自傷

 そのあとベッドボードのそばで向かい合わせに座り、彼はやっぱり私を着せ替え人形にして遊びはじめた。ずっと宝石を愛でてはいたけど、この前よりも顔を合わせてくれる回数が多くて、私も饒舌になって話しつづけた。
 貴族様との繋がりが多くなったおかげで彼と共通の話題が増え、いろんな話を聞いてもらった。とうに仕事の時間だとは思えなくなっちゃって、こんなに私が楽しませてもらっていいんだろうかって頭をもたげたくらい。
 宝石は弄ってるかもしれないけど、ちゃんと私に向き合って相手をしてくれる。私を尊重してくれる。他のお客さんみたいな理不尽は言わないし、酷いこともしない。気持ち悪い手つきで触られることも、私の暮らしが罵倒されたり蔑まれたりすることもない。たしかにちょっと冷たい眼で見られることはあるけれど、あれは他のお客様とは違う。ラムズなら別にいい。かっこいいし、それにあれもあれでどきどきするもん。
 本当に本当に夢みたいな時間で、途中で思わず目が潤んでしまった。
 ぱちぱちと目を瞬き、手を丸めて拭う。
「なんで泣いてんの」
 指輪を回していた彼と視線が絡む。目尻に指爪が添えられる。あまりに柔らかい声に、余計に涙が溢れそうになる。
「わ、わかんない……。全然いつもと違うからぁ」
 彼は瞼を伏せ、ブレスレットのついた私の腕を摩った。手首の内側をやわやわとなぞられる。
「これ、どうしたの?」
「なにが?」
 本当に気づいているとは思えなくて、きょとんとした顔でとぼけた。ラムズは指の腹で血管を大切そうに撫でていく。
「怪我してんだろ。魔法で隠してるけど」
「……わかるの?」
「たいした魔法じゃねえもん」
 彼は表情を落としたように笑う。彼が二本指でもう一度なぞると、魔法で消していたはずの跡がみるみる現れた。
 堪らなくなって、片方の手で手首を覆う。
「み、見ないで」
「自分で切ったの」
 凹凸のある切り口に指を添える。「ほとんど、は」
 手首にはナイフで切った跡がいくつもあった。深く切りすぎたところや、浅く小刻みに切ったところ。治ってもすぐに切ってしまうから、ミミズ脹れのように膨らんでしまっている。昔付き合っていた彼氏にやられてから、自分でするのが癖になってしまっていた。
 特にここに来る前の店、そしてラムズに言われていちばんを目指そうと努力するたびに、傷の量は増えた。
「なんで?」
「あ……。いや」私は目を逸らす。
 別に言うつもりはなかった。こういう話はお客様にするべきことじゃない。だから毎回、お店が始まる前に魔法をかけてもらって誤魔化している。そのたびに少し給料から差し引かれてしまっているけど、やめることはできなかった。
 肩をそっと掴まれ、両腕に抱き抑えられる。耳を彼の心臓がとくとくと叩く。
「話さなくてもいいよ」
 どく、どく、どく。規則的な心拍は、全身を呼応させるようにゆったりと揺らした。強ばっていた体を預けると、自然と力が抜けた。心が落ちつき、呼吸が楽になる。
「お店で……。辛いことがあると、たまにやる」
「嫌な客?」
「そぉ。酷いことされたり、痛いことされたり。変なこと言われたり」
「やるとどうなんの?」
「落ちつく、かなぁ?」
「見られたくねえの? これ」
 自分の手を眺めた。ラムズは前に肌が綺麗って褒めてくれて、私もそれは思ってる。でもどうしても手首だけは傷だらけで、そこだけ惨たらしく目立った。どこも真っ白で艶のある肌なのに、手首は血玉の固まった赤黒い線が汚らしくグロテスクだった。
「醜いからぁ……。お客様によっては嫌がる人とかいるしぃ。ラムズも嫌?」
「嫌って?」
「汚いでしょ」
「いや? 傷跡くらい誰にでもあんだろ」
 静かに声を落とす。「でもぉ。しないほうがいいかな」
 彼は背中を撫で、少しからかうような声色を投げた。「なんで?」
「えぇ〜。だってぇ、自分を傷つける行為だから? 前魔法かけてなかったときは、お客様にやめたほうがいいって言われたよ」
「落ちつくからやってんだろ? 悪いことねえよ」
「そう……なの?」
 私の手を取り、傷のついた手首を優しく摩った。「いいよ」
「私って自分を傷つけてる?」
「傷つけてたとしても、いいんじゃない」
「……どうして?」
「『どうして?』」彼はくすりと笑う。「なんでだめなの? お前がやりたいことなんだろ」
「そう、だけど。いいことじゃないでしょ?」
「悪いことって? 俺はそう思わねえが」
「……なんで?」
 彼は頭をそっと撫でる。「辛い思いをして、それを解消する手段として使ってんだろ。なにが悪い? じゃあ辛い気持ちを持ち続けるのがいいことなのか?」
「それは……違うけど。もっと別の手段を取るべき、とか……そういう」
「どんな手段でも変わんねえよ」
「変わんない……変わんないの? お友達と話すとか、眠って元気になるとか、そっちのほうがもっと……」
「もっと、なに?」
「悪いことじゃない、かなって」
 髪をすく指先に心がぞわぞわする。「俺からしたら、どの方法の善悪もねえが。パメラがやりたい方法が、いちばんいいと思うよ」
「だけど周りの人は……」
「辛いのはお前だろ」笑みの滲んだ声が聞こえる。「切って痛いのもお前だし。周りの意見なんてどうでもいいよ」
 肯定、してくれるんだ。否定しないんだ。みんな微妙な顔をするのに。
「ラムズは私がこういうことをしてても、悲しいって思わないの?」
「思わねえな」軽くそう放ったあと、「でも」と続ける。
 私は彼の腕の中で耳を傾けた。
「本当は違う方法で心を労りたいと思ってんなら、なにか探せばいいんじゃねえか。変わるつもりがないなら、変える必要はねえだろ」
「でも……私、たまに」自分の爪の生え際にぐいと爪を差し込む。「死にたいって思うこともあるし」
「それで?」
「やばいかなあ?」頭を後ろに倒し、ラムズの顔を見つめた。
「いや? 死にたいなら手貸してあげるよ」
「えぇ〜」少し体から離れて、陶器のような彼の顔を見た。「私が死んでも悲しくないの?」
「悲しいとしても、お前が死にたい気持ちとは関係ねえだろ。引き止めてほしいなら、引き止めてあげるよ」
「ラムズって変わってるね」彼の胸をとん、とんと叩く。「でもね、死にたいってより生きたくて切ってるのかも」
「へえ?」
「血が出てくると、生きてるんだなぁって思う。最近は痛いの、気持ちいいし」
 ラムズは目を細めてこちらを見下ろした。嗤笑の滲んだ声で囁く。「へえ、そういう子なんだ」
「そういう子ってなによぉ?」
「んー」
 彼は悩んでいるような声を出したあと、私の体を掴み、ぐいと腰を引き寄せた。息を奪う。突然のことに驚き、彼の腕を必死に掴んだ。
 唇を食み、やわやわと舌でなぞられる。ぴちゃぴちゃと濡れた音が色っぽく、心が昂っていく。優柔な舌に犯され、口内にいやらしい液が溢れた。
「ゃ、あ、ん……んんッ」
 彼は尖った歯で唇の内側に噛み付いた。くにゃりと粘つく粘膜に刺激を与えたあと、私の舌を捕まえる。角度を変えて深く口付けられ、彼の口へ舌を引っぱられる。ぎゅうと舌の腹に牙が突き立てられる。じんじんと甘い痺れが体を回る。
「ん、ッん、んんん……」
 彼は背中に腕を回し、本当に舌を食べるみたいに繰り返し深く求めた。私はわずかに開いた口から息を吸い、必死に声を上げる。
「ら、らむ……た、い。いた」
 薄く開いた彼の眼が嗤う。唾液を呑まれ、唇にちろちろと舌が這う。襲うように唇を何度も重ねられる。舌を絡めあい、唾液が痛みといっしょに混ざり合う。享楽のあいまに粘ついた皮膚を牙が刺し、小さな刺激が雨のように降り注ぐ。瞳が潤み喉が苦しい。
「んぁ、っつ、あ……は、ァあ」
 胸を叩くと手首を掴まれた。後ろに引かれ、背中がわずかに仰け反る。口が離れた。
「っは。ぁはァ……」息を整え、上目で彼を睨む。「ばかぁ、痛いよぉ」
 彼の唇が唾液でてらてら光っている。親指でそっと拭い、切れ長の眼を怪しく歪めた。「痛いの好きなんだろ」
「そ、そういうんじゃないしぃ……」
「へえ?」
「ラムズこそ、そういうの好きじゃん。最初は興味ないとか言ってたのにぃ」
 彼はふっと笑う。「たしかに、食うのは好きかな」
 囁くような低音にどきりと胸が打つ。へら、と笑って答えた。「本当に食べられるかと思った」
「喰っていいの?」
「どういう意味? してくれるの?」
 彼は私の体をベッドボードに押し付けた。逆光で髪が彼の顔に影を作り、碧眼が怪しく煌めいている。「あとで治してあげるから」
「なに?」
 ラムズは両手首を掴み、首筋に顔を埋めた。舌が皮膚を這う。冷えた温度にぞくぞくと鳥肌が立つ。音を立てて耳に軽くキスを落とされる。力の抜けた私の腕を離し、もう一方の首を摩った。
「やん、ぁ、はァ、ッん……」
 そのとき何かが皮膚を裂くような感覚がした。ぴりっとした痛苦のあと、全身の脈が熱を持ったように忙しなく疼きはじめる。頭いっぱいに心拍の音が響く。隣で喉の鳴る音がする。
「ぇ……ち、吸ってる……?」
 頭が夢心地に悦楽に浸った。首から上が火照って心がとろけていく。──ヴァンパイアに吸われるの、こんなに気持ちいいんだ。手放しそうになる意識の中で朧にそんなことを思う。
 覆いかぶさっている彼の体に手を伸ばし、優しく引き寄せる。
 どくどくと血が抜かれていく。甘ったるい多幸感は体が宙に浮かんでいるみたいだ。熱を帯びた声が漏れた。
「む、ラム、ず……」
「なに」
 冷たい吐息が鼓膜を震わせる。それさえも快感の波になって奥が疼いた。下の口がひくひくと粘ついた液を漏らしている。
「め、だめ、だよ」
 彼は喉の奥で軽く笑い、また首筋に口をつけた。傷口を抉るように舌を差し込まれ、痛みに体が強ばる。掴んでいた彼の腕を強く引く。
「たい、痛い、ったぁ……や、たい……」
 じりじり焦がすような悦と、身を切るような疼痛が交互に襲う。肩からじんわりと熱が伝っていく。
「ぁは、あ……」
 掴んでいた手が落ちる。体の力が入らない。瞼が重く脳が白く溶けそうな一方で、早鐘のような心拍に全身が驚いている。
 ようやく体を離され、彼の影が顔にかかった。
「吸いすぎた?」
「ヴァンパイア、なの?」
 このお店はヴァンパイアの吸血行為は禁止している。その関係で、本来店にヴァンパイアという使族は入れられないことになっていた。
 ラムズは私の腕を取ると、指に優しくキスをした。
「そんなもん」
「……めだよ、血は」
「悪りい」
 彼はそっと私の体を起こし、未だに流れている首筋の血を舐めとった。舌と揃いの赤が彼の薄い唇を汚し、口の中が真っ赤に染まっているのが見えた。
 意味もなく自分の胸に手を当てる。まだどきどきしてる。そろりそろりと手を彼の頬に当てる。人差し指を口の中に入れた。
「牙……あるの?」
 無機質な眼を仄かに光らせながら、そっと口を開けてくれた。他より少し伸びた、銀に光る牙が見え隠れする。彼は口を閉じて、私の指に牙を突き立てた。
「食べちゃうよ」
「えぇ〜……」
 とろんとした目で見上げる。形のいい顔があざとく嗤う。指を強く噛まれ、あまりの痛みにきゅっと眉を寄せる。
 彼が口を開けてくれたので、そっと手を戻した。なんとはなしに自分の口に入れ、ラムズの唾を舐めとる。
 彼はワゴンに乗ったボトルを取った。とくとくとグラスに注いだあと、音もなく口に含む。そのあとこちらに戻ってきて、後ろのベッドボードに手を付き、また口付けられた。
 冷たいワインが流し込まれる。甘酸っぱいそれとアルコールの匂い、彼の柔らかいキスに倍増しで酔いそうになる。
「今アルコールはやべえか」
「えぇ?」
「飲みすぎたな」
 彼は視線を落としたあと、「待ってろ」と軽く言いベッドからいなくなった。すぐに戻ってきて、給仕からもらったらしい水と柔らかそうなパンをワゴンに置いた。
「食わねえと倒れる」
 口移しで水を飲まされる。彼よりも口の小さい私は全部飲みきれなくて、唇からつぅと水が零れた。胸元に雫が落ち、ひやっとした冷たさに肩が跳ねる。
 二回目はもう少し量を減らしてくれて、甘い水を注がれた。でも、水を飲ませるたびに唇や舌を弄ばれるせいで、いくら経ってもぼうっとした頭が戻りそうになかった。
 体を起こされ、支えられたままパンを食べる。美味しいパンだったと記憶していたのに、彼とのキスのほうがずっと美味しい気がした。乾いたパンは口の中の彼の唾液や水を吸っちゃって、もどかしい気持ちを置き去りにした。