出会い

 「飲むだろ?」
 ラムズは腰を上げると、唇についた血を不自然に赤い舌で舐め取った。私が始終魔法をかけ続けているせいで、男はまだ死んでいなかった。とはいえ、ただ意識があるだけで生きた人間とは言い難い。体の半分以上の血を抜き取られた男の皮膚は無数の皺ができて変色し、骨に張り付いて歪な骸骨に見えた。
「いらない」
「本当に?」
 彼は首を傾げた。奇妙なコバルトブルーが笑う。
 一歩後ずさる。ラムズが私の腕を取った。引きずられるようにして男の前で屈む。
 ラムズは裂かれた腹に手を差し入れ、未だ伸縮していた心臓を抜き取った。右手で潰し、椀のように広げた左手に赤黒い血を垂らしていく。少し溜まるとそれを飲んだ。
 血のついた手で顎をすくわれ、冷たい唇が押し当てられた。生温かい血が流し込まれる。粘ついた液が口内を汚し、喉の奥へ垂れていく。
「っは、ぁ。……は。美味しく、ない」
 ラムズは軽く笑った。「嘘ばっかり」
 心臓が小刻みに震える。血以外何も食べさせてもらえない。否、ふつうのご飯が美味しいと思えない。
「ほら、自分でやって」
 一瞬迷ったが、ラムズから心臓を受け取った。
 決めたんだ。この男の言いなりには絶対にならないと。だから今は。
 白無垢の手が鮮血に染っていく。何度も何度も口へ運び、次第に空腹できりきりしていた胃が落ちついていく。体が熱くなり、改めて死んだ彼の正体に胸が痛んだ。以前助けた兵士だ。そしてその息子が助けられず謝ったんだ。最期は娘と妻を思って死んだらしい。
 すべてが伝わってくるはずなのに──もう涙は出てこなかった。
「これで十五」
「あと五人か」
 彼が笑うのに合わせて、私は唇を歪めた。
「もう倍殺してもよさそう」
「……へえ?」
 ラムズが死体を残し夜道を歩いていく。私はちらと目を落としたあと、ラムズのあとを追いかけた。

 私ジュアナ・ラピュセルはヴァロレンス王国の軍人、そして聖女だった。
 十二歳のときに神の声を聞いた。神は伝説でも架空の存在でもない。実際にわたしたち人間や、エルフ、オークなどの使族を創った存在だ。だがその神の声を聞いたとなると話が変わる。
 普段は人間に干渉しない神と私は会話をし、その神から神力を賜った。それも、他の神力持ちとは一線を画す、非常に強力な力だった。
 まずは、どんな怪我をしても即座に自然治癒し、元の体に戻る。病気を患うことがなく、麻痺、毒、魅了、催眠などの枷魔法も効かない。さらに、もともと持っていた魔法力が大幅に上昇した。
 治癒魔法は魔法力が強いと謳われるエルフを凌ぎ、攻撃魔法はエルフと渡り合えるくらいには威力が増した。エルフと同等の魔法の力を持つ人間などいない。ただの農夫の娘だった私は、神力を得たあと自分のすべきこととして国に力を貸し、敗戦続きだったこのヴァロレンス王国を救った。
 それが私の正義であり、本望だった。愛する我が国のために多くの怪我人を治して、神からの使命だという一点のみで兵士を鼓舞し、戦場を駆け回った。本当に幸せだった。地位も名声も興味はなかったが、感謝されるのは嬉しかったし、少しでも不幸な人が減ればいいと思っていた。
 あと数ヶ月もすれば敵国のイルドゥラント王国の首都へ乗り込み、最後の戦いをするはずだった。そしてヴァロレンス王国の民へ戦争と無縁の平穏な日々を贈ることができると、そう希望を持っていた。
 すべての歯車が狂いはじめたのは、同じ銀髪を持つ男──ラムズ・シャークのせいだ。

  *

 ──二カ月前。
「向こうに酷い怪我人がいるのです。お力をお貸しください」
 戦が終わり、負傷者の手当てで皆が騒がしくしていたときだった。見慣れない兵士だと思ったが、私は力強く頷く。鎧のバイザーを下げ、その隙間から見える男の髪は銀色だった。ずいぶん綺麗な色だ。私の白髪もよく褒められるが、彼のものもきっと美しいだろう。
「いい色ね」
 私はそれとなく彼の鎧に触れた。──彼に害意はない。あとから頬を綻ばせ、男のほうへ顔を上げた。
 私の持つ神力は治癒魔法以外に、触れた者の心を読むことができる力もある。この力のおかげもあって、裏切り者やスパイを見抜き内部崩壊を防いでいた。
「髪ですか?」
「ええ」
「ジュアナ様のほうが愛らしい色で、素敵だと思いますよ」
 愛らしいと言われたことはない。私は無意識のうちに、もう一度彼に触れていた。だが、やはり何も感情は伝わってこない。お世辞でも本気でもなく、ただ見るままを伝えたということだろうか。
 甲冑の金属音と枯れ葉を踏む音を静かに鳴らし、足早に歩いた。兵士はバイザーを下げて顔を見えるようにしているだけで、ヘルメットは付けたままだ。私は他の兵士からもわかりやすいようヘルメットを取っている。ひとつに結んだ髪が左右に揺れ、無為に触る。
 兵士は林を少し奥まで進み、基地の声が聞こえないところまでやってきた。木漏れ日が細くなり木々の影が濃くなっていく。兵士は大岩のそばを示した。
「早く治してあげてください」
「もちろん」
 私は彼を追い越し、岩のそばで屈んだ。横たわった兵士に被せられた布を開ける。
 あれ? もう死んでいる。
 はっとして振り返ると、即座に首筋に手を当てられ、口元に太い麻布が回された。
「っん! ぅうんんん! んっ、んん、んぅん!」
 助けを呼べないようにしたらしい。空いている右手で魔法を放つ。
「【風よ、暴風よ ── Vent Fortisrong】」
 コンマ一秒、二秒。風が発生する気配はない。
「ッ!? んんいえ!?」
 どうして魔法が使えないの!? 何をしたの!?
「んっ! んんんんん!」
「催眠魔法も無理か?」
 男の掌から淡い黒靄が現れる。彼は詠唱していない──つまり、人間じゃない。
 靄は私を撫でるように避けていくと、そのまま宙で霧散した。男はそれを細めた視線で眺めたあと、こちらに目を合わせる。
「寝たり気絶したりはするよな? 痛覚もあるって話だ」
 彼には無視をして、地面に手をついて一目散に立ち上がる。駆けだした足は地面を這う蔦で縺れ、顔面から転んだ。膝を立てると、どこからかシューシューと音がするのに気づいた。
 背中に毒の魔法を使っている。脇から熱い液状の銀が垂れていった。離れようと身をよじり体を翻し、表を向くと勢いで足を振り上げた。
 ガキン。宙に浮いた長剣が鎧のグリーブとぶつかる。勢いをつけて跳ね上がり、男の肩を掴み狙いをつけて地面に叩き落とした。頭蓋は石にぶつかったはずだ。男の首は折れたように傾いている。
 まだ安心できない。即座に離れようとしたが、手が取れない。ぱっと右手を見ると、彼の甲冑から溶けだした銀が私の指に絡まっている。なんて手際がいいんだ。見事な敵の小技に唇を噛む。
 傾いていた頭がむくりと起き上がり、銀の前髪が小さく揺れる。こちらを見もせず左手の人差し指をくいと下に向けた。何がくるかを確認する間もなく首と甲冑の隙間へ、寸分なく長剣が突き刺さった。
「んんんんんんんんんッ!」
 男は、自分の甲冑と繋がったままの手を掴み、刃風魔法ですぱんと私の手首を切った。
「んぁぁんんんんん! んんッ!」
 朦朧とする体が押され宙で傾いていく。近くの草木がみるみる成長して両手両足を縛りつけた。バランスを崩し地面へ倒れると、岩へ磔にするように固定される。
 男は首の調節をするみたく左右へ回して、何事もなかったようにこちらを見た。耳についた小粒のダイヤモンドのピアスに軽く触れる。「こっちにしておいてよかった」
 彼は近づくと、私の鎧に手を触れた。白い煙を出してみるみる液状化していく。鼻を付く嫌な匂いは基地と反対側に流された。
 鎧が溶けたあと、男は中の鎖帷子を鋭い爪で引き裂いた。
「っん!? ん、んん! んんんんんんん!」
 この男、もしかしてここで強姦するつもり!? きっと眼を据わらせて、必死に彼に訴えかけた。私は聖女だ。そんな者を犯すなんて、神の罪が怖くないの? 
 男は鬱陶しそうにヘルメットを脱ぎ、そばに放った。銀髪が静かに揺れ、鮮やかな青眼がこちらを見下ろす。ヘルメットをしていたにしては髪はバランスよく跳ねていて、血や汗がついている形跡はない。想像していたよりずっと美形だ。こんな状況でなければ神の作った人形かと見惚れていたかもしれない。白百合を塗った肌に怜悧な眦、嵌めこんだ碧眼に添えた銀の冠。触れても感情がわからなかったことを裏付けるように、彼の顔にも表情という表情がなかった。
「そういう趣味はない。意識が飛ぶまで痛みを与えようと思ったんだ。それには鎧が邪魔で……」
 独り言のようにそう漏らし、腰を落とすと、下着から伸びた私の脚に短剣を滑らせた。薄く角度をつけ、すっと傷をつける。
「ッ!? んんッ!」
 剣で切られた長い線から血が滲みはじめる。だが神力のおかげで、端のほうからすぐに新しい皮膚が形成される。男は治癒を待たず、切れた傷口のあいだに爪を入れ逆方向へそれぞれの皮膚を引き裂いた。
「んんんんぅッ、んんん!!」
 みしみしと血管が皮膚に引っ張られ、それが千切れ剥がれていく。太腿を一周するまで男は皮を引っ張り剥がしつづけた。皮膚が捲れていくたびに筋繊維が顕になり、血塗れの皮が地面で丸まった。剥き出しになった赤い皮膚の内側があまりにグロテスクで、失神しそうになる。
「ッ! ん、ンッ! ンンン! ん〜〜〜!」
 もう片側の脚にも同じように傷跡を付けると、今度は焦らすようにゆっくりと、皮膚を丁寧に剥がしていく。ぴりぴりとした灼けるような痛みが下半身から全身に巡る。指先が痙攣し、額から汗が吹き出した。
 彼は首を傾げたあと、今度は小型のナイフに持ち替えた。頬に左手を添え、そっと目を眇める。どこか愛おしむような表情で頬に彫った紋章を摩ったあと、鋭い歯の細かく付いた小型ナイフを目元に近づける。私は懸命に瞬きをし、眼を何度も左右へ往復させた。あまりの恐怖に異常なほど首から上が冷たくなり、唇がわなわなと震えた。
 嘘だ。嘘だ。どうして? 聖女だよ、いくら敵兵とはいえ、神と話した聖女なんだよ。罰が怖くないの、お願──男は目尻から目頭まで、下睫毛の際をナイフでつぅうとなぞり、ついに皮膚と眼球のあいだへ刃先を差し込んだ。
「んんんんんんんんんんん!」
 眼球の縁から血が流れる。奥までぐりぐりと刃を差し入れ、左右に動かして目玉をくり抜こうとする。耐え難い激痛が脳裏に走り、涙か血かわからないものが両方の眼から溢れた。痛みに悶え手足を動かすたび、巻きついた蔦がより強く硬く締め上げていく。
「んぁん! んぁん、んあぁんんん!」
 男は腰を上げると、蔦を操って両手両足をそれぞれで縛った。肩を掴まれ無理やり起こされる。ぐらりと頭が揺れたとき、視界の林がぼやけたまま回り、ついに私は気を失った。