心臓を這い上がる吐息

「さっきの傷、治すよ」
「飲んだとこ?」
「ああ。手首のも、見えてるのが嫌なら治してやろうか?」
「え? 治せるの? でも普通のお医者さんには、多すぎて無理って言われたよ」
「魔法なら上手くいくんじゃねえかな」
「……でも、どうせまたやっちゃうもん」
 彼は頭をそっと撫で、ベッドから立ち上がった。「別にいいだろ。そしたらまた治してもらえば」
 ──またって、これからもずっとお店に来てくれるの。
 そう言おうとした声は喉の奥で潰れ、干からびて心の影に埋もれていった。
「【友よ、吾の風よ、具現せよ ── |Dryavent《ディヤヴェイト》 |Dimi《ディム》 |Expecamic《エクスパーミィ》】」
 ラムズは指に切り口を入れて血を流し、ふっと宙へ飛ばした。赤い雫が宙で浮く。二つ、四つ、八つと分裂していくと同時に辺りが巻き上がり、カーテンやベッドシーツがふわふわと舞った。紫の蝋燭が静かに瞬き、影が大きくなったり小さくなったりする。
「これなに? どうしたの?」
「エルフ呼んだ」
「そこまでしなくていいのに……。それにエルフ、なんて」
 見たことない。いるのは知っているけど、こういうお店にエルフが来ることはまずありえない。それにふつう、エルフに仕事を頼むにはかなりお金がかかる。エルフと魔印を交わしている人は少ないからだ。
 お金に関してはあんまり問題なかったけど、そもそも知り合いでエルフと繋がりがある方がいなかった。手首の傷をなんとなく摩る。……本当に、消えるのかな。
 小さな竜巻のようなそれから徐々に光が集まり、形を作っていく。私は固唾を飲んで見守った。
 ショートヘアの女の子だった。もちろん金髪金瞳で、耳はぴんと尖っている。落ち着いた目付きに、色の薄い唇。幼い見た目でも、他のエルフと同じようにどこか儚い雰囲気を醸している。
「久しぶり、ラムズだ」
「うん、久しぶり」彼女は朗らかに笑う。そのあと私に目を移した。「どうしたの?」
「あの子の手首、怪我してるから。治してやって。あと首も」
「はは、いいよ〜」
 彼女は軽く笑うと、一歩ずつ進んでくる。私と同じ裸足の足で、簡素な麻の服を付けている。普通の人間が付けていたらボロい布にしか見えなそうなそれも、彼女が着ていればどこか森の精霊のように見えた。青い石のついたネックレスを下げている。
「私、その。エルフとお話するの初めてで。腕は、これで……」
 彼女は目を細めた。「大分古い傷もあるんだね。すぐ治るよ、安心してね」
「うん」
 エルフって思ってたより普通なんだ。ほっと安堵の息を漏らし、彼女の手先を眺めることにする。
 エルフは「はい」と「いいえ」の答えが出せない。いつも真ん中を取ってしまうから、何か言うとしたら命令しなくちゃいけない。
 どうしたいか、どうするべきなのか、どんなことが好きで何が嫌いか。自分の意志がまったくないらしい。だからもっと……冷たくて無機質なイメージだった。でも彼女はいくら儚い金髪を纏っていても普通に生きているように見えて、こうしてそばにいて、耳以外に人間と違うところがあるとは思えなかった。
「はーい、治った」
 彼女が私の腕から手を離す。私は光に透かすように腕をくるくると回した。きれいさっぱり傷が消えている。
「すごい! わぁ、ありがとう!」
「いいえ〜」
 そのあと、ちょんと首筋の傷に指を当てた。仄かに光が瞬き、白と混ざって消えていく。
「こっちも終わり」
「お金は?」
「金はいらない」
 エルフの子が答える前にラムズが言った。まずい、『半分くれ』って言われるところだった。全財産の半分だったらかなりまずい。
 彼女はにこりと微笑み、すたすたとラムズの前に戻っていく。
「まだある?」
「もういいよ、ありがとう。またな」
「またね、ラムズ」
 彼女は手を振った。来たときと同じように風が揺らぎ、彼女の影は空気に溶けだすように歪み、ブレて、ついに風になって消えてしまった。

 エルフがいなくなって、綺麗になった手首をさすった。
「ラムズ、ありがとう……」
「いいえ」
 ぽつぽつと言葉を落とした。「でもまたやっちゃうよ? いいのかなぁ。せっかく綺麗にしてもらったのに」
「いいって言ったじゃん」
「見た目、悪いかなぁ……」
 彼はくすりと笑う。「他がいいから、いいよ」
「褒めてくれるのぉ?」上目遣いで彼を見、胸元にすがりついた。
「ずっとそう思ってたよ」
「ふぅん」横の髪をくるくると回し、また手首を摩った。「どうしていいって言うの? みんなダメって言うのに」
「だめって言ってほしかった?」
「そんなことないよ? ん〜、わかんない」
 彼は足を組んで、静かに声を落とした。「まあ、あまり何かに対してダメって思うことがねえからかな」
「何かに? つまりどんなことでも悪いと思わないの?」
「そうだな。そいつが好きでやってることなら、別にやればいいと思う」
「それで身を滅ぼすことになっても?」
 おかしそうに笑みを零す。「手首切ったくらいで身を滅ぼすかよ」
「たしかにぃ。客に『切るな』って言われると、あんたのせいで切ってんだよ、って言い返したくなっちゃう」
 ラムズはくくと笑った。「気持ちいから一緒に切る?って聞いてみたら?」
「そんなこと言ったらおかしいと思われるよぉ」彼の膝を揺すった。
「俺もそうだが、客はパメラのこと、何も知らねえだろ。だからお前が受け取りたいと思った言葉はもらって、それ以外は捨てときゃいい」
「もらって、捨てる」心に刻むように言葉を繰り返す。「だけどほらぁ、娼婦って価値観バグってるってよく言われるしさぁ?」
 彼は自分のネックレスをそっと撫でた。「俺からしたら、お前らの価値観も、客の価値観も変わらねえよ。いいも悪いもない」
「俺からしたらって、ラムズはなに? ヴァンパイアとしてってこと?」
「まあ、そう。人間以外の使族から見てってこと」
「ふぅん。じゃあ、別にこのままでいいんだ」
「そのままでいいよ」
 彼は立ち上がった。椅子に掛けていた墨色のジャケットを手に取る。しゃら、と装飾品の擦れる音が立つ。
「……次はいつ来てくれる?」
「いちばんになったら」
 ベッドから出した足をぶらぶらと揺する。「あと半年くらいかかるかも、だよ」
「じゃあ半年後で」
 俯き、たどたどしく言葉を紡ぐ。「お金そんなに使わなくていいからぁ、来月とかに……来てよ」
 ジャケットに袖を通し、服についた宝石を確認している。「行かねえ」
「どうして? 寂しいよ」
「じゃあもっと頑張れ」
「えぇ〜。十分頑張ってるでしょう? しんどいときもたくさんあるんだよ」
 声が震える。
 ラムズが帰っちゃったら、もうずっとずっと会えない。半年も。こんなに今日が幸せだったのに、明日からどんなふうに仕事をすればいいのかわからない。他のお客様に耐えられる気がしない。
「いっぱいかわいがってやっただろ」
「ん〜。でも別に。血吸われたしぃ」私はあくまで、間延びした声で軽く言った。
「あ、そ」
 彼はワゴンのボトルやワイングラスを整えた。本当に帰っちゃう。立ち上がって指を絡めた。
「いやだぁ、お仕事できない」
「なんで」
 さっきより高いところから降りる視線は、目の色と同じく青い感じがした。
「寂しいよ、元気でない」
「媚びてんの?」
「違う〜。本当だもん」
 彼は頭をとんと叩いた。「次来るときは好きなことしてやるから」
 そのまま手を離されそうになって、きゅっと掴んだ。「ほんとぉ? 絶対だよ?」
「ああ」
「ラムズがこないあいだに、辛くて死んじゃうかもよ?」
「ん〜。それはもったいねえな」彼は腰を曲げ、頬にちう、とキスをした。「死にたくなったら俺を探して」
「……どうして?」
「俺が終わりにしてあげるから」
「私を?」
 彼はそっと手を離した。冷たい指だったはずなのに、ぽっかりとした喪失感が襲う。「なんでも」
 コツ、コツ、と床をヒールが叩く音が聞こえる。首筋や口に残った甘い感触と、手から離れた冷たい安堵がもう既に恋しくて、わっと顔を覆った。