
「リズベット?」
何かに気づいたようにリズベットは口元を抑える。珂雪には明らかな恐怖と絶望が浮かんでいて、ライデンが一歩踏み込んだ瞬間、リズベットはライデンに目もくれずマイヤー邸へと駆け込んでいった。
後を追いかけるライデンはリズベットの足の速さに舌打ちする。目的地がわかっている上に出入口が一個の建物だから不幸中の幸いだが、振り切られるのも癪である。
礼儀とともに玄関を飛ばし、騒がしい階上へ向かう。ボルドーの絨毯の感触をつま先に感じながら進めば、開けっ放しになった扉が見えた。
ドアノブを回し、中を窺う。あちらこちらに僅かばかりの家具たちがすべてひっくり返されている。
「一体何事かと思えば」
部屋の散らかり具合に呆然とするライデンの背後から気配もなくその男は現れる。その冷めきった瞳を咎めようとした刹那、ライデンの視界を細い指先が切り裂いていった。
「――アレクをどこにやった!!」
胸倉を掴まれ、鉄火の咆哮を浴びせられてもすべてを覆い隠す黒い瞳は微動だにしない。
「全部思い出したんだ」
「答えてくださいッ! アレクは今どこですか!!」
「墓を作ってそこに入ってもらったよ」
「何を勝手にッ……!」
「可哀想だったからだよ」
無関心な瞳を少女へ下ろしたまま、底なしの夜黒を持つ男は続ける。
「大事なひとを呪いに祀り上げるなんて残酷なことをするものだと、前々から思っていたんだ」
「だからって勝手に取り上げることはないでしょう!?」
転がっていた家具たちの中に、サイドベッドに置かれていた蓋付きの白い壺は見当たらなかった。
リズベットはリュストカマーに来たときからあの白い壺を抱えて持ってきていた。あのなかにアレクの骨が収められていたのなら、連邦に来て以来誰にも触れさせなかった辻褄が合う。
「私とアレクの約束を知っているのに、理解してくれていたのに、私と同じだと言ってくれたのにどうしてっ……!」
「君は私という人間を信じすぎだ。だから平気で私の傍に大切なひとを連れてきてしまう」
「……なにを」
「ライデン君に毒を盛った」
誰もが予想しなかった爆弾を理解したとき、柳の体躯は天鵞絨へ引きずり倒されていた。
「リズベットッ」
「離して。流石にこれだけは許せない」
馬乗りになって襟元を絞めるリズベットの腕を掴む。表面だけの冷静さと、思いのほか引き剥がそうとした労力がリズベットの本気を何よりも明確に示していた。
古傷のある右肘に力を込め、ようやく引き剥がすことに成功する。
「アレクくんのことはいいんだ?」
「――」
咳き込みながら老木の末節が赤く充血した皮膚を撫でる。
「自覚しているかい? アレクくんとの約束を台無しにしたと聞かされたときより、ライデン君が毒を盛られたと聞かされたときの方が君は怒りを顕にした」
それが答えなんじゃない? と問いかける柔いナイフに硬直していた体躯が力を取り戻す。
「論、点を、すり替えないで、くださいっ。今はっ、どうしてライデンに毒を盛ったかを」
「秘密」
「はぐらかさないでっ!!」
「じゃあどうする? 吐くまで拷問する?」
それもいいかもねえとマイヤー卿は酷薄に吐き捨てる。その投げやり加減にリズベットが何かを察して、金切り声を走らせた。
「やめてっ、ライデン聞かないでッ」
「君はまた激情のまま人を殺す」
「やめてッ!!」
「――君を犯した男どもみたいに」
窓を揺らす風の音だけが廊下に響く。暗がりでも失わない白銀の輝きは、夜の色を飲み込んで灰色を放つ。
とんっ、とあまりにも小さな力に突き飛ばされる。呆気に取られたわずかな隙を突いて、細身はライデンの囲いから解き放たれる。
反射で離れていく細腕へ伸ばしてみたが、紗銀はするりとすり抜けていった。
□□□
知られてしまった。
羞恥とも恐怖とも似つかぬ感情とともに、肺凍る寒空の下へ無我夢中で飛び出す。頭上からは斑に雪が舞い落ちてきて、吐息に触れては消えていく様が視界のあちらこちらで起こっていた。
自分は本当は何が嫌だったのだろう。
真実を聞かれることか。それとも別の何かか。
嫌われたなんて今更だ。汚い自分を必死に隠して、綺麗なところだけ見せて。そのくせ綺麗なところを褒められれば、理解してないのにと拒絶した。
自嘲を掻き分けて背後から
いつもそうだ。いつも自分は何かから逃げていた。本当は逃げたくないのに、帰る居場所なんてもう何処にもないというのに。
あの日から、ずっと。
生まれ育った家は普通の家庭だった。太陽みたいに明るい左官の父と、雪夜のような静けさを持つ医師の母。
近くには父方の祖父――物心ついた時には、祖父と一緒にギアーデ帝国から共和国に亡命してきた祖母はすでに故人であった――がいて、離れた八区には教師をしている母方の祖母。
そこに自分と、六つ離れて生まれたばかりの妹。
母と祖母の多少ギクシャクした関係があったとしても、それなりに仲の良い家族関係が築けていたとあの頃の自分は信じて疑わなかった。
ブレーキ音、怒号。それと統率が僅かに乱れた硬質な足音。
窓の外で白以外の色を持つ人々が手荒に詰め込まれていく。それぞれの指先は助けを求め、混乱と暴力に飲まれていった。
どうなっているんだ、連行されなければならない理由がない、とアパートの住人たちは祖父に詰め寄っている。今にも掴みかからんとする住人を父が押さえている。
共用部から離れた部屋の片隅で、すやすやと眠る妹のちいさな身体をそっと抱き締める。ミルクの香り漂うその温もりは心もとなさを曖昧にしてくれる。
産後体調を崩してしまった母を静養させるため、祖父の家に来たのにこんなことになるなんて思いもしなかった。一体自分たちはどうなってしまうのか、必死に思考を回してみても答えは出なかった。
そこに祖父と父がようやく顔を見せた。祖父の強ばった表情に緊張の糸が張り詰めるも、父が片膝をついて頭を撫でてくれる。手のひらの温もりは変わらず春の太陽のように心地よかった。
「二人でお義母さんのところに行くんだ」
ぱちりと舌の上で感情の金平糖が弾ける。
「だめ。わたしだけにげるのはおかしい」
「……」
自分と妹だけ逃げてしまったら、二人が匿ったひとたちに顔を向けられない。
「お前なら逃げきれると、親父と判断したんだ。お前はおれに似て運動神経いいからさ」
両肩に載せられた有無を言わせない手に飲まれそうになりながら、血の繋がったひとたちに問いかける。
「ふたりはどうするの」
「心配するな。こっちはこっちでどうにかする」
「大丈夫。時間はかかるけどまた会えるさ」
冬の太陽のような笑顔ふたつ。それがたまらなく不安にさせた。
「とうさん、おじいさま」
がっしりとした体躯に涙声ごと包み込まれる。このひとたちがいれば大丈夫だという安心感が目の前にあって触れられているのに、ちっとも嬉しくない。
どうか、どうか行かないで、と。置いていかないでとシャツを握り締める手に祈りを込めてみた。
「母さんに伝えてくれ。愛してるって」
首にかけられたのは父のロケットペンダント。母と妹が退院した直後に撮った家族写真が、六歳の子供には長すぎるチェーンの先で揺れる。
「生きろ」
必要最低限の物を持たされ、裏口から抜け出す。リュックサックに入れた妹を罪悪感と一緒に抱え、物陰に隠れながらタイミングを伺う。
そこもかしこも軍人が強制的に白系種以外の市民を連行していったため、辺りは嫌な静寂に満ちていた。そのせいで鼓膜にこびりついた怒号と悲鳴が幻聴として現れる。あの雄叫びに知り合いも含まれているのではないか、連れて行かれた先で何が待ち受けているのか、アパートに残ったひとたちも暴力を振るわれるのではないかと、末路を考えるだけで胃から胃液が込み上げてくる。
何かが続け様に芯から折れる音が聞こえ、伏せていた視線を上げる。数刻前まで普通に生活していたアパートに火が放たれていた。
この一瞬でついたとは思えない火の勢いと、優しくしてくれた思い出たちが後ろ髪を掴む。
「……ごめんなさい」
リュックサックの紐を握りしめる。謝って済むことではないのはわかっている。けれども今の自分には家族の願いを叶えることしか選べなかった。
ただ妹はそうではなかった。
「おねがい、しずかにしてっ」
騒音に反応してぐずり始めてしまったのだろう。あやしてみても効果はなく、小さかったひと鳴きは徐々に大きくなっていく。このままでは見つかってしまう。焦燥に駆られ、柔らかな口元を塞ぐ。
「何処に行こうとしている」
悲鳴がみじかく漏れ出た。その瞬間に首根っこを捕まえられて、アパート前の玄関まで引きずり出されていた。
「考えたものだ。白系種の子供を運び役として使うとは」
健康的に引き締まった体躯と、侮蔑に染まる眼窩が頭上から睨み下ろす。
「さて、どうするか。見せしめにすれば匿ってる馬鹿どもも出てくるか?」
白銀の男は妹の足首を掴み、逆さに持ち上げた。
「おねがい、はなしてください!」
妹の叫びが涙に絡まって濁った湧水になる。
「おねがいっ、おねがいしますっ」
縋りついても獣は見向きすらしない。
「何でもするから妹はころさないでッ!!」
「しつこい」
しがみついていた足に吹き飛ばされ、石畳に転がる。脇腹を強く打ったせいですぐに立ち上がることができなかった。
「だからガキは嫌いなんだよ」
神に捧げるように男は夜へ妹を掲げる。
「やめてッ!!」
重力はどこまでも平等であった。
「ぁ……あ、あ――」
舌先がから回る。必死に自分を支えるために石畳の縁に指をかけるものの、目の裏で間隙なく散る火花に崩れ落ちた。
たったひとりの妹。自分から両親の愛を奪う時々憎らしいけれど、守らなければいけなかった存在。
「やっと静かになった」
中途半端に開いた足元の抽斗を閉じるように軍靴が粗雑な軌道を描く。革のつま先には薄い柘榴色まじりのツヤが足されていて、それを見咎めてしまったのが最後、押し込んでいた胃液が口を突き破った。
「強制収容なぞ、わざわざ隔離して手間をかけさせおって。どうせ空き家になるのだからエイティシックスどもも燃やせば一石二鳥だろうに」
軍人はまったくと唾をアスファルトに叩きつける。わななく腕で身体を支えながら、どうして残虐なことができるのだと睨め上げた。
その先でカーテンの隙間が翻る。真向かいの建物の一室から誰かがこちらを窺っていて、その顔には見覚えがあった。
祖父の家に顔を出すたびに焼きたてのクッキーをくれた、料理上手の女性。何かあったらいつでも呼んでくれと胸を拳で叩いていたあのひと。
同じ色の瞳はこちらと目が合うと、容赦なくカーテンを閉めた。
何故。
どうして。
う そ つ き
カチャリ、と暗闇のなか鈍い円環が煌めく。その光は礼拝堂に磔にされた神とやらが与え
「そう言えばお前、この赤ん坊のこと――」
「ぐあっ!!」
うめき声に導かれ、視界が
「逃げなさい!!」
張り手を食らわせるような怒声と、普段の性格からは想像できない切迫感に、辛うじてできたことは祖父の名を呼ぶことだけだった。
「おじい、さま……」
「いきなさい!!」
いまだ混乱する
「逃げろ!!」
父の声が喧騒を貫く。中途半端に折れた柱を振り回し、妹を殺した軍人どもに襲いかかっている。その手はところどころ火の粉に焼かれていた。
「と、うさん」
「お前だけでもいいからッ!!」
二人が何をしようとしているのか察してしまった。それゆえに承服しがたい行動に混乱するほかない。妹をみすみす死なせた姉をどうしてなお逃げさせようとできる。
じわりと滲む視界を銃声が引き裂く。
「とうさんッ!!」
「いけッ!!」
必死に伸ばした手を拒むように父の怒鳴り声が劈く。地に伏せ、太腿から出血しているのを意にも留めず、自分と同じ色の瞳は凄惨なこの場でいっとう強く輝いていた。
唇を噛み、震える膝を叩き起す。そしてひしゃげた妹の腕を掴み上げると、そのまま二人に背を向けて走り出した。
「待ちやがれ!」
地面を蹴っていた太ももに焼けるような鋭い痛みが走る。けれども痛みに膝を折ることは決して許されない。
二人から託された――二人の最期の望みを果たせば、きっと二人は今度こそ褒めてくれるだろうから。
「ああああああああ!!」
獣の咆哮とともに甘い臭いが追いついた。ひどく不安になるようなその臭いに思わず振り向いて――後悔した。
松明がふたつ、踊る。
火の勢いに混じって救いを求める音を知った何かとして認知したくなくて、漏れ出る濁音に背を向けふたたび走り出した。
走る。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったまま、ひたすらに。
走る。呼吸もままならない肺をありったけ搾って。
走る。新しく買ってもらったばかりの靴が汚れていくのを振り切って。
愛しきひとたちを置いて。
銃声が遠くで放たれても、もう振り返りはしなかった。耳を塞ぐ手も、鼻を覆う手も、目を覆う手も、今はここにない。
ひとりきりで走る。
息苦しい夜をただ、真っ直ぐに。
頼れるものはもう自分しかない。
追いつかないでくれと必死に祈りながら縺れそうになる足に鞭打つ。
ああ、それでも。
あとひとつくらい願ってもいいのなら。
誰か――
「リズベット!!」
自分の名前を頭が認識する前に、腕を掴まれたという感覚が脳髄を揺さぶった。
「イヤッ!!」
「リズベット! 俺だ!!」
生々しい過去の再演に沈めていた感情が悲鳴をあげたのも束の間、暴れる体が抑え込まれ思考回路が止まる。
抱き締められている。
それもライデンに。
整わない呼吸が耳元で聴こえる。走って追いかけてきてくれたのだ。けれどもその温もりが現実へ引き戻す。
「触れてはダメッ!」
「汚くなんかない」
人間の醜さをしてもなお人を信じられる善性の眩しさと、獣に堕ちないでいる強さが痛く胸を突き刺す。そしてまだそんなことを言ってくれるのだと愚かにも嬉しさが全身を巡って、雪で泥濘るんだ地面に膝が頽れた。
「人殺しが、汚くないわけ」
優しいからライデンは見殺しではない、たとえ見殺しになったとしても責任ではないと断言するだろう。
けれども本当に、自分は。
「アレクたちを殺したもの」
誰の手でもなく、正真正銘この手で。
「おじいさまも、父さんも、妹も。全員」
自分が最後の引き金を引いたようなものだ。
「もう全部捨てちまえよ」
聞いているこちらが泣きそうになるような声が鼓膜を揺らす。
「このままだとお前が死んじまう」
ごめん、と一緒に地面に膝をついてくれたライデンに人知れず謝る。
死んだっていい。忘れるくらいなら捨てないでいることを選ぶ。一緒にいられないのなら抱えていく。そうやって生きてきたから、それくらいしかできないから。
「無理だろ? だったら今背負ってる重荷、全部下ろせ――
息が止まった。
「お前の荷物はお前しか背負えない。外野が背負いたいって駄々をこねるのはお門違いってもんだ」
それがお前の愛し方なんだろと、彼は見透かしたように言う。
「だからお前が責任もって最後まで背負え。支えてやるから」
わななく唇とともに顔を伏せる。
今まで誰にも自分のことを話す気になれなかったのは、一度口から紡いでしまったら糸がほつれるように忘れてしまいそうになるのが怖かったから。欠けた穴に気づきたくなくて、下ろしたことで他に大事なものも消えているかもしれない不安を抱えながら、
そして最後に残るのは、聞いてしまったが最後の質問であった。
「ど、して」
どうしてそこまでしてくれるのか。
かつて私にはなくて、ライデンにはあると言ったその理由。
「言わなきゃわかんねえのかよ」
大人びた苦笑には、救えない見栄っ張りへのどうしようもないほどに不器用な慈しみがあった。
「好きなんだよ。生きるのが下手クソなリズベットがいつでも笑っていてほしいと願うくらいには」
ついに聞いてしまった答えにあらん限りの力で瞼を閉じる。閉じたついでに噛んでしまった唇がジクジクと痛みを訴える。
信じたくなくて、そのくせほんの少し期待してしまって。知人に対する優しさ以上のモノを向けられるたびに言い聞かせてきた。
こんな自分が愛されるわけがない。
同胞を使い潰すだけ使い潰してきたクズどもと同じ自分に心を傾けてくれるわけがない。
そう身体に馴染ませて、ライデンから距離を詰めてくるような気配がしたらやんわりと離れ、もしくは自分への印象を悪くした。そうすれば踏み込まれることもなく、ほらやっぱりとあらすじ通りの言い訳に胸を撫で下ろす。
何度ひた隠しにしてきた思慕をバラバラに破り捨ててきたことか。何度自分の犯してきた罪に焼べたことだろう。幼い頃から積み重なってきた想いが今度こそ日の目を見ないよう、丁寧に。己の気持ちを認めてしまったら最後、どこまでも望んでしまうと予感がしていたから。
いいや、もうとっくに望んでいた。だから聞いてしまう。
「……ローゼンフォルト補佐官のことは?」
「は?」
「だってローゼンフォルト補佐官のことが好きなんでしょう?」
テレビに映るフレデリカ・ローゼンフォルト――またの名をフレデリカ・アウグスト陛下を見つめる瞳を見つけてしまったとき。
確信してしまった。
このひとは彼女に心を分けてしまったのだ、と。
あんな、もう伸ばせないものへ焦がれる瞳を見てしまったら、負けを認めるしかないだろう。
そう、理性は諦めているのに。
愛されたい。
自分以外のひとを見ないでほしい。
押さえつけられた嫉妬が血を流し、身体を乗っ取る。スーパーでシデンと穏やかな表情で話しているのを見たときの比ではない。
胸を掻き毟りたくなる衝動を抑えるので必死だった。このひとのこんな穏やかな表情を自分は知らない。
直後、自分の図々しさに愕然とした。
愛されたくて、でも信じきれないからと散々に拒絶して。結局自分だけは愛されたいなんていう自分勝手な不義理が通せるとでも?
自分勝手がすぎる。自分の所業を忘れたのか。
ここが瀬戸際だ。
直感の赴くまま、ずっと繋いでいてくれたライデンを離した。
今なら戻れる。最低な人間に振り回されたなと、今後の人生で思い出すにしてもそのくらいの軽さになって、そして思い出したことすらも忘れてほしい。
ひとときでもライデンの人生と交わることができた。決して甘やかな日々ではなかったけれど、自分だけが覚えていればいい。ライデンが幸せになるのであればそこに自分はいなくていい。
爛れるだけのこの気持ちを一番まともで綺麗な形で縊り殺させてほしかった。
「たしかにフレデリカに惚れそうになったことはある」
やっぱり、と自分の女の部分に唾を吐きたくなった。好きなひとの視線の意味なんか気づきたくなかった。
「チビっ子のくせに、俺が弱ってるところ見せたくないの知ってて、欲しかったものをくれて――そのあと『おかえり』って言ってくれたリズベットのことを思い出した」
だいぶ前の記憶、それも朧げになってもいい他愛のない過去をどうして唐突に。
「リズベットに笑ってこんな俺を抱えてくれねえか、って」
このひとをどうしてくれよう。
ライデンへの憎らしさが襲う。他の女性への愛を聞かされ、私が狂わないとでも思ったのか。それでも許してしまうのは惚れた弱みという奴だろうか。
否。
それでもライデンは手を伸ばしてくれた。薄汚い過去を聞いてもなお諦めず、あまつさえ自分の言葉を待っていてくれている。
こんなにも誠実でいてくれるひとに、私は不誠実のままいるつもりか。汚いものだけライデンに背負わせて、それで自分は身軽になっていいのか。
「……わ、たし」
「リズベット」
ライデンの声が無理に話すなと止めてくれる。自分でもなんて情けない声だと嘲笑してしまうくらいの弱さだ。
だがこれ以上の甘えは自分が許せない。
その優しさにずっと生かされてきた。たとえ血を吐き出すほどの激痛に見舞われ、その結果ライデンに見捨てられるのだとしてもライデンの誠実に報いねばならない。
「ずっとくるしかった」
吐き出してやっと、身一つで抱えきれていなかったことを思い知る。
本当はずっと誰かに頼りたかった。環境が許さなかっただけで、いつだって弱さを誰かに曝け出して知ってほしかった。
「ずっと、こわかった」
幸せになるのが。後ろ指を刺されるのが。
話したら最後、いままでの自分を手離すようで。
「本当のことを話して、ひとりだと思い知るのが」