頸木

 すうっと唇に空気が触れた。
「悪りい、無理だった」
「……っねぇ〜!」
 私が腕を引っ張っても、悪びれなく笑っているままだ。でも、少なくともラムズとは普通にキスできた。
「大丈夫かな、私。もう、いろいろ……お休みしたいな」
「そうだな」
 彼はそれきり、何も言わなかった。「無理して仕事しなくていいよ」とか「休みだけでもしばらくもらったら」とか、……「娼婦やめて俺んとこにくれば」、とか。期待してる私が馬鹿なのかもしれない。
 でも、ラムズは最初からこういう人だったかもしれない。彼が言わない限り、私は頑張らないといけないような気がした。それとも残り一ヶ月以内に頑張れなかったとしても、また会いに来てくれるんだろうか。
「仕事さ……休んじゃ、ダメかなあ」
 私はずるい。でもどうしても言ってほしかった。だって、もう限界だから。
「休みたいなら休んだら」
 返ってきた言葉はなんの色も温度もなくて、彼は私よりもずっとずるかった。
「私が、決めるの?」
 彼は少し眉を上げ、青い横目で見る。「お前のことだろ」
「でも、さ。そしたら約束してた期間に間に合わないじゃん」
「そうだね」
 またそこで台詞が止まった。
 手を握る。かけてほしい言葉は言ってくれない。間に合わなくてもいいよ、今抱いてあげようか。絶対、わかってるはずなのに。
「……間に合わなかったらどうなるの?」
 私は諦めなかった。
 彼は私の背中を撫でたまま、興味なさそうに視線を逸らす。「さあ?」
「さあって?」
「考えてなかった」
「今考えてよ」
 ひとつひとつ言葉を重ねるたびに自分の首が絞まっていくような気がした。彼に煩わしいと思われ、捨てられる未来に足を突っ込んでいるような気がした。
「お前、俺のために仕事してんの」
「……え。いや、ん……」手が緩む。汗ばんだ皮膚がじわ、と伸びる。「違うけど」
 下手くそな嘘をついた。
「なら関係ねえじゃん」淡々と答えた。嘘には気づかないふりをしたんだろう。
「ら。ラムズのためにしてたらどうするの?」心臓に楔が回った。
「へえ?」視線を合わせないまま、平然とした声を宙に垂れ流す。「俺のためにやってんなら、そんな質問は出ねえだろ」
「……どうして?」
「『どうして?』」喉の奥が嗤う。「仕事やめるとか休むとか、自分を慰めるためだろ。俺のために仕事してんなら、自分なんてどうでもよくねえか?」底のない眼が虚空を捉え、唇が妖しく曲がった。「聞くまでもない」
 そっと髪を撫で、こちらを見た。「でも、お前は俺のためにしてるわけじゃないんだろ。じゃあ──好きにしたら?」
 軽やかな声が耳をくすぐる。柔らかい声が今は異質に聞こえた。
「……そ、うだね」喉が締まる。「ラムズはさ、どんな子が好きなの?」
「例えば?」
「好きな……性格とか、雰囲気とか。う、うちの店にもっとスレンダーな子もいるし、天然っぽい性格の子もいるの。だからぁ……ちょっと気になって」
 饒舌になった口がいらない情報まで流した。
「俺が好きな子が好きかな」
「なにそれぇ。好きになった人のことはみんな好きになるってこと?」
「……いや」彼は優しく微笑んだ。「俺のことがすごく好きな子が、好き」
「──すごくって? どれくらい?」
「好いてくれれば好いてくれるほど、いいかな」
 ぐらぐらと視界が揺れる。心臓が楔を押しだすようにばくばくと伸縮している。私にもっと頑張れって言ってるのかな。でもそれは私が勝手に解釈しただけで、彼はただ質問に答えてくれただけだ。
 ラムズの手を取り、勝手に指を絡めた。冷たい指はなされるがまま、あいだの私の指を冷やした。
「あの、ね。ラムズは男の人だし、人間じゃないからわかんないのかもしれないけど……。襲われたの、本当に怖かったの。だからさ」
「うん」
「休みたい。……お仕事、したくない」
「いいんじゃない? 休めば」
 目頭が熱くなる。「ずるいよ。何か、言ってよ。どっちか決めてよ」
「俺が?」
「そう。ラムズが決めるの」
 彼は薄く溜息を吐いた。
 ──嫌われる、嫌われる。ここまでしつこく食い下がったら、面倒くさい女だって思われる。視界がちかちかと揺れ、ぎちぎちと心臓を潰す鎖が締まった。
「お前は娼婦で、俺は客だろ。そういう視点で言やあ、自ずと答えは決まるんじゃねえの」
「……えっと。つまり?」本当に頭が回らなかった。
 冷淡な瞳がこちらを捉える。冷たい吐息が唇を濡らした。「どこまでも言わせたいんだな」
「あの、……ごめ」彼の膝を掴む。
 わずかに顔を傾け、妖しい笑みがうっすら滲む。
「そりゃあ、目をかけてる子が約束のために頑張ってるほうが嬉しいよ。客を好くするのが仕事なんだから、すると娼婦のお前は頑張るべきだな」彼は一度言葉を切った。「だがそれはただ嬉しい≠セけで、そもそもこの約束自体俺に得があるわけでもねえし──。パメラは娼婦の前にひとりの人間だ。辛いのを我慢してまで『頑張って』なんて、俺はそんな悪魔じゃねえからな」
 彼はそれでもまだ、指からすり抜けるような返事しかしていない気がした。どうしても確信に近いことを言ってくれない。絡めていた指をぎゅうと握る。冷たい温度が骨に沁みた。
「……もっと聞いたら、怒る?」
 目を細め、ゆっくりと口角を上げる。「いくらでも?」
「嬉しいって……どれくらい嬉しいの?」
 彼は頬にもう一方の手を添えた。瞼が薄く被さり、サファイアのような青眼が煌々と瞬く。
「喰いたいくらいには?」
 別の意味で心拍が鳴りはじめた。ぎゅっとシーツを握り、絶え絶えの声で返す。「食べたいって……シたいってこと? でもラムズ、前に性欲ないって言ってたし……」
「まったくないわけじゃない」
「じゃあ、」
 顔の横に垂れた髪をそっと掬う。さらさらと髪が流れていく。「言ったじゃん。俺が好きな子が好きだって」
「……ん、うん。私がラムズのために頑張ったら……嬉しいの?」
 くつくつと笑う。「嬉しいね」
「……好きって、思うの?」
「さあ? そのときになんねえとわかんない」彼はあどけない調子で零す。「でも、そう思ってもおかしくないくらいには大変なことだろ。だから俺も無理強いできないし、したくもない」
「したくないの?」
 彼は悪びれのない顔で言う。「無理やりさせて意味があるなら、とっくにやらせてるよ」
 視線を左右に揺らす。たまにラムズは怖い。これも本気で言ってるのかも。たしかに彼なら、どんなことでもやっちゃいそうだし、やらせちゃいそうだ。
「私の意思で、頑張ってほしいってこと?」
「ふつうそう思うだろ」
 そう、か。そうだね。
「今、したいって言ったら?」私は言い訳をするように、矢継ぎ早に言葉を重ねた。「あの人たちに入れられたの。それが……すごく嫌なの。だから、」
「お前はそれでいいわけ」
「なにが?」
「今まで頑張ってきたのに、そいつらの上書きをするためだけに終わらせちゃっていいの。お前の努力が無駄になるように思うけど」
「れは……」
 彼が言っているのは間違いじゃない気がした。そんな理由で抱いてほしいんだっけ。彼に愛されるならなんでもいいのかな。
 ……本当は、なんの条件も理由もなく求めてほしかった。
「私は。本当は……」止まっていたはずの涙がまた生まれはじめる。ぽろぽろ雫が頬を伝い、ラムズは優しくそれを拭ってくれた。
「なあに」
「上書きとか、ご褒美とか……じゃなくて」彼の胸元に顔を寄せ、嗚咽を漏らす。「そぉ、じゃなくて」
 ラムズの手が頭を何度も撫でた。優しい手つきに心拍が落ちついていく。「わかってるよ。ごめんね、意地悪して」
「……私が頑張るのやめちゃったら、嬉しいって思わない? 好きとか、抱きたいって」
「──まあ、抱いてやるのはいいけど」抱きたいとは思わない、そう続くんだろう。「やめてもいいんだよ。辛いんだろ。体壊すよ」
「だって。嫌だよぉ、私は……。私はもう、自分のために頑張ってないもん」彼の胸に指を這わせる。「ラムズの、ためだもん」
「へえ?」とんと頭を胸に抑えられる。喉の奥で笑う。「かわい」
「……かわいいの?」
「かわいい」
 かっと熱を持った体を必死に抑え込んだ。彼の服を引っ張り、言葉を繋ぐ。「でも。……だけど」
「なあ」
 絡まった指がくすぐるように手の甲を撫でる。彼は耳に唇を寄せ、そっと囁いた。
「じゃあもっと悦ばして」
 どきどきする。くらくらする。蕩けるように甘い声と、耳を湿らせた冷たい吐息が心を犯していく。息を凝らして呟いた。
「でも今日、辛くて、だから」
 彼はわたしの腕を掴み、ぐいと後ろに仰け反らせた。口を塞ぐ。顔を上げると、柔らかく目を細めた。
「だからいんじゃん」
「なに……、が?」
「わかんない?」
「ラムズ、性格悪い」
 ふっと笑った。「そんなん知ってんだろ」
「まぁ。うん、最初から酷かったもんね」
 ラムズは腕を放し、首筋に指を滑らせる。流し目の蒼がそれを辿っていく。「もう言わない。あとは好きにして」
 これ以上言ったら、無理やりやらせたことになっちゃうからだろう。たしかにラムズが本気出したら──あんな切ない声で何度も「悦ばして」なんて言われたら、きっと頷いちゃう。
 彼がずっとかわし続けたのも、確信めいたことを言わないのも、なんとなく理解して、私はそっと彼から離れた。
「いっぱい我儘言ってごめん。あとは……自分で考える」
「ああ」彼は優しく笑った。「ありがとう」
 ありがとう、という言葉とラムズがどこかチグハグで、でもなんとなくラムズらしくて、私はへらりと笑った。