親と子
ある夏の日のことだ。研究に一つ区切りを付けた竹中は、実に数週間ぶりにさざめの住む孤児院へと足を踏み入れていた。最初はさざめに紹介されて恐る恐る入っていたこの場所ではあるが、流石に何度も出入りをしていれば自分も職員も慣れたものだ。何を言うでもなくさざめの居場所を伝えられ、そこに竹中は迷いのない足取りで向かう。さざめがいたのは、孤児たちのたまり場となっている、テレビの置かれた部屋だった。ベルトを光らせた戦隊ヒーローが、丁度悪者を蹴り飛ばしている。
「さざめちゃん」
騒ぐ子供たちの後ろから竹中が遠慮がちに呼び掛けると、白髪の彼女はすぐに気付いて、まわりの邪魔をしないようそっと竹中の元へと立ち上がる。珍しいものに興味津々な女の子たちに気付かれて、竹中が群がられないようにとの気遣いだろう。情けなくもありがたい。
「今日はどうしたの?」
「特に用、というわけじゃないんだ。時間が空いたから君の様子を見に」
あの一件以来、最も変わった竹中の日常といえば、こうして定期的にさざめの居る孤児院を訪れるようになったことだろう。事件で失ったものも多いが、得たものも沢山ある。この小さな仲間との出会いもその一つだ。外見に似合わずとても聡明な彼女は、現状竹中にとって上手く話すことができる唯一の女性だった。
さざめの先導で向かったのは、孤児院の角に、樹木に隠されるように存在する小さな庭のテーブルだ。丁度、窓の方には枝が茂り死角になっている。おままごとなどにも使われるのだろう、机の上には、おもちゃの時計が一つ残されていた。
「見始めたばっかりだから、皆暫くは来ないと思う」
さざめが手に持った人形を椅子に座らせながら言う。風にゆれる木葉がざわざわと音を立て、遠くに聞こえる子供たちの歓声と混ざりあって響いていた。とても落ち着く場所だ。竹中は無意識にほっと息を吐く。
「元気にしてるみたいで良かった」
「うん、夏風邪とかひいてないし、水分も取ってる。竹中さんは?」
「少し寝不足なくらいかな。研究も一段落付いたし、不健康って程ではないよ」
竹中が首を振ると、さざめもまた合わせるように頷いた。冷えた麦茶の氷がカラリと音を立てる。暫しの沈黙の中、竹中が話題を探すように視線を逸らすと、彼女は「そういえば」と口を開いた。
「前貰った、あのおもちゃ。皆喜んでた」
「それなら良かった。古いものだから心配してたんだ」
「子供には、たぶんそういうの、関係ないよ」
そう言いながら、彼女は麦茶のグラスに手を付けた。あのおもちゃ、とは、前回竹中が孤児院に寄付した古い戦隊ものの変身グッズのことだ。竹中の父からの最後の贈り物。倉庫の中ですっかり埃を被っていたそれは、箱こそ色褪せていたが中身は新品同然に輝いていた。
「お父さんからの誕生日プレゼントだったんでしょ、本当に良かったの?」
「いいんだ、父さんから貰ったものは他にたくさんあるから」
竹中は目を伏せる。それは例えば、研究室の鍵や、無名神殿の資料。竹中の命を間接的に救ったそれらは、今も大切に置いている。おもちゃが大切でなかったという訳ではないが、結局一度も遊ばれていないものだ。ずっと仕舞いこまれるよりもずっと良いだろう。竹中がそう溢すと、さざめは「そっか」と小さく頷いた。
もう一度沈黙に落ち着いて、竹中は息を詰まらせる。何か話題は無いだろうか。アレクと会ったことや最近起こったこと、彼女に聞きたいことなど、他にも沢山話せる事は沢山あるはずなのに、どうにも止まってしまう。竹中が視線をさ迷わせていると、木漏れ日に照らされた少女の眼差しとぶつかった。彼女は幼い顔立ちに聡明そうな表情を湛えて、まっすぐと竹中を見つめていた。本当は何か伝えたいことがあるんじゃないのか、と聞かれているような気持ちになって、竹中は頬を掻く。
話題が見つからないのは、偏に、竹中に勇気がないだけだ。
「……君が良かったら、の話なんだ。もし君が断るなら、それでもいい」
「うん」
「だから、えっと……伝えたいのは、その」
言葉を探す竹中を、さざめはじっと静かに見据えている。
「僕のところに、養子に来ないかな」
竹中はそれを伝えたくてここに来たのだ。恐る恐る口に出した声は少し震えていた。ぱちり、と瞬きをするさざめの表情がどうにも読めなくて、竹中は強ばったままの顔を彼女に向ける。
「養子に、私が?」
「……うん、前から考えてたんだ。僕は君にとても恩があるし、何よりその……友人、だと思ってる。出来ることは、したいと思ったんだ」
竹中の頬を、ついと汗が垂れる。いやに体が熱かった。夏のせいだけではないだろう。
「もちろん、この孤児院に居ても君はある程度不自由なく暮らせると思うし、逆に僕は、研究職だから長く調査に行くこともある。不便をかけると思う。それでも、」
風をうけて木々が騒めく。竹中は唾を飲み込んで、改めてさざめに視線を合わせた。
「それでも、僕は......君と、上手く分かり合えるんじゃないかって、思うんだ」
そう言って、竹中は息を吐いた。
さざめは暫く黙ったままだった。迷惑だと思われただろうか。緊張と不安と、なんとも言えない恐れが竹中の心臓を揺らす。きっと断られる。しかし、じっと竹中を見つめるさざめは、ふと口を綻ばせて眉を下げた。
「うれしい」
彼女は頬を緩めていた。竹中が今まで見たことがない様相で相貌を崩し、一度、二度と頷いている。
「い、いいの?」
「うん。……これからよろしく、竹中さん」
お父さんって言った方がいい?とあっさり飲み込んで彼女は笑う。その反応に、却って慌てるのは竹中の方だった。
もっと理由は聞かなくていいのか、そんなにすぐに決めていいの。繰り返す質問にさざめは次々頷いていく。
「竹中さんは、もっと自信をもって良いよ。竹中さんが冗談でそんなこと言うなんて、思ってない。……それに、私も思うの」
さざめは手に取っていたコップを静かに置いた。
「私と竹中さんは、きっと一番分かり合える」
さざめが机の上の小さい時計のおもちゃを手に取る。彼女は時計の針を夜の23時半過ぎに合わせて、目を伏せた。
「あの事件で、お母さんを失った。ずっと止まった時に置き去りにされて、一人ぼっち。竹中さんと一緒だよ」
「……そうだね、一緒だ」
時計を受け取って竹中が微笑むと、さざめももう一度、顔を綻ばせた。
さざめは、会ったときと比べれば格段に笑うようになった。竹中には冗談なんかも言ってくれる。その理由の一端に、自分が関わっているなら、どれだけ嬉しいことだろうか。
自分よりもずっと、さざめが背負ったものは重いのだろうけど。それでも彼女と竹中は、確かに同じ傷を背負っているのだ。
「父さんに誇れるような、父親になれるかな」
「なれるよ、絶対」
さざめは言い切って立ち上がる。
「ずっと愛されて育っているもの」
そう言って、彼女はポケットから小さい封筒に包まれたメッセージカードを取り出すと、竹中に握らせた。
「お父さんから、お父さんにだよ」
家に帰って読んでね。さざめはそう言って人形を抱え、空になったコップをお盆に戻す。詳しい話は施設の人を交えて話さなければならないから、今日はここでお開きだ。傾き始めた日が橙の影を落とし、二人を明るく照らす。テレビの音と子供達の歓声はいつの間にか止んでいた。
「また今度、会おうね」
「うん、次会うときは、しっかり準備しておくよ」
お互いの笑顔が交差する。さざめには敵わないな、と竹中は内心苦笑した。次に会うまでに、彼女を迎え入れる用意をしなければならない。何が必要だろうか。何から始めようかという悩みは、どこか明るく胸を照らしていた。
家に帰り、竹中はポケットに入れたメッセージカードを取り出す。古びた紙で、少し角が汚れていた。表側には、ボールペンで大きく誰宛かが記されている。
『孝助へ』
竹中の見たことがある文字だった。譲られた研究室にあったものと同じもの、父の字だ。
『八歳のお誕生日おめでとう、直接祝うことが出来なくてすまないね。本当は直接渡したかったんだが、今回は郵便局に頼ることにした。次帰ったら、しっかり皆でお祝いしよう』
懐かしい文字が続いていく。すっかり忘れてしまっていた筈の父の声が次第に目で追う文章と同化して、彩られていく。
『前、このヒーロー番組が好きといっていたから、今回は変身セットだ。喜んでくれると嬉しい。彼女が出来たんだろう?強くなって、人を守れる人間になって欲しい。 父より』
──父からのメッセージは、そう締め括られていた。きっと、さざめに渡した玩具の中に紛れ込んでしまっていたのだろう。竹中には、これに目を通した覚えはなかった。
父が死んだと聞いて、すぐに送られてきたプレゼントだ。見ているとずっと辛い気持ちになって、一度も遊ぶことなく片隅に追いやっていた。それにこんなメッセージが入っているなんて、想像もしていなかった。
「ずっと、愛されて、育ってる」
さざめの言った言葉を反芻する。彼女はこのメッセージを読んだのだ。
あの日の父が望んだ姿とは、きっと今の竹中は離れているのだろう。しかし、父はこの門出を祝福してくれる筈だ。そう確信できるような言葉だった。
親と子の関係がどんなものなのか、それは人によって違うだろう。だが、竹中が目指したいと思う姿は、きっとひとつなのだと思う。
そう思うと、すぐに動きたい気持ちになって、竹中はスマートフォンに手を掛ける。さざめの居る孤児院の電話番号はもうしっかり覚えていた。通話ボタンを押すと、程なくして施設職員が出る。
「お世話になってます、竹中です。……はい、すみませんが、少しさざめちゃんと変わっていただけませんか」
受話器の音が、保留音楽に切り替わる。本当はもっと手続きをした後に話し合おうと思っていたが、すぐに言うのが誠意だろうと今は感じていた。竹中はさざめに力強く語る。
「次の十月十日に、アレクとイタリアに行く予定なんだ。さざめちゃんも、一緒に行こう」