てんてこ舞いの踊り狂い

 彼に会ってから一ヶ月、毎日が地獄だった。誰と話しても心は冷えきっていて、行為中は激しい厭わしさがとぐろを巻く。貼り付けた歪な笑顔が外れなくて、鏡を割ってしまうこともあった。
 最初は治してくれたんだからやめようって思ってたのに、気づけばナイフを取って手首に当てていた。血管を潰すように刃を押し当て、ほんの少し力を抜きすうっと横に低く。血の赤い糸ができたと思うと、じんわりとぼやけ柘榴の粒がぷつぷつと生まれはじめる。恍惚感にも似た疼痛は、あのとき首筋を噛まれた感触と似ている気がしたし、鮮やかな深紅はラムズの口の中を思い出した。より彼が恋しくなって、おかしくなりそうだった。
 でも手首を切ると彼に近づいた心地に包まれる。前より切る回数は増えていった。
「その傷、治ったのにまたすごいことになってんじゃん」
 ライネルは胡乱な目で私の腕を見下ろした。
「あはは〜。止まんなくて。客がうざいんだもん」
「もうやめときなよ」
「ん〜」
 ライネルに咎められても、やめるつもりはなかった。だってラムズはいいって言ったもん。これが落ちつく方法ならやめる理由はないし、悪いとも思わないって。そもそも悪いことじゃないって言ってた。
「最近のあんた、ちょっとやばいよ。ヤクでも始めそう」
「えぇ〜? そうかな?」
 ヤクをやったらラムズもさすがに止めるだろうか。でも、彼のことだからそれだって「好きならいいんじゃない」って言いそうだ。
 ……だけど、仕事ができなくなっていちばんになれないのは困る。
 私をかろうじて支えているのはただそれだけで、半年後までに絶対にいちばんになるって、そのためだけに生きた。

 
「パメラちゃん、最近元気ないね。大丈夫?」
 飛ばしたばかりのオジサンが心配そうにこちらを見つめた。このお客さんはいい人だ。いい人だけど……。
「え〜。ほんとぉ? 忙しすぎるのかも」
「ほとんど毎日いるんだって? 少しは体を労らないと」
 彼は私の肩を摩った。
 気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
 こんなやつに触られたくない。粘ついた視線も、皺が多く汗の滲む生暖かい掌も、全身の警鐘を鳴らした。
 それでも私は優しく微笑み、彼の手を取って包んだ。
「優しい〜! えへへ、ありがとぉ」
「かわいいなぁ、パメラちゃん。また来るね」
「うん! 嬉しい!」
 彼に抱きついた。酸っぱい垢のむれた臭いが鼻をつく。ラムズはいい匂いがしたのに。甘い香水の匂いだったのに。

 いいところの若い貴族や騎士、清潔感のある商人。お喋りはそこそこ興味深いこともある。容姿のいい男だっている。でも彼らはやっぱりお客様なのだ。私に癒しを求めてやってくる。それが仕事だから仕方ないんだけど──、どうしてもラムズと比べてしまっていた。ラムズに比べれば退屈で、誰も彼もねっとりとした快楽に顔をだらしなく伸ばす。結局はみんな快楽の虜なんだと思うと鬱屈した蟠りで心腹が苦しくなった。そういう私もたまに気持ちいいと思うことはあって、そんなときは自己嫌悪に手首を切った。
 酷い客はその倍以上だ。激しいプレイを求めたり、顔をべろべろ舐めたり、SMの真似事をさせられたり。お酒を注ぐほうの仕事も限界だった。毎日毎日会って話した内容を記憶して、どんな方なのか何が好きなのか、たった一回遊んだだけの客の情報もすべて覚えた。
 それでもいちばんには届かない。二・三ヶ月のあいだ二番や三番をうろうろし続けた。売上が伝えられるたびに唇を強く噛む。
 あー。苛々する。まだ足りないんだ。何が足りないんだろう、どうしたらいちばんになれるんだろう。これ以上なにをすればいいんだろう。

 二ヶ月を過ぎたころは、家に帰り寝る前に決まって手首を切るようになっていた。ラムズを思い出して、あの日どんな声をかけてくれたのか、次に会ったときにどんなふうに抱いてくれるのかを考えて自分を慰める。全然、気持ちよくなかった。
 親はわたしが高級娼婦になったことに喜んでいるみたいだった。たしかに家に入れるお金が増えたからね。娼館で寝泊まりする子が多いけど、私は実家から通っていた。少しの時間でも夜の仕事から離れたかったから。
 仕事がない日は泥のように眠り続け、せっかく貯まったお金を使う場所も時間もなかった。でも、別にいい。お金が稼ぎたいわけじゃないから。彼に会いたいだけだから。

 三ヶ月を過ぎて、ようやく二番手が安定してきた。でもそのせいで、同じ店で働く子たちからやっかみを受けはじめる。前から酷かったけど、本当にいちばんになりそうだと近い順位の子が毎日のようにいちゃもんを付けにきた。
「パメラさぁ。ラムズ・シャークだっけ。来るって言ってたけど来ないじゃん。金使ったのいつ? 三ヶ月も前だよ?」
「いいの」
「そんなに必死になって見苦しいよ。今日何人の咥えたの?」
 彼女はけらけらと嘲笑い、近くのバケツを蹴った。
「さぁ、忘れた。五人くらい」
「きたな」吐き捨てるように言う。「あんなイケメンがあんたのこと相手にするわけないじゃん。遊ばれてるだけだよ、男娼だったんでしょ」
「関係ないじゃん」
「あんたのためを思って言ってんの」
「じゃあ黙ってて」
 私は彼女を置いて控え室を出た。
 どうでもよかった。彼女は咥えるどころじゃなく、何人にも入れられてる。そうしないと客がつかないから。負け犬。汚いのは向こうだ。
 それにラムズはそんなこと気にしない。綺麗だって言ってくれたこともあったし……かわいいって言ってくれたもん。両目が溶けるように熱くなり、そっと涙を拭う。
 頬に無理やり笑窪を作って、お客様のあいだに腰を降ろした。


「パメラさぁ。入れ込むのはやめなって」
 ライネルはしつこく私に付きまとった。仕事の終わった私は髪を下ろし、フードのついた服を着る。
 容姿か店の人気が理由か、たまに道端で声をかけられるのだ。それが客だったときは恐ろしくて仕方ない。家まで知られていたらたまったもんじゃない。最近は誰かにストーカーされているような気もして、必ず変装して街を歩くことにしていた。
「入れ込んでないもん」
「でもあの人のためなんでしょ?」
「違うもん、自分のためだし。私が頑張っても彼は得しないじゃん」
「そーだけど。そのうち金寄越せって言ってきたらどうするの?」
 ぴた、と足を止める。
 どうするんだろう。
 同じ遊女の何人かは、男娼に惚れこみ金を貢いでいる。結局私たちは同じ世界でしか関係を作れなくて、狭いコミュニティの中でヤッたりヤられたり、貢いだり貢がれたりを繰り返している。
 でもラムズはここの人じゃない。貴族だ。私は彼女たちとは違うし、ラムズだってそのへんの薄汚い男娼とは違う。
「いいよ別に。ラムズになら」
「……ちょっと」ライネルは私の腕を掴んだ。「目的と手段が入れ替わってない?」
「ライネルにはわかんないよ。本当に幸せだったの」
「それはわかるよ。そりゃ私だってパメラの立場だったら、きっと同じこと、してると思う……」言葉尻がみるみる消えていく。
「じゃあもう放っておいてよ」
「でもあんた体壊しそうじゃん。その手首の傷だって……治ってないまま切ってるでしょ」
「痛いの好きなの」
「ったく……。飲み、行かない?」
「うーん……」
 視線を揺らす。帰って寝たかった。今日新しく仕入れた情報も整理したい。護衛を頼んだ傭兵も外で待っている。
 でも──、たまになら羽目を外すのはありなのかもしれない。
「わかった、行こ」
 私はライネルの腕に自分のそれを絡める。142センチルしかない私は彼女よりもずっと低く、こうして並ぶと姉妹みたいだとよく言われた。
 彼女は優しく微笑む。二人で夜の街に繰りだした。


 ライネルの馴染みの酒屋で一時を回るまで飲んだくれていた。もともと酒に強い私たちはそれほど酔うことはないんだけど、あんまり引っ掛けたせいでさすがに足元が覚束なくなった。
「ほんっっっとに、かっこいいんだからね」
「わかったってば。それは私も思ってるよ。でもどうするの? 人間じゃないんでしょ? ちょっと怖いよ」
「ん〜」私はぐいと首を傾ける。「でもぉ、怖いのはもともとだったし。それも魅力じゃん?」
「馬鹿なの、あんた」
「馬鹿でぇす!」
 大きな声で手を挙げたせいで、道行く人に見られる。二人でくすくす笑ってフードを被り直した。
「まぁ、久しぶりに元気なあんたを見れてよかったよ」
「私はいつも元気だしぃ」
「まぁラムズ・シャークもいいけど、他のお客様も大切にね」
 私はぐっと腕を前に突き出す。「もちろん! してる! 大事なお客様!」
「いぇーい」
 二人で肩を組み、十字路まで歩いていく。ここでライネルとはお別れだ。街灯の間隔が広がりはじめ、辺りを呑み込むような闇が前に続いている。
「じゃあね」
「明日休みっしょ。よく休んで」
「はぁい」
 ひらひらと手を振って彼女と別れる。あと15分もすれば家に着く。鼻歌を歌いながら歩を進めた。
 

 ──尾けられてる。
 ひとりになって五分くらい歩いたころだろうか。ずっと後ろを誰かが尾行していた。家の影や街灯の暗がりに隠れてはいるけど、気配でわかる。たたっと駆けてどこかに隠れるその音に気味が悪くなる。
 どうしよう。あと少しで家に着くのに。
 私はカバンを持って走りはじめた。相手が男だったら、もし何かを企んでいるとしたら。
 荒い息を堪えながら走りつづける。二度目の街灯を過ぎたころ腕を取られた。
「ッ?! やッ!」
 後ろばっかり気にして走っていたせいで、前の路地から現れた男に気づかなかった。彼は口を塞ぎ、腕を掴んで路地の中へ引きずり込む。
 口を覆っていた指に思い切り噛み付く。
「離して! 嫌だ! 助けて! 嫌だ!」
「っるせえ黙れッ!」
 息が臭い。私は体をねじって逃れようとする。後ろから腕ごと抱きすくめられた。
「やだ! いやだぁぁぁぁあぁぁ──ぁっ、ぉ、あっ……」
 前の男に腹を勢いよく殴られる。酒がみるみるせり上がり、地面に吐いてしまう。口内に酸っぱい匂いが残り、喉をいがいがとさせる。ふ、二人いるんだ。どうしよう、どうしたらいいの。
 前の男が嗤った。
「娼婦だろ、知ってんだよッ。犯されんのがお仕事だろーが」
「ん、んんんん! んん!」
 口をごわごわした布で巻かれ、声が出せなくなる。荒い生地で唇が切れた。それでも暴れようと体を動かすと、再び前の男が鳩尾に重い殴打を打ちこまれる。
「っん! ん……んん……」
 あまりの痛みに涙が滲み、顔がぐしゃりと歪んだ。
 馬鹿だ、帰ってればよかった。少なくとも傭兵を残しておくべきだった。ライネルと別れたらすぐ家に着くからって、大丈夫だと思った。馬鹿だ、馬鹿だ……。
 男は地面に体を投げ落とした。両腕を縄で縛られ、ズボンを切って剥ぎ取られる。足で蹴ろうとすると、男はナイフで太腿を突き刺した。
「んんんんんんんんんんんん!」
 激痛が全身を駆け巡る。血がどくどくと流れ、火を吹いたように傷口が疼く。痛みが脳天を貫き、がんがんと体を響かせる。目を白黒させて体をくねらせた。
「もう一本刺されてぇかよッ?!」
 私は涙目で首を振った。男は突き刺さった太腿を掴んで大きく股を開いた。ショーツを破られる。
「まぁ中古もんだが、かわいいかんな。とっととやっちまおうぜ」
「そう、ずッと話したいと思ってたンだ。き、キミの店、高くて。僕たちなンかが行けないからさ。いやぁ、うずうずしてきた」
 二人は股の近くで手を揉みにやにやと近づいてくる。自分のズボンに手をかけ、十分にそそりだったそれを見せつける。
 いやだ、いやだ、死にたい。死にたい死にたい死にたい死にたい。こんな目に遭うくらいなら死んだほうがマシだ。どうして? ただ頑張ってただけなのに。なんでこんな酷いことをされないといけないの。
 いくら心が悲鳴をあげても、もう体を動かす気力はなかった。太ももの傷は動くたびに激痛が走るし、腕は縄で縛られて動けない。悲鳴を上げたくても、もうこんな時間だ……しかも小さな路地で助けなんてくるはずない。
 大丈夫、大丈夫。いつもと同じ。ただのプレイだと思えばいい。そういうプレイ。やってきたじゃん。大丈夫。大丈夫。
 男は足に手をかけた。
「んん、んんんんっ!」
 まだ濡れてない! 入れたら痛い!
 そう目で訴えかけるも、男はにやにや笑ったまま膣口にソレを突き立てた。ぐりくりと押され、無理やり中に差し込んでくる。
「んん! んんっ、んーー!」
 まだ半分も埋まっていない。どうにかしようと思ったのか、布を剥ぎ取ると無理やり唇を押し付けた。
「ッ! んぁ! んっ!」
 ザラザラした唇と、粘っこい舌が口内を蹂躙する。気持ち悪い、臭い、汚らしい。いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 痛みを堪え、思い切り男の腹を蹴った。
「っは、はぁ。ハァ。た、助けて! 助けてぇ! 助けて!」
 あらん限りの声で叫ぶ。この夜の街だ、そう簡単に人がくるとは思えなかった。運が悪ければ男が増えるだけで、さらに酷い目に合うかもしれない。でも、黙っているなんてできなかった。
 涙と男の唾液でぐちゃぐちゃになった顔で彼らを睨みつける。入れようとした男がまた腹を蹴りあげた。
「っう、ぉっあ!」
 重々しい振動が腹を割る。たい……、いたい。痛いよ……。助けて、誰か。ねえ。腹が苦しくて声が出ない。呼吸ができない。ぼろぼろと涙を流し頭を下ろした私を見て、二人はまたげらげらと笑い声を上げた。再び近づいてくる。
 入れようとした男は屈み、私の陰部に舌を当てた。股を裂くように大きく開かれ、くちゃくちゃと汚らしい音を立てる。不快感が脳を真っ黒に染める。全然気持ちよくない。胃がムカムカする、また吐きそうだ。それでも普段からどんな男とでも寝てきた私の体は、彼らに順応するようにじわじわと口を開いた。
「へっへ、感じてんじゃねぇか!」
 感じてない、気持ちよくない。気持ちいいわけがない。
 男は再び穴に肉杭をぐりぐりと押し当てた。ナカを掻き分け入ってくる感覚が嫌でも心を犯す。悪夢だ、現実じゃない。夢だ、こんなの夢だ。
 私は目を瞑った。足がずきずきする。お腹が苦しい。喉がひりひりする。口の中がじゃりじゃりする。アソコが痛い。汚い。嫌だ、嫌だ。
 腰を掴んでいた手が外れる。肉杭が抜け、瓦礫が崩れる音と男の呻き声が聞こえた。
 何かに腕を掴まれた。「やめ、やめてッ!」
 目を開くと誰かがこちらを向いてしゃがんでいて、その後ろで二人の男が泡を吹いて死んでいるのが見えた。
「だ、だれ。やだ、やだ!」
 私は体をよじり腕から逃れようとした。暗くて顔が見えない。
「俺だよ。もう大丈夫」
「やだ! やだぁ!」
「ラムズ。聞こえる?」
 わたしはぴたと動きを止めた。「……は、え?」声に聞き覚えがある。でも、そんなわけない。こんなところにラムズがいるわけない。
 彼は腕を縛っていた縄をほどき、足に向かって魔法をかけた。急にすべての痛みが消える。剣を抜き、まだ滾滾と血の溢れているそこへ強く布を巻き付けた。
 体を抱き上げる。
「だ、え? ら、ラムズなの」
 街灯の下まで連れて歩く。顔が見えるところにきて、ようやくこちらを向いた。「ああ。ラムズだろ」
「……な、なんで?」
「あとでな。早く治療しねえと。今は痛みを麻痺させる魔法をかけただけだから」
 彼は私を横抱きにして、足早に闇の落ちた道を歩いていく。しばらく行って細い路地を曲がり、フェンスを魔法で壊してその奥へ進んだ。寂れたところにぽつんと宿屋がある。
『異端の会』
 彼は視線を合わせた。「俺の家に行きたいが、|魔法円《ペンタクル》使わねえといけないんだ。よく使ってる店だから安心して」
「ん、うん。うん……」
 涙が止まらない。出しっぱなしの水道みたいにはらはらと両目から流れ、頬や胸元を濡らした。

 ラムズは宿屋に入ると、私を布団に寝かせた。
「【浄化せよ ──】」
 体を水泡が包む。一瞬で消えると、唇周りについた吐瀉物の汚れや涙の跡が消える。服や髪についた泥も消えている。
 部屋の扉が開き、前に見たエルフの女の子が顔を出した。
「うわぁ、痛そう。でもこれくらいならすぐ治るよ」
「頼んだ」
 彼女はとんとんと床を進み、足元に手を置いた。優しく淡い光が腿を包む。じんわりと温かい気持ちになって、目がゆっくりと落ちはじめた。