師と弟子
「こういうとき、孝助はいつもカフェオレを飲むよね」
アレクは、ふと思い立ったようにそう言った。昼下がりの午後のカフェテリア、数ヵ月ぶりのアレクとの待ち合わせの日のことだ。
二人での外出は基本的にカフェテリアで締められる。というのも、アレクが日本に訪れる度、孝助が母国の言葉や文化を教えると約束しているからだ。ゆっくりコーヒーなんかを飲みながらお互いの文化を教え合う。そんなアレクとの二人きりの時間はかけがえのないもので、知り合うきっかけとなった事件から約五年が経った今も、こうして関係が続いている。
「前孝助の家に行ったときは、ブラックコーヒーを飲んでなかったか?」
「よく覚えてるね。でも基本的に作業や……考え事をするときだけしかブラックは飲まないんだ」
アレクを家に招いた際飲んでいたものは、研究に没頭していた名残のようなものだ。そう付け加えると、アレクは得心がいったような顔をして笑う。
「確かに、エナジードリンクで夜更かしする孝助は想像できないな」
真面目な顔で頷く彼の姿に、竹中もつられて頬が緩んだ。自分でも想像し辛いところがあるし、何より、以前同じ言葉をかけられたことを、ふと思い出したからだった。カフェオレを一口啜る。
「そういえば昔、岸本さんにも同じことを言われたよ」
「エナジードリンクは似合わないって?」
「そのときは、ブラックコーヒーばかり飲むって指摘だったけどね」
岸本との研究の最中、やっと孝助が彼女に慣れ始めた頃の話だった。共にあの研究室で作業をする際、そう言われたのだ。逆に岸本とはカフェのような場所に入る機会がなかったから、彼女には孝助がブラックコーヒーばかり飲む人間に見えていたのかもしれない。
「確かに、エナジードリンクを飲む孝助くんの姿は想像しにくいな、って」
ニヤリと笑う岸本の姿が、きっとアレクにも見えたのだろう。ふと笑って、お互い、少しだけ脳裏に過去を巡らせる。
「実のところ、僕がブラックコーヒーを飲むのは父さんの真似なんだ」
運ばれてきたカップに一口、口を付ける。最近はあまり思い出していなかったのに、一つ思い出の糸を引っ張ると、するすると彼女との思い出は記憶に現れる。笑顔の彼女がパッと記憶に現れて、つい昨日の出来事だったかのように鮮明に動き出した。
「孝助くんはブラックが好きか?」
ようやく孝助が岸本に慣れ始めた頃、研究に一区切り付け休息を取っていた彼女は、マグカップを孝助に差し出してそう言った。孝助はどう返すか少し悩んで、曖昧に頷く。
「集中したいときはよく飲みますね。取り分けて好き、というわけではないですけど」
「そうだったのか!てっきり好きなのだと思っていた」
揺れる黒い液体を溢さないようカップを受け取ると、岸本は近くの椅子に腰掛けて竹中と向き合った。一メートル半。竹中と岸本のいつもの距離だ。
「まあ、研究中はよく飲みますからね。……父さんの真似なんです」
そう言って、竹中は困ったように笑う。実のところ、八歳程までしか見ることが出来なかった父親の姿は既に朦朧としていた。顔こそ写真で見られるが、その暖かかったはずの手のひらや、掛けられていたはずの言葉をもう鮮明には思い出せない。しかし、白い煙を燻らせるマグカップを傍らに、書斎の古い椅子に深く腰かける後ろ姿は記憶のなかに綺麗に残っていた。懐かしい思い出だ。考える素振りを見せていた岸本は快活そうな瞳を少し歪める。
「ああ、そうだった。竹中先生はブラックが好きだったな」
「やっぱり、研究中に?」
「いや、普段から飲んでいたよ。……健康に悪いから程々にするよう言っても、癖で一時間に何杯でも飲んでしまう人だった。私は何回も言ったのに」
今の今まで、忘れていたよ。そう付け足して窓の外に視線を移す岸本の瞳はどこか緩い。岸本は竹中の父の話を度々したが、父の趣向について語ったのは初めてだった。
「まったく、歳は取りたくないな。ほんの十年ほどしか経っていないのに、こんなことまで忘れてしまうなんて」
岸本は首を振ると、後ろ髪を掻き上げる。これも一つ、岸本の癖なのだろうか。竹中はふとそんなことを思う。父の癖なんてまったく覚えていなかった。だが、霞の掛かる父の姿と、白いマグカップはどうにも違和感がない。きっと、よく飲んでいたのだと思う。
竹中は父親のことをほとんど知らない。豆は何が好きだっただろうか。砂糖は入れたか、今も戸棚に残されているマグカップの、いったいどれがお気に入りだったのだろう。竹中に閃光のように走った想いを見破るように、岸本が笑う。
「今日の休憩は長めに取ろうか、私も、久しぶりに先生のことを思い出したくなった。そうだな、先生の癖といえば、考えるときはいつも顎に手を当てていて───」
──それから、何を教わったのだったか。遠い昔の記憶を辿っていた竹中は、知らず知らずのうちに自分の左手が吸い付くように顎に添えられているのに気が付いた。父と共通する自分の癖だ。あの時も、これも遺伝かと岸本と笑ったことは覚えているが、その後からの事が思い出せない。エナジードリンクの話も、たしかこの後に続いていたはずなのに、どうにも靄が掛かる。忘れてしまっている。
「孝助?」
動きを止めた竹中をアレクが覗き込む。
「体調でも崩したか?」
「いや……」
竹中は言い淀む。竹中と岸本の間には、対外的に見ると3年の隔たりがある。しかしその実、岸本にとっては百年以上、竹中にとっては十年近く、お互いに会って話す機会を得られなかったのが内情だ。せっかく聞いた父の話も、岸本と過ごした日々も、もう遠い過去。竹中がエテルノ美術館に訪れたときに確かに覚えていた様々な思い出は、止まった時の中に置き去りにされてしまっている。あの、ミラノの町に。
「岸本さんに父についてせっかく聞いたのに、忘れちゃったなと思ったんだ」
掘り起こし掛けたトラウマを誤魔化すように手を振る。続いて竹中が父とブラックコーヒーについて話せば、アレクはなるほどね、と頷いた。
「二人は実は何年も会ってなかったんだから、そうか。……でも、忘れたことばかりじゃないんだろう?」
「まあ、ね。僕の唯一の師匠なんだ。何年経ってもきっと沢山覚えてる。」
数十年でも、百年経っても、恐らく竹中が岸本の全てを忘れる日は来ないだろう。岸本が十年間竹中の父について覚えていたように。百年経っても、竹中との約束を忘れずに居てくれたように。
「師匠と弟子って、きっとそういうものなんだよ」
「そっか……うん、そうだな」
噛み締めるようにアレクが頷く。お互いの視線は合わなかった。窓の外では、今にも沈んで行く夕日が山の縁を彩っている。あの山のずっと先には、かのイタリアの地があるのだ。
イタリアではあの日沢山のことが起こり、沢山の人が死んでいった。竹中にも未だ残る傷がある。もう二度と行くものかと思っていたが、単純なことにこうして岸本の話をしていると、もう一度行きたいと感じてしまうらしい。竹中の頭のなかでふと、快活に笑う彼女の顔とイタリアの地が重なって消えた。
岸本が竹中を覚えていたように、竹中だって岸本を忘れない。岸本にもう一度会いに行くくらいはするものだろう。弟子なのだから。思い付きだが、竹中には悪くない案に思えた。
一拍おいて、竹中は微笑み空気を吸い込む。暖かな珈琲の香りがした。
「次の十月十日に、もう一度ミラノに行こうかな。……アレクも、一緒にどうかな」
西からの光が、明るくテーブルを照らしている。