ガラス箱に眠るサファイア

 レースカーテンをそっと持ち上げ、部屋に入ってベッドに腰を下ろした。既に給仕が酒を運んできてくれている。ワゴンにボトルと二つのグラスが並んでいる。もちろんラムズは手をつけていなかった。
 仄かに灯る紫のランプはベッドシーツの幾何学的な模様を浮かばせている。ボトルの赤紫が落ち、クリスタル製のグラスはまばらに虹を魅せて煌めいた。赤ワインと机に飾った花の香が混ざり、甘く妖艶な匂いが漂う。
 隣に座る彼の銀髪は淡い葡萄色を透かし、黒いシャツから覗く鎖骨にくっきりと影ができている。プラチナの睫毛が毒々しい色に瞬き、唇は不機嫌そうに結ばれている。
「……ラムズ? まだ向こうで話してたかった?」
「……おまえ」
 さっきより幾分かマシだけど、掠れたアルトに胸が鷲掴みにされた。鋭い目付きが冷たく顔を舐める。
「なんで俺って答えた」
 さっきの、どっちの宝石が好きかって話だよね。
 ラムズの前でどんな顔をすればいいのかわからない。取り繕い、他の客みたいに煽てたり飾ったりするべきなのか、それとも正直に答えるべきなのか。
「だってぇ……」
 足のあいだで手を揉む。汗ばんだ掌を、腰に巻いたシルクで拭く。
「好きだったから」
「なにが」依然、冷たい声だ。
 間違えたら殺されるかも。下を向いたまま、視線を左右に走らせる。
「詳しいことはわかんないよ。だけどぉ、ラムズのほうが宝石が好きそうだったし、そういう……使い方に見えた」
「もっと詳しく言って」
 声色がさらに冷えたわけではなかったので、私は一度深呼吸をした。
「ウェルリッチ氏は、宝石が綺麗なんじゃなくて、『彼が主役だ』って思った。でもラムズのは──。わ、私はラムズの顔も好きだけど、でもそれとは別にね。ウェルリッチ氏よりも宝石が√Y麗だぁって思った。宝石が主役なのはラムズかなぁって」
「さっきの、好きって?」
「それはえっと……」顔を上げて、へらりと笑った。「ラムズの宝石の使い方のほうが好きってこと」
 彼は私のうなじへ手を回した。冷たい温度が首筋に伝う。彼の綺麗な顔が近づき、無機質な青眼がこちらを見下ろす。何か言おうとして開いた口が、凍みた唇に閉ざされる。
 キス、された。
 後頭部に手がまわり、ぐいと体が近づけられる。舌がやんわりと唇を割り、羽のようなタッチでしっとりとナカをなぞる。
「っあ、はッ……」
 くちゅりと水音が漏れ、熱を持った私の舌を捕らえては虐める。喉の近くをくすぐられ、息苦しくなった呼吸を喰われる。舌が絡まり、濡れた唇を食まれる。舌の裏筋を柔くなぞり、ちろちろと歯茎を這う。角度を変えて唇が重なり、脳も口もどろどろにとろけていく。舌先を甘く弄ばれ、熱に浮かれた頬を彼の指がそっとなぞる。頭がぼうっとしてきた。
「っん、んぁ、は、ぁ」
 呼吸を求めるように口を開くと、むしろそれを覆い舌で犯される。溶けちゃう、体が溶けちゃう。私は必死に彼の腕に掴まり、舌を追いかけた。荒い呼吸のあいまに舌が粘膜を擦り、唾液を絡めとるように嬲られる。味のないラムズの唾液が喉をねっとりと垂れ、体の奥がきゅうと疼く。
「っあ、ん……ら、む」
 彼が顔を上げる。赤い舌が自分の唇を拭う。こちらを見る目はもう冷たくなくて、前と同じように仄暗い悪戯で目を光らせている。
「ね、っは……。らむ、ず」
「なに?」
 私が息を整えようとすると、彼はまた顎を持ち上げ唇を重ねた。唾液を塗り込むように舌を弄り、粘ついた水と熱い温度がないまぜになって、体が重心を保てなくなる。濃厚な口付けが何度も落とされ、熟れた唇から銀糸が滴る。舌が溺れ、ちゅうと柔く吸われて悦に埋もれていく。
 息継ぎのできない私を彼は虐めつづけて、喉が苦しくなっても離してくれなかった。息の代わりに甘い唾液がねっとりと口内を浸し、ずぶずぶの快楽に堕とされる。
 ようやく体を離されたときには、酔ったように頬が蒸気してしまって、なんにも考えられないくらい酷い恍惚に包まれてしまっていた。
「ど、ぉして……。いきなりぃ……」
 ぐらぐらと体が揺れ彼のほうに倒れた。ラムズは優しく受け止めてくれる。胸に頬を当て、心臓の音を聞くようにじっと体を固めた。
「さっきの、ほんと?」囁き声が降りる。
「嘘、ついたら……、ラムズに、バレそう」
「たしかに」
 彼は私の背中をそっと撫でてくれている。まだ呼吸の乱れている私とは違い、ラムズはやっぱりいつもどおりだった。
「なんでキスしてくれたの?」
 髪を掬い、するすると落ちていく。「嬉しかったから」
「そぉ……なの?」
「そうだよ」彼はわたしの体を離し、柔らかな目でこちらを見た。「もっと言って」
「宝石のこと?」
「ああ」
 容姿やそれ以外を褒められるより、宝石を褒められるほうが嬉しいなんて。本当に変わってる。
 顔のよすぎる彼の笑顔は本当に心臓に毒だ。あんまりどきどきして死んじゃいそう。収まる様子のない心拍に気づかない振りをしながら、私は首を傾げ、彼の付けている装飾品に目を移した。
「きれい。お貴族様が付けている宝石はよく見てるけど、ラムズのは……きっと大事にしてるんだね。金属が錆びてるところは全然ないしぃ、これとか……」触らないように、コートについた宝石を指さした。「管理が大変って知ってる。でも全然、色変わってない」
「へえ、あとは?」
「こっちはぁ……スピネル?」
「そうだね」
「他にもたくさん宝石を使ってるのに、一緒に使えるなんてすごい。ちゃんとスピネルの色だねぇ? どうやってるかわかんないけど、こういうのは見たことないなぁ」
「それで?」
「え、まだぁ?」私は具に彼の宝飾品を眺める。「こっちは金だけど、とっても精巧。こんなに細かい彫りなのに、全然埃も汚れも詰まってない。それに……いっぱい宝石つけてるのに、全部がちゃんと輝いてて、お互いを殺してないね。服もそうだけど、付け方のセンスがいいのかもぉ?」
 少し顔を崩し、舌をちらりと見せた。「ちょっと偉そうだったかな?」
「いいよ。すごく嬉しい、ありがとう」
 彼は私を引き寄せ、抱きしめた。
 やばい、やばいやばい。こんなに優しくしてもらえると思ってなかった。どんなご褒美? ちょっと自慢するつもりだっただけなのに。ちゃんとできたでしょうって。それなのにこんなに、『嬉しい』とか。この前は絶対言ってくれなかったのに。ちょっと幸せかも。ちょっとじゃなくて、すごく。こんなにかっこいい人に抱きしめられるって、そんなの、ある?
 私は彼の袖を掴んだ。ほんのり甘い香水の匂いがする。
「ラムズ、ちょっと変。どしたの?」上擦った声が漏れた。
「俺だって、褒められたら嬉しいよ」
「宝石のこと?」
「ああ。綺麗って言われるのは嬉しい」
「そっか……。間違えなくてよかった」
 彼は体を離し、こちらを静かに見下ろす。「怖かった?」
「へ? あ、ん……」腰に巻いた布を掴む。皺が寄った。「ラムズもだし、あの人お金持ちだったからぁ……。反感を買ったらお店から出されちゃうかなぁとか、そもそも殺されちゃいそうだなぁとか」
「それなのにどうして俺のほうを選んだの?」
 唇に指を当て、ほんのり首を傾げる。「ん〜。どうせ殺されるなら、本当のこと言って殺されたほうがいいじゃん?」
「おまえ……」ラムズは目を細め、私の髪を少し乱した。「ずりいやつだな」
「ラムズに言われたくなぁい」
 彼はくすりと笑い、今度は髪についたアクセサリーに目を映した。
「綺麗だね。前より似合ってる」
「ほんとぉ? けっこう研究したんだよ。人気にもなったよ?」
「そうだな、十分わかったよ。ここ、座って」
 彼は足を開き、自分の前に来るよう促す。私が前に座って彼の背中に体を預けると、腕ごと後ろから抱きすくめられた。
「頑張ったね。さっきも。怖がらせてごめん」
 ラムズの吐息が耳にかかる。じんわりと濡れ、熱を持ち始める。意識しないようにすればするほど鳥肌が立ち、ラムズにバレてるんじゃないかって不安になる。
 私はあえて明るい声で問いかけた。
「どうしてあんなに怒ってたの?」
「お前が向こうを選んでたら殺してたよ」
「えぇ〜」
 耳に唇が寄せられる。「ほんとに」
 ぞくりと心臓が戦慄く。彼の膝を掴んだ。
「じゃあ、よかったぁ。ラムズに嫌われるほうがいや」
「そう? あいつのほうが金持ちだよ」
「あ、うーん……そっか。そういえばそうだった」
 ラムズのことばっかり気にしていて、ウェルリッチ氏をお客様にすることをすっかり忘れていた。彼も私の指名客にしてたら、それこそいちばん人気なんて目じゃなかったのに。
 なにしてんだろ、私。でも不思議と後悔はなくて、何度時間を戻しても同じ選択をするんだろうなって思った。
「お金も大事だけどぉ。私はラムズと話したかったもん」
「へえ?」
 彼は後ろで私の髪飾りを触っている。首に腕が回され、皮膚を冷たい指が這い撫でていく。
「三ヶ月の時点で、ちゃんと約束は果たしてたからね」
「俺も来たじゃん」
「ちょっと遅ぉい」
「悪りい。ウェルリッチを呼ぶのに時間がかかったんだ」
「なんであの人たち、呼んできたの?」
 一拍時間が空いたあと、そっと言葉が落ちた。「金がねえから」
「え?」
「金がない」
「嘘だぁ、そんなに高い宝石いっぱい持ってるのに。今回の分くらいなら全然大丈夫でしょう?」
「宝石に金を使いたい。だからない」
 微妙な気持ちになって、抱かれていた腕を払った。ラムズと顔を合わせる。
「酷くない? 私に使うお金はないってこと?」
「悪い」無関心そうな目がこちらを見下ろす。
「悪いと思ってないでしょ? せっかく……んー……」
 もやもやした気持ちは晴れず、お客様の前なのに俯いてしまった。
「お前」
「なに?」ちょっと低い声で返しちゃって、ごほんと咳払いをする。「なぁに?」
「勘違いさせたかな」
「なにが? ウェルリッチ氏に払ってもらうために呼んだんでしょ?」
「んー……俺のぶんは自分で払ってる。残り五人のぶんをウェルリッチが払った」
「え? でも最初お金がないって言ったじゃん。じゃあなんで呼んだの?」
「お前に金を使うため」
「……え?」
「聞いてねえか、全員パメラを指名って言ったよ。オーナーがそれだと女の子が足りないって言うから、指名料は全部お前に金を回すってことで、数人付けてもらっただけ」
「そう、なの? なんで? 別に……えっと……」横の髪をくるくると弄ぶ。「最初からラムズだけ来てくれればよかったんだよ?」
「でも遅れたし、思ってたよりお前が凄かったから。稼げたほうがいいんじゃねえの」
「……ん、うん。私のために人を集めてきたの?」
「まあ、そう」
 私は彼の腰に腕を回した。ぎゅう、と音が出るくらい強く抱きしめる。「めっちゃ嬉しい。……だいすきって言っちゃだめ?」
 首を回し、彼の顔を見上げる。ラムズはそっと小さな笑みを落とし、私の頭を撫でた。
「いいよ。俺だけね」
 少し照れた素振りをしたあと、胸に顔を押し付ける。「へへ、ラムズのこと、だいすき」
 背中を何度か撫でたあと、呆れたような声で言う。
「お前ほんと、他のやつにはやんなよ」
「やってないってばぁ」
「本当かよ」
「また『下手くそ』とか言うわけ〜?」ぷうっと頬を膨らませて、彼のお腹の辺りをちょんちょんとつつく。
「今回は違う」
 ラムズは私の体を掴み、覆い被さるように首筋に口を当てた。ちゅう、と鋭い痛みが走る。一瞬頭がくらっときて、唇が当たったところがじんじんと疼く。
「キスマーク、付けたの?」
 彼は顔を上げた。「ああ」
 そっと横髪を払い、私の顔や体を流し目の青がゆっくり辿っていく。「俺のね」目を合わせて、「ん?」と微笑んだ。
 胸がどきどきする。顔が熱い。脈拍が喘ぐように高鳴っている。彼の綺麗な顔を見ていられなくなって、思わず目を伏せる。跡に手を伸ばしてゆるゆると摩ってみる。
「ずるいよぉ。遊女にそんなこと言わないで」
「たしかに」彼は喉の奥でくくと笑う。
「キスマークは付けても……」彼の服を掴み、ねだるように視線を送る。「今日も抱いてはくれないの?」
 ラムズは私の首筋に指先を落とした。胸の形をなぞるように下ろし、くびれを掴む。
「抱かないつもりだった」
「え? つもりだったって?」思わず瞳を輝かせる。
「お前、かわいいじゃん」頬に指先を這わせ、じっと顔を見つめられる。「でも約束は約束だから。いちばんになったらね」
「ちぇ〜」
 目を逸らしたものの、『かわいい』という一言が頭の中をぐるぐる回っていた。綺麗な子じゃなくて、かわいいって言ってくれた。綺麗はただの客観的な意見だ。でもかわいいは違う。愛らしいとか好印象とか……基本的にはそう思ったときに使う。
 だから……。ラムズなんてよっぽど『かわいい』なんて言わなそうな顔をしてるのに。
「なに」
 彼が言い、私の頬を抓る。顔を上げると、青い瞳と目が合った。
「『かわいい』って言ってくれたからぁ……」
「ああ、それ」くつくつと笑い、愉しそうに私の胸元の宝石を弄ぶ。「よかったね」