バレンタイン

「えっと、このチョコ、もらってください!」
 パブのカウンターで肘をつき、体をもたれて立っていたラムズに、ひとりの少女がそう声をかけた。商人の娘だろうか、洒落た音楽の鳴るこのパブに似合う簡素なドレスを着ており、髪を美しく整え、アクセサリーや化粧で装っている。
 ラムズは少女へ体を向けると、前に突きだされていたチョコレートを受け取った。
「あ、えっと……」
 淡いピンクの紙で包装し、シルクのリボンまでかけて綺麗にラッピングしてある。無機質な青眼がそれを一瞥したあと、くるりと手を翻して箱を床に落とした。
「いらねえ」
「……え?」
 ラムズは一歩彼女へ近づいた。くしゃ、と何かを潰す音がする。ラムズのブーツヒールの踵は箱を貫通し、中のチョコまで砕いた。
 酷い。じんわりと目頭が熱くなる。無意識にその場を立ち去ろうとしていた少女の腕に、冷ややかな温度が巡った。
「それより」
 心音ごと体が凍ってしまったみたいだ。怖い、動けない。彼が少女の頬に細い指爪を差しあてると、ぞっとするような寒気が走った。ラムズは眼をすがめ、痛ましそうに目尻を拭う。
「たとえばこの眼をスプーンで掬うとか」
 凍みた指先とともに、蒼い眼差しがすうと頬を這いすべり、首筋を柔らかになぞった。
「たとえばこの血をグラスに注ぐとか」
 尖った爪が鎖骨近くの皮膚に食いこんだ。鋭い疼痛のあと、傷口がじんじんと熱を持ちはじめる。
 ラムズはわずかに首を傾けると、瞳に銀を冠せて微笑んだ。
「そのほうがそそるな」
 彼の手が離れる。心に滲むような低音は、気味悪さと恐怖で肌の裏側を撫でるように鳥肌を立てた。
 せっかくのバレンタインに、好きな人にチョコレートを渡してむざむざと断られるなんて。いや、断られるどころか――。数名の客から見られていることも、息苦しさに拍車をかける。悲痛と羞恥に鼻の奥まで痺れ、とうとう彼女はラムズに背を向けた。服の袖で涙を払いながら、小走りでパブを抜けていく。

 少女がいなくなってしばらく、パブはいつもの落ち着きを取り戻していた。子気味良いジャズ風のミュージックが、甘い酒気の匂いを彩っていく。
 ラムズのカウンターには、小ぶりのイヤリングが二つ並んでいる。ダイヤモンドのネックレスを手にかけて、ゆっくりと傾ける。
「まあ、バレンタインも悪くねえかな」
 あれだけ怯えていたのだ。アクセサリーがなくなったことなどしばらくは気づかないだろう。仮に気づいても、ここに戻るときにはもう――――。



 ◇



「えっと、あの……。チョコ作ったんで、よかったら」
 少女はカウンターに座る銀髪の青年へ声をかけた。彼は振り返り、柔らかく眼を細めて笑う。
「ありがとう」
 ぽっと心に花が咲くように優しい笑顔だった。少女は頬を赤らめる。だがそこで、酒場にいた周りの客がにやにやとこちらを見ていることに気づいた。スワンラの翼を持つ者や、ワイバーンの|獣人《ジューマ》らしき女、シープルやポイズスネクの|獣人《ジューマ》など、外で歩けば目立つような異形ばかりだ。|囃《はや》し立てようとしているのか、からかおうとしているのか、だがそれよりももう少し邪悪なような――奇妙な視線が背筋を舐める。
 もともと入口から不穏な空気が漂っていた。ある意味、美しく宝石で着飾ったラムズはこの酒場にいるのが異質なくらいだ。用事は済んだのだから帰ってしまおうと、別れの言葉を言いかけた。
「一緒に食う?」
 甘い声色が耳をくすぐる。願ってもないことだ。自分のチョコレートが食べたかったわけではないが、一緒に時間を過ごせるのは嬉しい。
 少女はこくりと頷くと、ラムズに促され隣の丸椅子に腰掛けた。
 ラムズの細い指先が丁寧にラッピングを開く。「かわいいね」と零して、箱を開けた。
「お前が作ったの?」
「うん!」
 ひとつ摘んで、彼は口に含んだ。赤い舌をのぞかせる。
「美味しいよ、ありがとう」
「よかった……」
 少女はほっと胸を撫で下ろし、もうひとつ食べるのを眺めた。ラムズは目線に気づいて、おもむろに頭を傾げる。銀の前髪が簾のように流れた。
「お前も食べる?」
「全部ラムズに作ったから、食べていいよ」
「そう? でもせっかくだから――口開けて」
 わかった、と声を出す前に開いていた。綺麗な青眼がこちらを見下ろす。口の中で甘く蕩けていくチョコレートと、唇に触れた冷たい温度と、緊張で手が汗ばみ心臓が早鐘を打った。
「美味いよな」
「そりゃ、作ったんだからわかるよ」
 言葉尻がぎこちなく揺れる。自然に笑えているだろうか。彼の前にいるといつも自分でいられなくなる。チョコの甘さは感じられても、ろくに味わえた気がしない。
 ラムズまたひとつ自分の口に放ったあと、彼女にも新しいものを入れた。
「自分で食べれるのに」
 彼は喉の奥でくくと笑うと、「たしかに。でもお礼だから」とまた食べさせる。それを数回繰り返して、半分くらいチョコレートがなくなったころだった。
「残り、もう食べてくれる?」伺うように視線を落とし、そっと尋ねた。
「たくさん作りすぎちゃったね」
「いや、俺あまりこういうの得意じゃねえから」
「えっ、そうだったんだ……。ごめんね」
「こちらこそ、悪い」
 箱ごと戻されるのかと思ったが、ラムズはまた自分に食べさせようとしているみたいだった。今日ですべてを食べるのは大変なんだけどな。心の中でそっと笑い、変なラムズ、と呟いてみる。
 彼女が口を開くと、ラムズは顎の下に手を当て、親指で下唇をなぞった。
「小さい口」
 指の冷たさのせいか、|艶《あで》やかに溶けていく眼差しのせいか、|焦《じ》らすような|疼《うず》きで脳が痺れた。ラムズだって十分小さいよ、と思いながら、舌の上で溶けていくチョコレートを味わう。噛んで飲み込もうと、口を閉じようとしたときだった。
「ひゃやあい」
 閉まらない。
 服の裾を掴んでいた手を離し、顎を閉じようと無理やり押した。だが動かない。
「なにしてんの?」
 少女は自分の口を指さし、回らない舌で「閉まらない」と伝えようとする。
 ラムズは心底不思議そうに首を傾げたあと、また新しいチョコレートを摘んだ。
「全部食べてくれるんだろ? 今入れるから」
「え?」
 まだ溶け切っていないチョコレートの上に、また新しいものを入れられた。何かがおかしい。少女は立ち上がろうとカウンターに手をかけたが、見知らぬ客が彼女の肩を抑えた。
「まあ、待てって。ラムズさんがチョコ食べさせてくれるって言ってんだから」
「い、いあう。あらあ」
 ラムズは面倒になったのか、残ったチョコレートを手に取ると、そのまま口へ放った。異常な速さでチョコレートが溶けていく。彼女はどろどろに溶けたそれをなんとか飲み込もうと喉を鳴らすが、奥に流れたのは少しだけだ。
「うい、ああ。うあいい」
「なんて言ってるかわかんねえ」
 カウンターに肘をついて、ラムズが意地悪く笑う。いつのまに変わったんだろう。さっきまであんなに優しかった表情が、声色が――青い視線も唇に貼り付いた笑みも、冷然として凍えそうだ。
 彼女はラムズの膝を掴んだ。
「え、ええ! おえあい! あうう、あうええ」
 息ができない。苦しい。喉にチョコレートが詰まって奥に流せない。助けて。
 少女は吐き出すために首を曲げようとしたが、後ろにいた客が無理やり首を押さえつけた。
「ええ、あうう……」
 心臓や脈の音で脳がうるさい。がんがんする。顔全体が冷えてきて、首から上の感覚がない。手足が痺れ、体の力が抜けていく。
「あういえ」
 どうして。
 ラムズは嗤って答えた。
「退屈してたから」
 そこで意識が途絶えた。視界が真っ白に染まり、椅子から体が転がり落ちる。口から零れたチョコレートが床を塗り、甘い香りが流れた。







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