シュガレットとアヴィル
ここは見知った居酒屋──ベルンにある『有か無か』(*1)だ。ちょうどカウンターの奥、客に見えない位置にいる。
自分だけ塔の外に出るのは少し|狡《こす》いかもしれない、メアリに外の空気を吸わせた方がいいのか、などの懸念が脳裏によぎったが、すぐにかき消した。甘いことは言ってられない。
|転移《テレポート》魔法で現れたアヴィルを見て、女がにこりと微笑みかける。
「いらっしゃい」
「毎回わりーな、シュガレット」
「いいんでしゅよ。今日もまた居酒屋めぐり?」
カクテルを作りながら、シュガレットはそっと問いかける。『す』だけを必ず噛んでしまうのは、彼女の癖だった。相変わらずまだ治っていない。
シュガレットはヴァンピールという|使族《しぞく》で、この店『有か無か』の店主だった。
『有か無か』はヴァンピールのための居酒屋で、眷属やヴァンピール、彼らをよく思う者たちがやってくる。各都市に同じ名前の居酒屋があり、ヴァンピールのあいだではかなり有名な店だ。
シュガレットはヴァンピール特有の赤い瞳を|忙《せわ》しなく動かして、額に滴る汗を拭った。白い手袋が汗で滲んでいく。
冷たいカクテルを作っているはずなのに、店の陽気のせいかどこか暑苦しい。
邪魔にならない位置に移動すると、アヴィルは壁にもたれながら答えた。
「今日は宿屋の方に行こうと思って。昨日、大きな商隊がもうすぐ街に来るっつー聞いたからさ」
アヴィルは壁から離れると、慣れた手つきで彼女に氷やリキュールを渡す。ここに来る時はいつもしていることだ。
シュガレットの黄金からオレンジに変わる長髪は、接客や料理の際に邪魔なのか、太い三つ編みに結われている。前髪もきちんと両側で止め、額や頬──今も残る左頬の傷も含めて、|顕《あらわ》になっている。
「明日も頼むと思うけど……なんつーか、忙しくねーか?」
「お母さんのときからの付き合いでしょ。今更そんなこと気にしないでよ」
「まーな。つーか、娘とかは手伝ってくんねーのかよ」
シュガレットはヴァンピールで、まだ56歳だ。人間にすれば30歳ほどの見た目である。
アヴィルが幼い頃世話になったのはシュガレットの母だが、彼女はもうヴァンピールの中ではいい歳だ。昨日は店にいたが、今日は裏にいるのだろう。
「あらぁ、もうあたしが死んじゃうことを心配してくれてるの?」
冗談めかしにくすくす笑うと、アヴィルに「それ取って」とマドラーを指さす。
「さすがにそうじゃねーけどさ、お前は俺の娘みたいなもんだから」
彼女はおっとりとした垂れ目を静かに瞬かせて、アヴィルの胸元に顔を寄せた。恥じらいと妖艶さを混ぜたような目付きで、からかうように言った。
「……じゃあミティは孫? お母さんはいいのに、あたしやミティとは遊んでくれないの?」
「はいはい、また今度な」
これもいつものやり取りだった。頭をとんと叩くつもりだったが、ふと思いとどまってアヴィルはその手を宙で浮かせた。
「俺、彼女できたからしばらくはそーいうことすんなよ」
「『そういうことしゅるな』なんて、格好付けちゃって」
シュガレットは怒ったフリでわざと頬を膨らませると、出来上がったカクテルを持ってアヴィルから離れた。長い三つ編みが左右に揺れる。
それをなんとはなしに目で追いながら、彼女の後ろ姿に声をかけた。
「また明日も頼むぜー」
「意地悪しゅる人には、|転移《テレポート》魔法なんて使ってあげないんだからねー」
シュガレットもその母も、信用できる者のうち一人だ。だからこそ魔印を交わしてあるし、こうして|転移《テレポート》魔法で転移先に指定することができる。
どうせこれは冗談であると思いながら、もし彼女たちがいなくなったら色々と不便──そして、悲しいだろうな、と思った。
ある意味、アヴィルは彼らを愛することがなくてよかったとさえ思う。恋愛という意味で愛してしまったら、ラミアの|運命《さだめ》の通り束縛し、嫉妬し、そして塔に閉じ込めなければいけない。
彼らがいなくなることを“悲しい”という感情だけでは片付けきれなくなるだろう。
まるで自分が人間であるかように彼らと接することができるのは、彼らを“愛”してはいないからだ。ただ、大事には思っている。もしかすると、これが家族というものなのかもしれない。
これくらいの距離でメアリとも仲良くできたら──と、アヴィルは意味のない“もし”を考えて苦笑した。
「悲しいこと、言うなよな?」
笑いながらひらひら手を振って、居酒屋『有か無か』をあとにした。