嘘吐

「ねえ、パメラ。僕は本気だよ。ちゃんと考えてくれる?」
 クラウスは私の頬にそっと手を指し当てた。ラムズとは違って暖かい指先だ。でも彼に負けないくらい、顔は整っている。
 深緑の長髪が彼の肩からするすると流れ落ちる。柔らかなアーモンドアイが流し目にこちらを見る。「お願い」
 ベッドのシーツを彼に気づかれないよう、後ろ手で掴んだ。ぐしゃりと握りつぶす。
「考えるよぉ、大丈夫。ありがとお。本当に光栄だって思ってる」
「あぁ、悪いようにはしないから。部屋もちゃんと用意する」彼はそっと私を引き寄せた。「もうそんなふうに働かなくていいんだよ。嫌なことはしなくていい。その傷だって……、辛いなんて思わないようにしてみせる」
 そんなふうに=B羽根のフリした棘がちくちく刺さったが、すました顔で微笑んだ。
 本当に光栄だと思っていた。だって侯爵だ。プルシオ帝国は行ったことないけれど、それでも侯爵は侯爵。とってもお金持ちで、彼の言うとおり不自由することはないだろう。庶民で娼婦の私が彼の妾になるなんて、こんなに幸運なことはない。
「あと一ヶ月待ってよぉ、お願い。まだここにいるんでしょう?」
「まぁね」彼は表情を落とし、眉のあいだに皺を寄せた。気遣うようにこちらを覗きこむ。「でも嫌なんだよ。その一ヶ月のあいだ、君はここで働きつづけるってことだろう? 妾と言っても僕は女の子を大事にしたい。未来の妻を、なるべく早くこんなところから連れ出してやりたいんだ」
「あぁ……クラウス」まるで彼の愛に感動しているように、目を瞬かせた。「本当に嬉しいの。でも大丈夫。あんまり……体のお仕事はないから。ごめんね?」
「──君がそこまで言うなら」
 クラウスはようやく立ち上がった。乱れたベッドを見てさらに寂しそうな顔をする。またね、と呟くように言って部屋を後にした。
 私は薄く息を吐いた。たまに息をするのを忘れる。周囲が霞んで見える。強ばっていた肩が落ち、足を引きずるように部屋を歩いた。数週間前からこうだ。客がいなくなった瞬間、体が地面に引っ張られてるのかと思うほど重く硬くなる。一昨日よりも昨日の、昨日よりも今日の心臓は小さくなっている気がした。
 覚束ない足取りで、一緒に飲んだグラスやボトルを片付けはしめる。シーツを剥がし、新しいものに取り替える。
 決まった仕事を淡々とこなしているところに、こそこそ隠れるようにライネルが部屋へ入ってきた。
「あんた……」彼女は口を一文字に結んだあと、そっと緩めた。「また断ったわけ?」
「……まぁね」
 布団を畳むのを手伝ってくれる。ベッドを元通りにしたあと、彼女はこちらへ近寄り、くいと顎を上に向けさせた。
「もう諦めなよ。来ないじゃん」
「……あと、一週間」
「先週もそう言ってたでしょ」ぴしゃりと言い返される。
 私は彼女の腕を払った。視線を揺らし、そばにあった布巾で力任せに机を拭く。「それは。約束より早かったから、来ないのは仕方ないじゃん」
「いちばんになったのに?」彼女は畳みかけるように、もう一度言った。「いちばんになったのに、来なかったじゃん」
 ぎちりと唇を噛む。
 そんなのわかってる。わざわざライネルに言われなくても、わかってる。

 ラムズは、来なかった。

 彼と最後に会ったとき、約束の日までちょうど一ヶ月あった。でも彼が「俺をすごく好きな子が好き」だなんて言うから、私は本当に……本当に、本当に頑張った。約束の二週間以上前に、店でいちばん人気の娼婦になった。約束よりも早くいちばんになれれば、ラムズのためにそれだけ頑張ったってことでしょう? 私の気持ちをわかってくれるでしょう? そう、思ったから。
 今だってもちろんその人気はキープしている。新しいお客さん、特にお金持ちが私に当てられるおかげもあるけれど……それでも、努力してここにしがみついている。
 クラウスとは、いちばんを取ったその週に会った。クラウスは三日に一度は必ず顔を出し、どんなに時間がなくても私を指名してかわいがってくれた。
 彼はいい人だ。変なプレイを強制することはないし、臭くも汚くもない。もちろん人並みに性欲はあって、私にそういうサービスを求めているのは間違いないけど、それでも、一緒に過ごしていて不快な思いをすることはなかった。
 むしろ、本人の言うとおり愛妻家で、妾にしたいという私のことも丁寧に、優しく接してくれる。故郷で待っている妻の話もよくしてくれていた。その妻に怒られるんじゃないのと話したことはあったけれど、妾が昔ひとりいたらしい。あいにく亡くなってしまったそうだけど、妻と妾の仲は悪くなかったし、妻のほうはもっと愛しているから大丈夫だと言っていた。 
 これ以上ない人だ。それもわかってる。だけど、クラウスはいらない。私がほしいのはクラウスじゃない。
 呼吸が浅く、苦しくなってくる。手首を摩った。爪を突き立てる。意味もなくベッドに腰を下ろし、また立ち上がった。髪を撫でつけ、震える指を叱咤しヘアアクセサリーを付けなおす。
 いや、そうじゃない。そうじゃなくて、ただ……私のほうがラムズとの約束を無視して勝手に消えるなんて──そんな不逞なことをしたくないだけ。
 でも、もう約束の日さえ過ぎてしまった。すでに半月は経っている。でも二回目に会いに来たときだって遅かったんだから、今回も──。
「パメラ!」
 ライネルの大声で意識が戻される。
「あいつにこだわる必要ある? さっきの侯爵だって十分いい男でしょ。金、顔、地位、全部ある。地位に関しちゃラムズ・シャークのほうが下だよ。あんたはクラウスについて行くべきだよ。それが娼婦にとってどれだけの幸せか、わかってるでしょ」
「こだわってなんてない」きっと彼女を睨む。「クラウスにはついて行くよ。だけど約束を反故にされたまま行くわけ? そんなの許せない。ラムズのほうがあんなにこだわってたのに、このままなかったことにするなんて嫌。絶対文句を言ってやりたいの」ぺらぺらと口が回る。どこからどこまで自分の言葉なのか、よくわからなかった。
「じゃあなに、ただ抱かれたいから待ってるっていうの?」
 私は勢いよくベッドに腰を下ろした。膨れた空気の音がして、私たちの髪を揺らす。
「違う! そういうんじゃない! ちゃんと区切りをつけてから行きたいっていうか……」ぶつぶつと小声で漏らす。「ラムズのためにいちばんになったのに……」
 ライネルは聞き逃さなかった。「ラムズのためとは言ってなかったじゃん。自分のためでしょ? いちばんになったおかげでクラウスと出会えた、それでお終い。頑張った意味もちゃんとある。あんな男と会う必要ない」
「あんな男あんな男って、ライネルはラムズのこと何も知らないじゃん!」
 目がじんじんと疼く。あまりに強く睨めつけたせいか、水気に飢えた瞼が瞬いた。口が乾く。
 彼女は大きな溜息を零すと、呆れたように頭を振った。「あとで飲み行こ。まだ仕事中だし、向こうで話そう」
「話すことなんてない」
「あたしはあんだよ、バーカ」
 ライネルはようやく顰めっ面を崩して、私の頭をぐりぐりと拳で虐めた。
「もう、やめてよ」つんと唇を窄める。
 言い争っても、一応ライネルが私のためを思って言ってくれてるのはわかっていた。二人で部屋を最後まで綺麗にし、次の客の相手をしに行った。


 仕事終わり、ライネルとバーで酒を飲んでいた。黒艶の木を張り付けた壁、ヒールが子気味良い音を立てる石造りの床。青白い魔石を使ったランプがぽつぽつと店内を灯す。洒落た音楽を鳴らす奏者が奥で座っている。カウンターには私たちが二人いるだけで、テーブル席で三人の客が座っていた。もう深夜を回るせいか、客はそれしかいない。
 カウンターの下で、傷のついた自分の腕をやわやわと摩る。左手だけでは収まらず、右の手首にも幾筋もの蚯蚓脹れが醜く残っている。最近はこの傷すら利用して、客を取っていた。クラウスも心配していたっけ。
 そう、みんな心配ばかりする。ラムズみたいに「いいんじゃない」なんて「俺が切ってやろうか」なんて、そんなこと誰も言わない。私を可哀想だと思っていて、この仕事が汚いと思っていて、この傷が醜いと思っている。説教したり、哀れんでみたり、守ってあげると言ってみたり。クラウスはマシだ。実際に私を買って妾にしてくれると言うんだから。
 別にいいんだ。可哀想だと思われても。そのために晒してるんだから。──だけど。
「だってさ」ライネルはグラスを手に持ったまま話し続ける。「……あんな酷いことされたあとで、もっと俺のために頑張れって言われたんでしょ?」
 強姦されたことだろう。ライネルまで罪の意識を感じてしまったようで、そのせいで私への過保護ぶりが強くなったんだろう。私って愛されてる〜。
「そこまでは言ってないし」
「いや、言ったようなもんでしょ。むしろちゃんと口にしないあたり、ずるい男だよ」
「まぁね。そうかも」
「そんなチョーカーまでしちゃってサァ……。まるで首輪みたいじゃん」
「私の趣味否定しないでよね。元々付けてたのに合わせてくれただけだし」
 ライネルは物言いたげにカクテルを飲む。私は首筋に手をやり、肌触りのいいベルトをそっと撫でた。彼のくれたチョーカーと、手首を切ること、それが私をいちばんにしてくれた。
「ラムズは……」くるくるとマドラーを回す。「ずるいやつなのは知ってるけど、いろいろ酷い、けどさ。でも一緒にいて楽しかったし」
「あんな冷たい男なのに?」
「あの日は優しくしてくれたよ」
「それでも抱いてはくれなかったんでしょ?」
「だって……」ぐいとグラスを傾けた。喉に冷たい酒が通っていく。「私も納得したから。たしかにあそこでしちゃったら、頑張ってた意味がなくなっちゃうかなって。そもそも彼はただのお客様で……私が求めすぎてた」
「うーん……。まぁ、客なのはそうね。どちらかというと、あんたが入れ込んでんのが問題なのかも」
「もう入れ込んでないってば」ぎちぎちと喉が絞まる気がした。「ただムカつくの。約束破るから。酷いじゃん。酷い、じゃん」
 かっと目頭が熱くなる。ライネルの前で、しかも酒に酔った勢いで泣くなんて、そんな格好悪いことしたくない。私は店主に「もう一杯」と声を上げ、新しくもらった酒をまた口に含んだ。
「興味なくなったんじゃない、パメラに」
「……いちばんになったのに?」
「知らないよ。変な男じゃん。突然消えたっておかしくないと思う」
「それは……」俯いて、レモネンの搾り汁とジンが混ざる様子を眺めた。「でも、頑張ってたら嬉しいって言ってたよ」
「なんのために頑張らせるんだろうね。パメラも言ってたとおり、彼にとっては意味ないじゃん」
「わかんないよ。でも、自分のために頑張る子が好きって言ってたよ」
「尽くしてくれる子が好きってこと?」
「……たぶんね」
「好きになってほしかったわけ?」
 私はへらりと笑い、グラスを掲げた。「好きになってくれたらたくさん店に来てくれるもーん」
 酒を飲んでいるはずなのに、また喉が渇いた。いや、飲んでいるから乾くのか。最近まともに食事も取ってない。胃の中も頭の中も空っぽなのに、笑顔だけは得意だった。
「はー、どうだか」ライネルは首を振り、自分の酒を飲み干した。「とにかく、もう忘れな。約束から半月は経ってる。クラウスに早く返事しないと、彼も愛想を尽かしちゃうよ。双子を追えばニヒルは来ないって言うでしょ」
「追ってないし。ただ文句を言いたいの。約束を破ったこと、咎めたいの。ライネルの言うとおり、急に頑張ったからこんな傷ができてんじゃん」
 私は見せびらかすように腕をひらひらと振った。
「それを……治してほしいし、多少なり……お楽しみがあってもいいじゃん」
「やっぱラムズとヤりたいんじゃん」
「うっさい」私は前を向く。「あんだけ待たされたんだから、どんなもんか見てみたいじゃん。下手くそだったら笑い話にできるし」
 ライネルは私の仮面に気づかなかった。同じように悪っぽく笑い、ウインクしてみせる。
「それならたしかに面白いね。でも、クラウスはだめなの?」
「別にだめじゃないよ。そこそこ、十分、悪くない。けっこう楽しめたよ。向こうも楽しんでるし」
「じゃあいいじゃん、ねぇ。毎日いろんな男とやってんのにさあ、そんなヤるための約束なんかに固執する必要ある?」
 だから比べたいんじゃん。そう言ってカウンターの古傷をなぞった。することしか脳がないようなうちらだから、ヤって価値を確かめておきたいんだよ。
 どこまでが建前で、どこからが本音かわからなくなってくる。私はもうなにも言わず、今飲んでいる酒で最後にしようと決めた。
「パ〜メ〜ラ〜。お姉ちゃんとの約束」ライネルが体を揺すり、無理やり手を握ってくる。「次にクラウスが来たら、行くってお返事しよう? ね?」
「あ〜〜。うん。きっとね」
 生返事な私に溜息を吐き、ライネルも酒を飲み干した。なんとなく互いに目配せして、もう帰ろうと席を立つ。
 最後に追加したお酒ぶん、店主に渡そうとつま先立ちでカウンターに金をカウンターに乗せた。座ってるときに渡すんだった。ヒールを履いても150に満たない私を横目にライネルは笑い、扉のほうへ歩いていく。
 店主が受け取ったのを確認したあと、私は彼女のあとを追いかけようとした。
「っあ」背の高い誰かとぶつかった。嗅いだことのある匂いがして、なんとなく顔を上げる。「ごめんなさい、ぶつかっちゃった」
「ああ」
 彼は私の肩を掴み、そっと脇に寄せたあとに店の奥へ戻っていった。聞いたことのある声だ。客として来たことがあるのかな。
 顔を傾げたあと、ドアの前で待つライネルのところに向かう。
「さっきの人の声、聞いたことある?」
「え?」ライネルは目を眇め、男の後ろ姿をたしかめた。「いや? 見たこともないけど」
「そうだよね。匂いも……なんだか知っている気がしたんだけど」
 苦いスモーキーな匂いに、甘ったるい蜜を一滴注いだような、そんな香水だ。男物とも女物とも言えないような香り、ミステリアスで、捉えがたいような──。
「パメラ、行くよ」
「うん」
 後ろ髪を引かれる思いでドアノブを引いた。ひやっとした金属に鳥肌が立つ。冷たいのは二回目だ、さっき男に肩を触られたときも氷みたいに冷たくて、
「あ!?」
 私の大声に、外に出ていたライネルが振り返った。
「なによ〜。遅くなるよ」
「帰ってて」
 ライネルを残し、私は店内に戻った。さっきの男のところまでつかつかと歩いていく。もう見える。ブラチナみたいな銀髪に、男にしては高いヒールブーツ。黒塗りの革ジャケット、宝石のベルト、ポケットから覗くゴールドの鎖。
 腕を掴んだ。「ラムズ」
 彼はゆっくりと振り返った。私よりもずっと背の高い彼がこちらを見下ろす。魔石の灯りが逆光になって顔に影がかかり、青眼だけが悪戯に光った。
「ああ、パメラ」
 今初めて気づいた、そんな顔で首を傾げる。黒いピアスが静かに揺れた。
「こんばんは」
 笑みの滲んだ声が、焦らすようにゆっくりと降りた。