セタリア ver.

 [雨が降る様に机から宝石が落ち、床で跳ねて]滴る音を聞いたと思った。だが、宝石はどこまでも音もなく滑らかな氷に抱かれていた。何故? と思った次の瞬間に、体の芯が凍える様な寒さに襲われた。ふっ、と浅く吐いた息は白く濁った。
「寒いか?」とラムズは嗤う。いや、怒っているのだという確信が私にはあった。ずっと一緒にいたからこそ、私にはそれが分かる。メアリはそれが分からない。なのに、ラムズはメアリを宝石だと呼ぶ。私はそれが許せなかった。
 この時、私は自分の事でラムズが怒っているのだと錯覚していたのだろう。そして、それに優越感すら覚えていた。いま、この瞬間は、ラムズの視線が私だけのものになるのだから。
「さ、寒いに、き、決まって、るでしょ……」白く浅い息を吐きながら、凍えて痺れる唇を動かして紡いだ言葉は、地に墜ちた鳥よりも無様なものであった。これでは、ジウにも鼻で笑われてしまう。そう考えるとむしゃくしゃして、苛立った唸り声が口の端から漏れた。
 そんな私を、ラムズは何も言わずに見下ろしていた。私が彼に馬乗りになっているにも関わらず、私はそう思ってしまった。
 先程のラムズの問いかけは本当に意地悪なものであった。単純な気温だけではない。彼の魔法は今も、床に触れている膝から上を這い上がり続けている。宝石を優しく抱いた氷はしかし、私の体温を容赦なく奪っていくのだ。
 ただ、私は死の危険だとかそういうものは感じていなかった。ラムズが私を殺さない確信があったからだ。私の価値が無い限り、私はラムズに利用される事は無いし、その結果惨めに捨てられる事だってない。だから、雫の様に滴ったまま輝き続ける宝石と、宝石と同じくらいキラキラした氷で閉じられたこの世界は、私とラムズだけの世界となるのだ。
 それでも少々キツくなってきたので、私はラムズに止めてくれる様に、身を震わせて訴えかけた。
「な、んで、そんない、いぢ、わ、る……」
「単に気になっただけだが?」
 一瞬、ほんの一瞬だけラムズは表情が抜け落ちた様な顔をしていた。こんな時でも、私はその彫像の様な顔に見惚れてしまった。
「お前、以前俺に『私は、ラムズの宝石みたいになりたい』とか言っていたよな?」
 にぃいと口の端を歪めたラムズに、私の本能は警鐘を鳴らしていた。もう足の感覚は無い。ラムズを床に押さえている両手も、何に触れているのか分からない位に冷えていた。このままでは……。だけど私はそれを理性で押さえつけて、話を促す為に大きく頷いた。あの邪魔な赤毛。百年以上いた私の場所を奪ったぽっと出の女……名前はメアリ。あれは「人魚」で、そしてラムズにとっての「宝石」であるらしい。だから、あの女はラムズに特別扱いされているのだ。今の私は「宝石」じゃない。だから、あんな女なんかにラムズは誑かされているのだ。でも、私がラムズの宝石になったら? そうすれば、またラムズは私だけを特別扱いしてくれるのかもしれない。
「お望み通りにしてやるよ。だが、お前が俺の『宝石』になれるかまでは保証しないな」
 パキパキと音を立てて体が凍っていく。腕が凍り、腰が凍り、私はようやく彼が私を殺すつもりなのだと気付いた。
「ど、して、わたっ、こ……う、おっ?」
 どうして私を殺すの、その問いかけの為に動かした唇からは血が滴った。それすらも顎から滴る前に凍てつき、ラムズの服を汚す事すら無かった。
 カタカタ……どこかで糸車が回っている様な音がする。ラムズはどこか呆れた様にふぅーと息を吐いた。私のものとは違い、それはどこまでも透明であった。それは、ラムズには体温が無いからだった。どこまでも冷たく青い瞳は胡乱気にこちらを見つめながら、ラムズはうんざりした様に口を開いた。
「お前が邪魔になった。さっきも俺の言葉も聞かずに宝石を傷付けようとしただろ。だがお前には今までの恩もある。だから殺すついでにお前の望みも叶えてやろうかと思ったんだよ」
 短い呼吸を繰り返す私をよそに、ラムズは「俺って優しいなー」と嘯いた。私は朦朧として落ちかける意識を何とか保ちながら、ぼんやりと部屋を眺めた。霜が降りた薄曇りの窓ガラスからは日差しが差し込むが、弱々しい光は氷の表面を軽く撫でるだけで溶かす程の力は持たなかった。透明な氷に抱かれた宝石は一つ一つが万華鏡の様に光を捻り、それ自体が輝く小さな星の様であった。魔法によって宝石の雨は止んだ後の黄昏時の夜空に似た氷面には、ラムズの怜悧な横顔と絶望に染まりかけた私の顔が鈍く映っていた。ずっとカタカタと鳴っている音は、私の歯がぶつかり合っている音であったのだ。
 宝石、氷、そして……私は、とうとうラムズのやろうとしている事が分かった。彼は私を宝石にする為にゆっくりと凍らせていたのだ。私を物言わぬ彫像として、彼は……。
 ラムズは私を押し退けて立ち上がろうとした。
「ま、」
 待ってという呼びかけは間に合わず、ぱきり、と乾いた音を立てて、私の両手が折れた。
「あーあ。これでもうお前は戦えないな」
 そうしてラムズが口を歪めて作り出したのは、明らかな嘲笑であった。骨までも凍った腕からは血の一滴も落ちず、感覚もとうに無いので痛みも無く、まるで彫刻の一部が壊れた様にも見えた。他人事の様に現状を理解し切れない私の前で、ラムズは私の折れた右手を拾った。ラムズにしがみつく形で固まった手の切断面を眺めてから、何も言わずに床へと落とした。
「か、ぇし、て……かえ、し、て……わた、私、の」
 氷で支えられたまま斜めに傾いていた椅子を元に戻して座った彼に、私は蚊の鳴く様な声で縋る様にして訴えた。
「自分で拾え。まあそれが出来るんだったらな」
 ピキリピキリと体が凍る音がすぐ側で聞こえる。私の体は最早私のものではなく、首を動かそうとしてもピクリとも動かなかった。
 ただ美しいだけの氷と死の世界には、ラムズだけが君臨していた。何よりも美しく、何よりも気高く、そこに在るだけで価値のある宝石の様な人。いつしか私は彼に恋をしていた。太陽に焦がれたイカロスは、背中の翼を溶かされて堕ちたのだと言う。宝石の様に冷え切った彼に近付き過ぎた私はいま、彼の手によって凍らされようとしていた。いつの間にか外れていた眼帯の下には、宝石以外を映さない、無機質なサファイアが埋まっていた。
「やっぱ、お前じゃ俺の宝石にはなれねえな」
 ラムズは私を見下ろしながらそう言ったが、私にはもう、その言葉の意味が分からなかった。返事の代わりにころん、ころんと頬を滑り落ちた雫が離れていくばかりだった。
 彼の、彼だけの宝石箱の中はきらきらと煌めいた。遠い遠い宙の底で、北極星の様な蒼玉だけが私の頭上で輝いていた。私はぼやけた視界の中、心臓の音が止まるまで、訳も分からずに涙を流し続けていた。

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 ラムズはゆっくりと部屋の温度を上げながら、床に落ちる寸前であった宝石達を一つ一つ拾い上げては確かめ、元の場所へと戻していった。そうして最後に拾い上げたのは、レヴィが最期に流した涙の雫の一つであった。
「ああ。確かにこれだけは宝石に似ているな」
 ラムズは何も言わずに雫を指先で割った。
「だが宝石じゃねえ。お前の涙にそんな価値はねえよ」
 さっと氷魔法を解けば、それは他の氷だった水と混じり合っていった。水が床板に染み込む前に、小規模な風魔法を使って水分を気化させていけば、一つの氷像の他はいつも通りの部屋に戻った。
「船長、島が見えた!」
「ジウ、ノックをしろと何度言えば分かる。丁度いい、これを片付けておけ。メアリに気付かれない内にな」
 ラムズは顎で腕のもげた氷像を指した。ジウはいつも通り楽しそうに「はーい」と返事をすると、氷像を纏めて担いて部屋から出て行った。
「お前は俺を知らなさ過ぎた」
 その小さな呟きは、バタンと閉まるドアの音にかき消された。


 Bad end.