邪魔な香水

 ワタシがこの前ゴミを食べたせいだろうか、ラムズはお小遣い程度に金を渡すようになった。最初はいらないと跳ね除けて、飛び散ったコインを目で追いながら遊び道具にしていたけど、結局、渋々拾い上げてなにかに使うことにした。
 酔ったような歩き方で、あっちへふらり、こっちへふらり。フードを深く被って馴染みの路地へ向かう。最近めっきり裏リーゲンで過ごすことは減ってしまった。暖かくて暗くて、食べ物の美味しいラムズの地下室のほうがずっと居心地がよかった。

「ガネリア、最近見ねぇと思ったんだ」

 くちゃくちゃと物を噛みながら裏リーゲンの知人がやってくる。ヘケトという魔物の|獣人《ジューマ》だ。Y級だったっけ。つまりワタシより弱いってことなんだけど。

「ちょうどいい布団を見つけたから」

 男は長く細長い舌をぴしゃりと伸ばし、飛んできた虫を捕まえて食べた。人間の食事のほうが美味しいらしいが、魔物時代に食べていた虫もまた変わった味がして興味深いとか。

「オレにも紹介してほしいね」

 ぎょろぎょろと出っ張った目玉で、舐めるようにこちらを見る。

「上がったわけじゃねぇだろ」

 上がった──つまり、奴隷として飼われているという意味だ。皮肉を込めて「奴隷に上がる」なんて言う。

「違うよ。枷がないだろ」

 男は舌で自分の前髪を払った。

「にしては……随分キレイな髪になったじゃねぇか」

 けひひと気味悪い笑い声を出す。彼の喉仏が大きく上下に揺れた。

「洗ったんだよ」
「いつもの舌で? っく、は、ハハハハ」

 男は腹を抱えて大声で笑った。
 たしかに彼の嘲笑うとおり、ワタシは今までずっと舌で体を綺麗にしようとしてきた。でもいつも路地にいるせいで綺麗になった先から汚れていき、舌も疲れるから半分諦めていたのだ。でもこの前からラムズの地下室にいることが増え、毛繕いの時間が増えた。おかげで金髪は見違えるように輝いたし、黒い毛並みは艶を見せるくらい美しくなった。──まぁ、そのせいでこうして裏リーゲンに出かけるときに目立つのが玉に瑕だ。

「うっさいよ。Y級のくせに」
「黙れ」

 |獣人《ジューマ》たちのあいだじゃ、人間の付けたランクでお互いのカーストを測っているところがある。皮肉なもんだ、|獣人《ジューマ》はだいたい人間が嫌いなくせに、こうしてあいつらが付けたランクに左右されてるんだから。
 でもワタシはみんなが羨むW級だし、ちゃっかり肖らせてもらっている。
 言い返されて気分を害した男は、穴の空いた靴で地面を蹴った。砂埃が舞う。右手を丸めて目を擦った。

「やめろよ」
「誰か探してんのか」

 ワタシは視線を逸らした。

「や。ただ暇つぶしに店でもいこうかと」
「ッハ、羽振りもいいわけだ」
「仕事見つけたんだよ」
「どんな仕事なんだか」

 まぁ、自慢できるような仕事じゃない。でもワタシは馬鹿ではないので、安易に薬を売っているだなんて伝えはしない。

「『青の巣窟』ってとこ、けっこう楽しいらしいぜ。いい酒を出すとか。三番廃墟の裏」
「……ふうん」

 また“青”だ。ワタシは止めていた足を再び動かした。彼と積もる話はない、もともと顔なじみ程度の仲だ。向こうも同じ気持ちだったようで、腰を左右にずんずん振りながら路地の奥へ消えていった。




 ……来なきゃ良かった。あいつ、こんな店紹介しやがって。さすが低級魔物上がり。
 まさか“これ”を見越して薦めたんじゃないだろうが、むしゃくしゃした気持ちは心中で不当に彼をなじっても収まらなかった。

 女に薄い笑みを寄せながら話してる例の男を見ていると、心の奥にどす黒い何かが燻っていくのに気づいた。前に食中毒だったかに患ったときも辛かったけど、あれのほうがずっとマシだ。だって吐き出せばすむ話だったから。薬もあった。今は口から吐き出そうとすればするほど、むしろ燻りが脳を支配していくような気がした。もちろんこれにつける薬はない。
 いらいら、いらいら。ぐるぐる、ぐるぐる。天井のランプが青や黄色に明滅し、そのたびにワタシの金眼は細まったり見開いたりする。
 原因がわからないから余計不快──そう言ってしまいたいが、ワタシはそんな都合のいいおツムは持ってない。ちゃんとわかってる。あの男を気に入っていたからだ、あいつがワタシだけに心を許してくれていると思っていたから。あぁ、そう。そうだよ。あいつを、……慕っていたからだ。ぎちりと牙で噛んだ唇の先から、苦い血が流れた。
 机にのったグラスを鋭い爪で掴むと、喉の奥へ無理やり流しこんだ。爪のせいでグラスに細い傷が入っている。それに見ないふりをして、嫌でも耳に入ってくる会話を押しだすようにフードを目深に被った。

 あの男がワタシの存在に気づいているかどうかは知らないけど──十中八九バレてる──、彼の前を横切って店を出る勇気はなかった。だからワタシはこうして数時間、頼んだ酒をちびちび飲みながら店の奥で縮こまっているわけだ。

「他には?」
「えー、話してるのわたしばっかりじゃん!」
「言ったろ。退屈してたって」
「たしかに。最初見かけたときはほんっっとうにつまらなそうな顔してたもん。今は少しマシになったかな?」

 女はけらけら笑い、彼の膝を叩いた。そのあと急に声のトーンを落とし、上目遣いに見る。

「でもほんと……ありがと。助けてくれて。あのまま飲んでたらわたし、いまごろ」
「いいえ」

 それ以上のお礼は必要ないとばかりに、男はうやうやしく答える。

「青い飲み物には気をつけたほうがいいぜ」
「でもどうして睡眠薬を入れると青くなるの?」
「魔法の元素の関係じゃねえかな。黒っぽいのも怪しい」
「闇の神デスメイラ?」
「そう。まあ、知らねえやつからもらったもんは遠慮したほうがいい」
「そっかぁ。前煙草もらったことあるんだけど、あれもやばかったのかなぁ」

 女のほうはやたらデレデレしているけど、鬱憤の原因である彼の男──ラムズは一向ふだんどおりだった。だからこそ皆惹かれるんだろう。つれない態度で、こっちなんて欠片も興味がありませんって顔をしてるから。
 絶対この子もこのあと薬漬けにするんだ。いや……、そう思わないとやってらんない。

「あー、カレンも煙草吸うんだ」
「うん。でもなかなか買えなくて」

 ラムズは手に持っていた煙草に目を止め、首を傾げた。唇に微笑が掠める。

「あげるよ」

 彼は吸いかけの煙草を女に渡した。
 頭のネジ飛んでんじゃない。吸いかけ渡すって、そんなの誰もいらないから。新しいの渡せばいいのに。

「えぇ、吸いかけ?」

 思ったとおり、女は冗談ぽく──心は幻滅中だろう──笑って問いかけた。

「さっき言ったろ、こういうのにも魔法かかってるって。俺が吸ってたのなら問題ねえかなと──やなら、新しいの」

 彼はそう言ってジャケットのポケットから煙草の箱を取り出そうとした。

「うそうそ、そっか。たしかにそうだ。ラムズさん、頭いいね。せっかくだからこっちもらう」
「ああ」

 ラムズはそっと笑い、彼女に煙草を渡した。

「いくら助けてもらった相手でも、そんな簡単に信じねえほうがいいよ」

 新しい煙草に火をつけるラムズの横顔。きゅうと唇が弧を描いた。

「もちろん、俺のことも」

 妖しく嗤う瞳の奥が、凍てつく氷のように静かに閃いた。這い上がるリボンの煙が彼の髪にもつれ絡んでいく。
 女はラムズから受け取った煙草を口にくわえる。女の心拍音が伝わってくる。普通より早い。彼の魅力に絆されてしまったか、──やっぱり煙草に魔法をかけられていたのか。



 一時間ほど経って、異常に酒の回りが早くなった女はとうとう店を跡にした。

「また会ってね、いぇーい」

 ハグまでして、蒸気に染まった頬を見せつけている。そのあいだもラムズはあの仮面のような表情の下、甘い笑みを蕩かして冷ややかな声で受け答えをした。

「ああ、またな。気をつけて」

 最近|依授《いじゅ》された|獣人《ジューマ》の話、自分がかつて仕えていた貴族の屋敷の話、特殊な神力持ち、裏リーゲンで力のある者、ラムズは一言も自分の身の上を話さないくせに、女には一切合切吐かせた。
 そうだと思った。絶対、あの煙草にも魔法がかかってたんだ。なにが「他人からもらったものには気をつけろ」だ。あんたがいちばんの毒じゃん。
 じわじわと蝕む彼の甘い毒は、ワタシの胸にもたしかな痛みを連れて侵していた。


 いよいよ帰ると思ったのに、ラムズはまだ店にいた。ワタシは空になったグラスを見つめる。また注文しないといけない。ポケットに入った小銭を数える。あと3時間ぐらいなら──。

「い、いた。見つけた。ラムズラムズラムズラムズ」

 フードの中でぴんと耳が立った。聞いたことのある声だ。誰だ。なんとか記憶を辿って、五年前に消えた友達、イヴォナだと検討をつける。薄目で確認すれば、彼女で正解。あれから少し肉付きがよくなり、ショートヘアだった髪を肩すぎまで伸ばしている。
 彼女は人間の女の子だけど、思ったよりウマが合って一時期一緒に過ごしていた。噂で、たまたま仲良くなった男がどこかの屋敷の庭師で、イヴォナはメイドとして召し上げられたって聞いた。たしかに愛嬌のある顔をしているし、裏リーゲンの者にしては行儀がよく仕事覚えの早い子だった。
 なんでイヴォナがラムズと? ちかちかと瞳孔を左右に揺らす。ワタシはいっそう耳をそばだてた。

「探したの、ねえ。あの、えっと」
「向こうで話そう」

 ラムズは目線で奥の部屋を示した。イヴォナは落ち着かない様子で何度も首を縦に振る。二人はカウンターのそばを通って、酒屋の奥の小部屋へ入っていった。ラムズは常連なのか、個室を使うのが許されているらしい。
 部屋が変わっても、よっぽど特殊な魔法でもかけられない限り声は聞こえる。深く深呼吸、瞼で視界に蓋をする。精神を落ちつけ、ラムズたちの部屋のほうへ神経を尖らせる。
 薄いベールのようなものがかかっている。やっぱり一応魔法をかけたらしい。でも簡単なものだ。人間やY、Z級の|獣人《ジューマ》じゃ突破できないかもしれないけど──ワタシは楽勝。

 そうしてワタシは、一応追加の注文をしたのち、彼らの会話に聞き入った。