Prologue

 パトリック・コーランドは闇夜の砂利道をきっぱりとした足取りで進んでいた。魔石を使った外灯がぽつぽつと周囲を光らせているが、道全体を照らすには頼りなく、ないよりはマシという程度だ。
 帰るのが遅くなってしまった。夜半は、奴隷上がりの獣人の追い剥ぎに遭うとか、ヴァンピールやオークに血を吸われる、喰われるとか、いい噂を聞かない。それは男であっても変わらない。戦中なせいか近頃はそういった噂は減っていたが、大事な家族を持つパトリックが警戒を緩める理由にはならなかった。
 じゃり、じゃり。小石の擦れる音が絶えず続く。
 もうすぐ隊長になれるという話があったが、パトリックは断るつもりでいた。先の戦争でせっかく生き永らえたこの命、あまり無駄にせず生活していきたい。妻も仕事があり、あとは娘ひとりを養うだけだ。今の給料で十分だろう。
 娘ひとり──本当は上に息子がいた。じくじくと鼻の奥が痛む。男はこめかみを強く握り、いつかの彼女≠フ声を思い出した。

『助けられなかった。ごめんなさい。彼は戦の序盤で弓矢に打たれてしまったようで……私が来たころにはもう……』
 彼女は長い睫毛を伏し目がちに下ろし、パトリックの手を取った。パトリックが泣くのに合わせるように、彼女の瞼もまた膨らみ、透きとおる涙を幾筋も零した。
『ごめんなさい。本当に。本当にごめんなさい』
『……い、いいんだ』パトリックは泣きながら答えた。
 まさに彼女は聖女でった。
 彼女の言葉に嘘はないだろう。いくら聖女であっても、死んで時間が経ってしまっていたら助けられない。そんなことができるのは光の神フシューリアくらいだ。
 ジュアナ・ラピュセル。
 彼女はこの国を救った聖女であった。それこそ、光の神に神力を賜ったという話だ。その力のおかげで彼女自身はどんな傷を受けても死なず、また傷ついた者を癒すことができるという。
 パトリックも治癒魔法は使えるが、ごく一般的な人間が使える程度の擦り傷や切り傷を癒すというくらいで、折れた腕や足を元に戻すことなどできない。ましてや死にかけた人間を生き返らせるなんて、エルフでさえ不可能だろう。彼女はまさしく、光の神に愛された聖女なのだ。
『ご子息を助けられなくて……ごめんなさい。貴方はこの国のために力を貸してくださったというのに』
 聖女ジュアナは、我が事のように酷く悲しみ、こちらを労わってくれた。嗚咽を漏らしながら答えるその姿は、本当に自分と同じ感情を共有しているようにさえ見えた。
 ジュアナの姿は、戦火の飛び散る中で国旗を勇ましく振っているのを見ただけだ。パトリックからは遠い場所にいたが、光を弾く結わえた白髪が旗とともに揺れ、凛と通る力強い声は兵士たちの士気を上げた。それはパトリックも例外ではない。
『ジュアナ・ラピュセル様。私のような一介の兵士に……そのように、頭を下げる必要は、ないのです』
 彼女は涙で潤んだ瞳を細め、美しい喜色を湛えた。
『同じ光の神フシューリアの子供ではありませんか。今の私ができるのは貴方に謝ることだけなのです。本当に……もう少し周囲に目を配っていれば。この距離まで魔法を飛ばしていれば──』
 彼女は遠い目をして、自分が立っていた丘を見た。本当に後悔しているのだろう。妻と自分以外に、我が国の英雄・聖女ジュアナがこんなにも息子の死を悼んでくれたのならこれ以上の喜びはない。

 パトリックは夜の道に意識を戻した。この国も自分も彼女のおかげで救われた。敗戦続きだった我が国を何度も勝利に導き、文字どおり希望という光を掲げる存在。聖教会からも認められた神聖な英雄、乙女の血を持つ聖女。世界中で彼女の名を知らぬ者はいないだろう。彼女の話をまた娘にしたくなってきた。早く家に帰って娘と妻を抱きしめてやりたい。
 じゃりじゃり、じゃりじゃり。小石を踏む音が早まっていく。
 五本目の外灯を超え、また道が闇に包まれる。そのとき、不意に背後から違う足音が聞こえはじめた。振り返っても誰もいない。やけに足取りはゆっくり──だが、確実に音は大きくなっているような気がした。
 ぴしり。
 パトリックは心臓が破裂したかと思った。何かを割ったような音だ。明らかに足音ではない。なんのために割ったんだ? そもそもなにを?
 魔法で姿を消しているのだろうか。それともそういう獣人か。
 ぴしり。
 硬質な音が再び耳を付く。パトリックは走りだした。体は鍛えている。足の速さには自信があった。全速力で駆ければ人間でない存在であっても諦めてくれるだろう。だが外灯を二つ潜ったところで、次の外灯の手前に人影が見えた。思っていたよりずっと小さい。よく目を凝らせば、フードを被った少女が佇んでいた。
 ほっと息を吐く。あまりに敏感になりすぎていた。ただの少女だ。しかもフードの先から見える髪はジュアナ・ラピュセルと同じ白髪、むしろ縁起がいい。
「こんな時間にどうしたんだ?」
 それでもパトリックは一歩距離を空け、警戒を怠らなかった。背の低い獣人もいるだろう。フードを被っているのは、魔物の耳を隠しているせいかもしれない。
 彼女はやんわりとフードを外した。耳はない。人間のように見える。白髪と同じ彩度の低い銀の眼が光った。
「君、あれ。どこかで──……」
 萎びた白髪はそれでも艶を残し、頬紅のない痩けた頬でも、彼女の面影はあった。パトリックは前のめりになって顔を見ようとした。もし彼女ならばあるはずだ。右目の下にヴァロンス王国の──
「ジュアナ、次は?」
 背後から男の声が聞こえた。振り返るよりも早く、目の前の少女は駆けだしてパトリックの脇腹へ剣を突き刺した。崩れるように地面へ倒れる。すぐさま剣は抜かれ、次は太腿を貫通し地面へ突き立つ。
「き、み……」
 こちらを見下ろす眼が冷たく光っている。逆光で頬が青白く染まり、例の紋章が半分、光に当たって銀に光った。
「ジュア、ナ、ラピュセ、ル……」
「触んねえのか?」
 嘲るような男の声が聞こえる。朧気な視界の中、ジュアナよりも寒色の銀髪が目に入った。ちらちら青い光が漂っている。服が破られる。胸元に鋭い熊手のようなものが当てられ、それは皮膚を抉り引き裂いた。




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