あおいろ(薄明)

 カラリと晴れる昼下がり、長い夢から覚めたかのように、俺は意識を取り戻した。いや、意識を取り戻したという表現は正しくないだろう。鷹取は失ったのだ。自分が大怪我してから、その瞬間までの記憶を。

「一度記憶喪失になった方が、もとの記憶を取り戻したとき、その間の事を忘れてしまう、というのは、よくある症例です」 

 俺の様子がおかしいと聞いて呼びつけられた医者は、いやに確信的な様子でそう言った。記憶喪失。頭を押さえてそう問い返せば、間違いありません、と返される。

「何か、切っ掛けとなることがあったのでしょう。覚えはありませんか」
「あるとしたら、何秘に関する事だろう」

 混乱したままの俺を労るように、横に控えていた斎藤がそう口を開く。彼自身も少し眉を下げて、目を伏せていた。

「手紙を見たか?」
「……うん」

 『鷹取累殿へ』と題された手紙は、俺が気が付いたとき、すぐ目の前に置いてあった。目の前で置かれたら分かるだろうと思える位置だった。
 それへ近付いた記憶が無いから、俺が記憶喪失から戻ったのは、その手紙が原因だろうと当たりを付けていた。

「ーーこれから、会うこともないでしょう」

 数回読んだきりでも覚えてしまった文章だ。俺がその一文だけを諳じると、心臓がツキリと痛んだ。

「もう、俺に会う気は無いみたいだ。あの時、死んだと思って……でも、折角昨日まで、生きてたっていうのに。俺は会えなかったよ」

 息を吸う。どこも傷んでいないのに、気を抜くと、震えが広がってしまいそうだ。

「なんであいつが、律がいる間に、記憶を取り戻せなかったのかなぁ」

 積もるのは、どうしようもない後悔ばかりだ。なんで、どうして。目覚めてから、ずっと俺はそればかりだった。
 ちらりと斎藤を見やる。彼も苦しげだ、と思ったのは、付き合いの長さゆえだろう。表情は殆ど変わっていないけれど、指先に少し力を込めていた。

「……昨日から様子がおかしいとは思っていた」
「うん」
「まるで別れの言葉だと、そう思ったことも否定しない。だが、」

 斎藤はまっすぐ鷹取を見据えた。

「あいつは、お前に不義理を働くような男じゃない。お前に出来ることはしただろう」
「……会えなかったのは、不運じゃないって?」
「それが妥当な考えだろう」

 妥当。鷹取は、気付くと長く、長く息を吐いていた。そう、妥当だろう。目を閉じれば、鮮明に写し出される幼なじみの姿がある。

 最後に見た姿は、自分を庇う姿で。死んでしまったと確信できるほど、酷い怪我を負っていた。ついこの間まで生きていたのなら、何か、超自然的な何かがーー人の手の及ばない現象が、彼を生かしたことには疑いがない。
 もしかしたら、その現象は、丁度の瞬間に記憶を取り戻した自分にも関わっているのかも。……ならば、会えなかった理由も、そこにあるのだろう。会えるなら会いたかったのは、律も同じだろうから。
 半ば妄想じみた考えだが、そう考えるとストンと胸に落ちる。もうどうやっても会えない、それが一つの真実なのだ。

 そうでなければ、こうもはっきりと、幼なじみは書かないだろうし。

「お前にそう言ったのなら、もう何秘が見付かることは無いだろうな」
「うん。……狡いなあ。一方的に俺にだけ言葉を伝えて。俺だって、言いたいことはあったのにな」

 ごめん、とか。俺を助けてくれてありがとう、とか。何勝手に居なくなってるんだ、とか。数え上げればキリがないそれを、鷹取は胸に仕舞う他ない。……本当に、狡い。酷い奴だ。
    
「なあ、ハジメ(・・・)さん」
「何だ?」
「俺さ、頑張って生きるよ」

 当然のことかもしれないけど。こぼれ落ちた言葉に触れぬまま、鷹取はそっと胸を押さえる。
 先が明るいとは言えない。俺が失った四年の間に、旧知の仲間達はずいぶん減ってしまった。それでもここは、自分の選んだ道の果てだ。もう取り返せないものを求めても仕方がない。
 ならば、俺に命を託した友に恥じぬ生き方をするべきだ。彼の言葉を胸に、生きていかなければならない。
 生きて、幸せに。

 診断を終えた医者を見送れば、開け放たれた障子から、青い青い空が見えた。雲一つなく澄みきって、遠く高く続いている。
 
 彼は、まだこの空の下に居るだろうか。