保管所鯖落ち記念SS


 サーバーが落ちる。選ばれた人間の一側面を切り取った個人票が消えて行く。神の手の届かないところへと解放される。
 彼ら彼女らは選ばれた。彼ら彼女らは解放された。神の魔の手はもう届くことは無く、その人生は当人のもとに返される。
 それを解放されたと捉えるか、はたまた必要とされなくなったと捉えるかは本人次第。この先の未来は、当人次第のものである。


藍野秀太:「人の生死とは」
(特異なことに遭遇しようともどうにでも生還できる彼は、既に探索者と呼べるものではない)

通過シナリオ「蹂躙」「カタシロ」「孤独の桜」「ゆりかご列車」

 藍野秀太は死んだ。肉体的な話じゃない。それはあくまで世間に向けた発表の話であり、あくまでもかの悪名高い和国の研究所長が処刑されたという事実のみを拾った表し方だ。実際のところ、藍野秀太は健康なまま日々を気ままに過ごしている。全く知らない、文明の発達途中の世界の中で。
 では、藍野秀太は生きているのだろうか。ふとそんな疑問を覚えて、藍野は立ち止まった。藍野は人間として究極的な『自由』を手に入れていた。それは、自分の生きる世界、時代を自分で選択することが出来る上、また選択後に変えることが出来るというものだった。結局は生というものに縛られる不老不死なんかとは訳が違う。未来だろうが過去だろうが別世界だろうが、自分の思うがままに渡航することができる。藍野が手にいれたのはそういう類いの自由だった。
 この世界で最も自由な人間は誰か。そう問われたとき、藍野は迷わず自分であると答えるだろう。柵も無く、縛るものも無く。新しく自らを縛るものに出会っても逃亡は容易となれば、当然だ。
 しかし果たしてそれは、生きていると言えるのか。ぐるりと振り返ってみれば、何て事はない閑静な住宅街が広がっている。その住宅街の100年後を知りたいと思えば、藍野はそれができる。1000年前のこの場所ですら今すぐにでも確認できる。パラパラと歴史書を捲るように存在する時代を選べる生き物は、果たして生きていると言えるのか。連続性を奪われた命とは、脈打っているものなのか。
 藍野秀太は自由である。元の世界での所業も含め性格的にも自由であった彼は、人類の知恵を超越した奇跡を手にして完全な自由を手にいれた。
 藍野秀太は生きていない。元の世界で概念的に処刑され、別世界を渡り歩く彼は居場所をなくし、人間性を失った。
 しかし彼は今日もそこに立っている。全ては、彼が自由ゆえに。



都留 希心:「自由という名の自然」
(彼女は探索者という鎖から解き放たれた)

通過シナリオ「後ろ髪引かれ」「ナガリュスの神実」

 平和とは素晴らしいものだ。太陽の光を遮るビル群に視線を遣りながら、希心は遠い故郷を想った。道路に照り返す光はじりじりと熱く、遠くに湯気が立ち上っているようにすら感じる。この場所は平和とは言えないだろう。
 都留希心にとっての平和というのは、故郷の風景そのままだった。ゆったりと鳴く動物たちに、風を受けてそよぐ植物。それに、雲の切れ目から覗く太陽。自然の中で暮らしていた彼女にとって、平和とは乃ち日常であり、自然との共存の毎日だった。だからここは平和とは言えない。学業のため上京してからも動植物と触れ合って来たが、希心は故郷とはまるで違うように感じていた。気温や湿度の関係ではない。もっと根本的で、人工的な違和感。果たしてその正体は何なのか、希心には分からなかった。かの美容院で、危険を身に感じるまでは。
 そうして、彼女は1つの結論にたどり着いた。長らく感じていたじっとりとした不快感は、人間によるものなのだと。
 ああ確かに、故郷とは人の数が違う。多種多様、十人十色な数々の人間が集まり、交わり、関わっている。そうして彼らの間に生まれる様々なものが、すべての人間を雁字搦めに縛ってしまう。そうして生まれる不和が、ピリついた線引きが、風景にも空気にも、動物たちにまで影響を及ぼす。そこに長閑さは存在しない。人間は皆行き急いでいるのだ。
 世界は平和が1番である。実家を継ぐために来た都会で生き急ぐというのも変な話で、学業を終え必要なことを終えた希心はそうして平和へと帰っていった。長閑で、静かな田舎の元へ。
 ──今でも、不思議に思う。田舎に帰り、もう東京に行くことは無いだろうとふと考えたそのときに、なにかひとつ、糸が切れたような音を聞いたのだ。その音は縁か、友情か。希心には預かり知らぬことである。彼女は、平和のもとに帰っていったのだから。



八木恭平:「子供という役割からの解放」
(成長した子役に価値はない)

通過シナリオ「とある幸せな家族の話」「Calling」「アパート」

 八木恭平は大人になった。恭平は自室でぼんやりとそう思った。年齢的にもそうだが、内面的なものが大きいように感じる。大人に敬語を使うようになった。妹の些細な悪戯に一々目くじらを立てなくなった。親に反抗することをやめ、暴力に訴えようと思わなくなった。誰もがきっと、この変化を思春期の終わりと言うだろう。それをもって恭平が大人になったと言うのなら、頷くしかない。だが、恭平が感じている感覚は、それとは一線を画したものなのである。
 言語化出来ないのがもどかしい。大人になったという奇妙な実感は日常生活に張り付いていて、どこかぷつりと糸が切れたような違和感を伴っているのだ。それは自由を手に入れたようにも思えたし、何かに必要とされなくなった変な寂しさも孕んでいた。
 そうして考えてみると、逆の感覚を覚えたことがあったような気がする。ふと考えた恭平は脳に電気が走ったような感覚を覚えた。その既視感とは、家族で巻き込まれたあの事件に始まるものに他ならない。
 また、奇妙なものに邂逅しようとしているのか。しかし、感覚はまったくその逆だった。もう会わないだろうという確信。引っ越していく友達を見送った時のものに似ているような、そんな実感。不思議と怖いとは思わなかった。
 恭平が大人になったと思えるのは、そんな不可思議なものが根拠だった。でも、恐らくなにも間違ってはいないだろうと思う。八木恭平は大人になった。そして、八木恭平は何かから解放された。恭平は、思春期というほんの一時が必要とされていたに過ぎないのだ。ほんのりとした解放感は、未来を明るく照らしている。