解けた氷は戻らない

 男と契約を交わしてから一ヶ月。ワタシは彼を存外気に入った。必要最低限の話しかしないし、ワタシがほしいものを的確に与えてくれるから。
 暖かく新品の毛布、小ぶりの暖炉、食事、大量の水。それだけあればワタシは生きていられる。余計なものを寄越さないところも悪くないし、無駄なお喋りや面倒な駆け引きが必要ないところもなかなか。

 廊下を突っ切った正面の部屋は自由に行き来できる。新しく備えつけてくれた低反発の合皮のソファで丸くなり、暖炉の炎を瞳に映し寝るのが至福だった。
 ワタシがよくそうやって寝ていると、あいつは「魔力の濃い|獣人《ジューマ》は、元の魔物の習性にかなり近いんだな」とかぼやいていたけど無視した。
 おそらくあいつはワタシより頭がよく、切れ者なんだろう。文字も読めて書けるようだったし、お金の計算らしきことをしていることもあった。仕事を頼まれるときも計画に無駄がなく、あいつが想定しない事態に出会したことは一度もない。だからもちろん、仕事を失敗したこともなかった。


 いつかワタシがソファで寝ようとして、あいつが先に座っていたことがある。墨色のアイアンテーブルに青い小瓶をのせ、中の液体に魔法をかけているみたいだった。

「寝れない」
 棒立ちで彼を見下げる。くるんと顔側に曲がった自分の横髪を強く引っ張った。
「悪い」
 彼はソファの端に座りなおしたが、それでもワタシは満足しなかった。
「邪魔。全部使いたい」
「やってることがあるから」
 いらいらと爪を伸ばしたり引っ込めたりする。威嚇しても彼が怯むことはない。こっちを見もしない。折れるつもりはないんだろう。
 ワタシは諦めてソファに寝転がった。ストレートの長い金髪が椅子から流れ落ちていく。
「狭い」
「いつも丸くなってんだろ」
「伸びるときもある」
 自由に伸びをしたり丸くなったりできない。だから不便。ワタシが不機嫌そうに眉を寄せていると、男は作業を続けたまま声を投げた。
「ここならいいよ」彼は左手で自分の膝を叩いた。
「枕いらない」
「あっそ」
 ワタシは嫌々体を伸ばして、頭を彼の脚にのせた。ひんやりした温度が頭皮から伝わってくる。これは少し気持ちいいかも。とはいえ頭が上がってるのは落ちつかない。
 何度か寝返りを打っていると、ラムズが瓶の中を見ながら零した。
「そう動かれると煩わしい。早く寝ろ」
 彼はワタシの目の上に冷たい掌を押し当てた。滑らかな肌触りの反面、死人のような温度にきゅうと心臓が縮こむ。冷たいのは苦手だ。知ってるくせに。
 意外と強い力で頭を抑えられるので、仕方なくワタシは眠る努力をすることにした。
 彼は瓶を置いて煙草を吸いはじめた。魔法で炎を付ける。薄闇の空間のなか、青い火が明滅している。ランプも青、ラムズの瞳も青、煙草の炎も青。ついでに『フシューリアの生き血』も青だ。
 煙の苦い匂いに鼻をぴくぴくと動かし、ワタシは横を向いて彼の腰周りに顔を埋めた。
「ラムズ。ワタシっていつまで仕事すんの」
「死ぬまで」
「……え、一生このまま?」
「文句ある?」
 彼の革製のベルトを見ながら考え込む。細かいダイヤが散りばめられている。これには触っちゃいけないんだろう。
 ラムズが瓶を持ち上げたり置いたり、テーブルに凛とした音がそっと落ちる。それを五回聞いたところで呟いた。
「ない」
 これ以上にほしいものはない。会いたい人もいなければ、特別違った環境に身を置きたいもいう感情もない。布団と暖かい場所で眠れれば、ワタシはそれで。

 ラムズの膝の上で、息を凝らすように体を固めていた。ワタシからはもちろん、彼からもなんの息遣いも聞こえてこなかった。規則的すぎる心拍音は逆に不穏な気持ちにさせ、よしなしごとが頭に浮かんでは消えていった。

「眠れない。魔法で寝かせて」
「お前は魔法で眠ると、寝起きの気分が悪いと思うぜ」
「でも寝れないんだもん」
 彼は初めて机から視線を外し、首を曲げてこちらを見下ろした。硝子玉のように透きとおった青が、なんの感情も映さずに尋ねる。
「触っていい、首」
「首?」
 ワタシは露骨に顔を歪めた。片眉を上げ、少し尖らせた爪で自分の掌を引っ掻く。
「なんで」
 ワントーン声を落とし、ぎゅうと瞳孔を細め睨めつけた。
「ケットシーやカクタスシャットは、そこを触ると大人しくなるから」
「大人しく?」
「眠そうにする」
「……でも、魔物じゃん」
 ほんらい魔物は凶暴な生き物だ。カクタスシャットなんて特にそう。つまりワタシもちょっと凶暴……かもね。
「飼えるように薬を与えた魔物だったかな」
 心が|昏《くら》いマーブルに染まる。同じ仲間ともいえるカクタスシャットが人間に飼われている。自分は関係ないから知ったこっちゃないと割り切れそうな気も、胸糞悪いことをする人間に嫌悪感を抱いているような気もした。
「お前にも意味があるのか試したかった。嫌ならいい」
 歪な眼球を前に戻すと、また作業に戻った。
 結局その日はうまく寝付けなくて、作業終わりのラムズに何度も悪態をついて終わった。


 顎の下を擽られると気持ちいいと知ったのは、そのつい三日後だった。

 彼に頼まれた仕事終わりの道中、たまたま捨てられていた生ゴミの残骸を見て、つい出来心で口にしてしまった。かつてさほどまずいと思った記憶はなかったのに、腐ってぶにょぶにょのアプルと虫の集った肉を胃に通してしばらく、耐え難い吐き気に襲われた。
 命からがら地下室に戻ってきて、中のものを全部吐きだした。気持ち悪い、気持ち悪い、胃の中がぐるぐるする。
 手元に置いてあった瓶を取ると、浴びるように水を流しこんだ。唇の隙間から水がだくだくと零れ落ち、服が濡れ体に張りついていく。最悪だ、寒気までしはじめた。

「ッホ、ぁあ。っか、ハッ」

 すごい声で咳き込んでいたせいだろう、地下室を開く音がして、眩しい光が廊下に差して黄色い道を作る。
 いつもより早足でやってくるヒールの子気味良い音が聞こえる。

「ガネリア。誰かに毒でも盛られたのか?」
「が、ッ、ち。ちが」

 ワタシは床に手を付き何度も何度も胃液を吐き散らした。胃をひっくり返して叩いてるみたいだ。
 ラムズはそばに吐いてあった残骸を見て、訝しむような声を出した。

「もしかしてゴミ食ったのか?」

 なんとなく馬鹿にされてる気がして、無視して咳を続ける。

「なんのためにだよ……」

 前の味を試したくなったんだよ。最近はラムズにもらった食事しかしてないから、昔のと比べてみたくなったの。
 もちろんそんなことを説明する気はない。ワタシはまた水の入った瓶を掴んだ。喉に水を通そうとすると、ひりついた粘膜が悲鳴をあげて弾けるように噎せた。

「水飲めば治るってもんじゃねえだろ」
「っは、ぁハァ」

 いがいがになった喉を堪えて、かすれ声で答えた。

「前は、いけた」
「んー……。食中毒にかかったんじゃねえの。今までが奇跡だろ」
「しら、ない」

 彼は腰を上げ地下室から出ていった。
 心拍数が上がり、全身が火照っていくような感覚がした。頭が朦朧とする、喉や腹がキリキリ、ぐるぐる、鈍痛が腹の底へ染みるように響いている。

 また戻ってきた。ワタシの近くでしゃがむと、そっと顔を上げられ、顎を掴まれた。

「薬」

 定まらない視界に彼の持つ小瓶を捉え、素直に口を開いた。液体が舌に触れ、歯に染みたあと火がついたようにカッと激痛が走った。瓶を持っている彼の腕を掴む。釘のように尖らせた爪を肌に食い込ませた。
 涙目でラムズを見上げる。

「毒じゃない。薬。毒は甘いもんだ」

 んー……。そうか。一応納得して、腕を離した。薬を喉の奥へ飲みくだせば、炎症を起こしていた口はいくらか落ち着いた。肩で息をする。

「原因がわからねえから、適当に飲ませた。軽いもんなら効くと思うが、副作用が強い」
「な、なに。ふくさ、よう」
「気分が高揚して眠れなくなる。お前には酷だろ」

 なんだ、それくらいか。胸をなでおろし、その場でごろんと横になった。毛布を掴んで体にかける。

「そんくらいならいい。自分のせいだし」
「もう食うなよ」
「…………たぶん」

 ラムズはちらりと目線をこちらに寄せたあと、薄い吐息とともに答える。

「じゃあ、次はもう少し経ってから飲ませることにする」

 返事替わりに毛布をさらに上へ引っ張った。
 薬はやらないとか、もう看病しないとか、そう言わないところがラムズだと思った。無駄なことはしないし、正しいことしか言わない。
 看病しないつもりも薬をやらないつもりもないんだろう。仕事をするワタシがいなくなったら彼も不便だから。それをワタシもわかってるから、無駄な脅しなんてしない。
 そこが彼の好きなところで、でも、うっすら気に食わないところでもあった。

「いろいろ、どうも」

 ラムズは空っぽの瓶を持って出ていった。また水を替えてきてくれるんだろう。代わりに着替え用の服が置いてあって、あんだけ素っ気なく無関心そうに見えても、こんな細かいところまで気を遣えるあの男にまた腹が立った。

 それから数時間、何度寝返りを打っても、ソファと牢屋と場所を変えても、まったく眠くならなかった。ふだんから人の倍以上寝ているワタシにとって、眠れないというのはたしかにある種拷問ですらあった。
 ソファにうつ伏せになって脚をばたばたと動かす。
 眠れない、眠れない。つまらない。机にのっていた瓶を傾けてみたり、蓋を開けて匂いを嗅いでみたり。ソファのクッションを全部外して床に落としてみたり。思いつく限りの暇つぶしをぜんぶ試したけど、一向にデスメイラが迎える気配はなかった。

 脚をソファの背もたれにかけ、逆さまになって垂れ下がる。長い髪が床について埃を払う。

「起きてたのか」

 逆向きのラムズが見える。逆さでソファに座っているのはいつものことだ。何も言われない。
 勢いよく腰を丸め、ぐるんと飛び上がって宙で一回転、ソファに座りなおした。

「壊れる」
「ソファ?」
「めちゃくちゃじゃねえか」

 空の瓶だからいいと思って、床のあちこちに蓋や瓶を転がしてしまった。ソファのクッションは取れているし、机や肘掛椅子はいつも違うところにある。

「眠れなかった」
「だろうな。具合は?」
「治った……と思う」

 腹からぐるるると音が聞こえる。何度か摩ってみたが、面倒くさいので知らんぷりした。きっと問題ない。

「眠れない」
「ひとりで遊んでろ」
「ペットか何かだと思ってる?」
「似たようなもんだろ」

 裸足でぺたぺたと廊下を歩き、牢屋に戻った。毛布を引っ掴んで小さく丸まる。頭の上まで被って、この空間で聞こえるすべての音に耳をしました。
 どこかで雫が垂れる音が聞こえる。これは外の排水管かなにかだろう。地下室はラムズがものを片付ける音しかしない。あ、ソファを元に戻した。次は瓶を机に置いてる。
 ワタシがここまで部屋を汚したことはない。だから怒られなかったみたいだ。次やったら怒られるかもしれないな、と鼻に皺を寄せながらそっと耳を伏せた。

 それから一時間くらい。やっぱりワタシは眠れなくて、牢屋からラムズのいるところまで戻ってきた。わざわざ一緒に地下室にいる必要はないと思うけど、彼なりに気を遣っているのかもしれない。それはそれで癪だ。
 ワタシは遠慮なくソファに腰かけた。体を倒し、反対側の肘置きに脚を引っ掛ける。

「手、邪魔」

 ラムズが腕を上げ、ワタシは頭を膝の上に落とした。

「なにしてんの」
「薬作ってる」

 やばい薬を作ってるくせに、彼はまったく狂っていない。たぶん使ってないんだろう。中毒になること、おかしくなることを知っているから、いくらケセラセラとハッピーを送る薬だろうと手を出さない。ラムズはあくまで人を陥れるだけで、自分も一緒に地獄へ落ちるような真似はしない。そういう馬鹿な人じゃないんだろう。

「美味しいの?」
「美味しいよ」

 ぎろりと眼を回した。

「使ってるの?」
「たまに」
「見たことない」
「じゃあ今度見せてやるよ」

 彼がやっぱり阿呆だったのか、それとも彼が使うからには少し飲むぶんには問題ないのか。

「使ったらおかしくなるでしょ。客みたいに」
「ありゃやりすぎたんだろ」
「やりすぎなきゃいいの?」
「見てのとおり」

 ふうん。鼻で返事をして、また腰元に顔を埋めた。

「頭、がんがんする。眠れなくて辛い」
「早く処置するべきだと思った。別の薬にすればよかったな」
「……いいよ」

 何日か前もこんな会話したかも。眠れないって。喉を触っていい?とか言われたんだ。変態か、って。
 ワタシはなんとはなしに自分の喉を触ってみた。少しくすぐったい。喉の奥がごろごろと鳴った。重い玉を穏やかに転がしているような音。じんわりと体が温かくなってくる。なんだこれ、変なの。
 手を上へ伸ばしてラムズの顎の下に触れてみる。

「なに」
「あんたが言ったんじゃん」
「あー、そっか」

 そっかってなんだよ。覚えてすらいないのかよ。ネックレスに触れないように気をつけながら、彼の顎をくすぐった。
 ラムズはたまにアクセサリーをたくさん付けて地下室までやってくることがあるけど、そういう日は必ずすぐに戻ってしまう。忘れ物を取りにきたとかワタシの食事を置きにきたとか、野暮用のために降りるだけだ。
 逆にこうして作業をする日は、ピアスと指輪、細いネックレスをつけるだけ。昔、大ぶりの揺れるピアスに触ろうとしたらすごい剣幕で怒られた。「揺れるから、気になって」と言い訳をしたら、この地下室に来る日は絶対揺れるピアスを付けなくなった。少し残念。
 今日も黒い宝石を左耳に三つ、右耳に二つ付けているだけだ。
 というか。いつまで触っていてもなんの反応も示さないじゃん。

「やっぱり意味ないじゃん」
「俺はね」
「ワタシは意味あるの」
「カクタスシャットだから」
「へえ。まあいいや。じゃあしてみて」

 胃や喉、頭の具合は悪かったけど、機嫌は良かった。薬のせいかもしれない。いつもなら絶対触らせないけど、自分のせいでかかってしまった食中毒を治してくれたから、今日は許してあげることにした。
 ラムズは空いているほうの手で顎の下に手を入れる。

「冷たい」
「わりい」

 作業片手間に喉をくすぐられる。思っていた以上に心地いい。意識しているわけじゃないのに、喉の奥が鳴りはじめる。なんとなく気に食わなくて、彼の冷たい手首に爪を回した。

「穴開けたら、血、お前の上に落ちるよ」
「そっか」
「もうやめる?」

 ぎちぎちと手首が締まっていく。骨がぼきりと折れた重い感覚がした。それでもラムズはこちらを見向きもしないし、淡々と作業を続けるばかりだ。

「あんたにされるとムカつく」
「じゃあ自分でやれ」
「人にしてもらうほうがいいみたい」
「じゃあ誰かに頼んでこい」
「そんな相手いない」

 ラムズはこちらに視線を落とした。

「わかった。俺がやりたいから、やらせて」

 手首を掴んでいた力を一瞬緩めた。三度ほど瞳孔を揺らしたあと、しぶしぶ頷く。

「うん、ならいいよ」

 こいつがやりたいって言うならやらせてあげよう。ワタシはぱっと腕を離した。腐りかけて皺だらけになっていた彼の腕に血が通いはじめ、元通り真っ白の骨ばった手首に戻った。
 首の下に再び指が当てられると、どきりとして冷たさに鳥肌が立ったが、あとは抵抗しなかった。じんわりと体が温かくなり、自然に瞼が被さる。微睡みが手招きし、よろこんで落ちた。