当たり前に感謝を
友達、恋人、家族。
大切な人と過ごせる時間の価値を、どれだけの人間が心から理解しているだろう。
大事な人が側にいるのを当たり前だと思うのは、恵まれた環境にいると気付けていない傲慢な考えだ。
この世に『絶対』は存在しない。
理由は何であれ、別離の日は必ず来る。
だからこそ、もっと共に過ごせる一分一秒を大切にするべきなのだ。心が舞い上がる喜びを分かち合えるのも、時には対立してお互いを傷付けてしまうのも、全て一人では出来ない事なのだから。
* * *
時計の針が刻む音を黙らせるように、ディーンは喉を鳴らしてビールを飲んでいた。好みのメーカーではなかったが、冷えた炭酸は値段を問わない爽快感がある。
安物のビールでも気持ち良く酔えそうな予感に、自然と飲む速度も勢いを増す。
大胆に晒した喉元には、飲み溢しのビールが細い線となって伝う。それすら無視して飲み進め、半分より少なくなった所で瓶から唇を離した。
「っは、最っ高! やっぱり一日を締め括るにはビールが一番だな。ほら、キャスも一緒に飲もうぜ」
翡翠の瞳を愛嬌たっぷりに輝かせたディーンは、壁際に立っていたカスティエルを手招きする。しかし天使は首を傾けるだけで、一向に動く気配がない。
声が届いているのか疑いたくなるが、ディーンの動向を探る眼差しは峻厳だった。
晩酌の誘いは、天使の興味を引くには至らなかったらしい。カスティエルが知りたがっているのは、呼び出された理由だろう。
ディーンが飲みかけのビールを消化している間も、物言いたげな視線は固定されたままだ。
「私に何か用があったのでは?」
設備不十分で暖房の効きにくい部屋に、カスティエルの冷静な声が切り込む。
抑揚のない機械的な響きだったが、会話をする意思はあるらしい。
堅物な天使の疑問に答える為に、新しく開けたビールに片手に足を伸ばす。
悲鳴を上げる老人の床とは裏腹に、ディーンは穏やかな表情を保ったままだった。
「あるぞ。大事な用だ」
「それは一体何だ? この場にサムがいない事と関係があるのか?」
何時もならパーソナルスペースと注意する寸前の距離まで近付き、晴れやかな心が囁くままに白い歯を見せて笑う。上機嫌にビールを差し出すディーンだが、ポケットから天使の手が現れる事はなかった。
「サムは飯を買いに行ってるだけで、すぐ戻って来る。それより、ちょっと付き合わねぇか? 飲みながら話そうぜ」
「飲みながら……。つまり、緊急を要する呼び出しではないのだな?」
「まぁ、そうなるな。でも、俺にとっては大事だ。だから、どうしてもキャスに来て欲しかった」
真面目な天使は怒るだろうか。
大事な用だと告げて呼んだ理由が、ただ会いたかっただけだなんて。
握ったビールの冷たさが指先から温度を奪い、一人で盛り上がっていたディーンの頭を冷やした。更に不思議な現象にも見舞われ、何も持っていない方の手に汗を掻いている。
「成る程……どうやら、私の取り越し苦労だったようだな。杞憂に終わるなら、それでいい」
「キャス?」
「君達兄弟に何かあったのかと心配になったが、違うようで安心した。飲むのだろう? 私で良ければ喜んで付き合おう」
コートのポケットに隠れていた手が漸く姿を現し、結露の浮かぶビール瓶を掴む。
カスティエルの口調に少しだけ生まれた抑揚と、テーブルに誘導するように背中に添えられた手が、ディーンの肩の荷を取り払ってくれた。
「サムが帰って来たらマシな食い物があるだろうから、今はこれで勘弁してくれ。このポテトチップスは俺のオススメだ」
「この菓子袋……見覚えがある。確か一週間前にも食べていたな。サムに食べ過ぎを注意され、口喧嘩になっていた」
「そうだったか? よく覚えてんなキャスは……っと。お〜、袋を開けた瞬間の匂いって最高だな。食べる前から旨いって解る」
興味深そうに様子を見守るカスティエルの前で、掴んだポテトチップスを口の中に放り込む。この小気味いい食感が、病み付きになる要素の一つだ。
一度食べると歯止めが効かなくなり、手の伸びる回数も増える。
ディーンの嬉しそうな顔を見れば、味がいいのは語らずとも解る事だ。撒き散らされる幸せオーラに感化されたのか、カスティエルの手が控えめにポテトチップスを摘まんでいった。
「確かに、これは美味しい。ディーンが好むのも納得出来る」
「だろ? 食い過ぎだってサムは言うけど、旨いんだから仕方ねぇよな」
「だが、やはり過剰な摂取は体に良くない。サムもディーンを心配しているから、口煩く言ってしまうのだろう」
味方に引き込めるかと思ったが、やはり本質は職務に忠実な天使様だ。カスティエルの根である真面目さは、本人が自覚しているより深くて強い。そしてディーンも、口煩いのはサムだけではないのを忘れていた。
「そうだな。じゃあ今度からは、出来るだけ二袋で止めるように気を付ける」
説教は御免だと腹を立てる瞬間ではあったが、心配をしてくれるのはディーンの身を案じての事。素直に受け止めると、カスティエルはゆっくりと頷いた。
他愛ない内容でもしっかりと耳を傾け、真っ直ぐに目を見て話を聞いてくれる。その行動がどれだけディーンに力を与えてきたか、カスティエルは気付いていない。
「それで、私を呼んだ理由を聞いても?」
「ん? あー……その、伝えたい事があってさ。改まって言うような内容じゃないんだが」
「構わない。聞かせてくれ」
口に入れていたポテトチップスを飲み込み、ディーンは汚れていない左手で後頭部を掻いた。これから話す内容は、酔った時にも滅多に言わない。素面で、しかも脈絡なく告げるなんて、初めての試みである。
カスティエルの戸惑う姿が容易に想像出来たが、此処で退いては男らしくない。
ディーンの腹の底では、気恥ずかしさがグツグツと煮込まれていた。完成したのは濃厚な感謝で、隠し味の照れがアクセントになっている。凝縮した言葉を声に注ぎ、ディーンはカスティエルへと打ち明けた。
「ありがとな、キャス。いつも俺とサムを助けてくれて。俺を見捨てないでくれてるのも、本当に感謝してる」
熱湯の風呂にでも浸かったのかと錯覚する程に、全身が燃えるように熱い。
思わず目を逸らしてしまったが、発言に後悔はなかった。寧ろ、達成感が大半を占めている。
「私はディーンに感謝されるような事をした覚えがない。助けたと言うが、それは間違いだ。いつも助けられているのは、私なのだから」
テーブルの上で手を組んだカスティエルは、何処となく申し訳なさそうに口を閉ざす。都合が悪くなると視線を外すのは、まるで人間の子供と同じだ。
「何も違わない。サムと喧嘩した時も一人が嫌な夜も、お前を思い出すだけで心が軽くなる。一人じゃないって、安心出来るんだ」
天使の強張った様子から伝わる緊張に、ディーンは笑って手を重ねる。こんな風に素直になれるのは、弱い所を全て晒してきたカスティエルが相手だからだろう。
「理由が無くても、キャスは俺と一緒にいてくれるだろ。それこそ、当たり前みたいに。今日だってそうだ。用件は言ってないのに、キャスは来てくれた」
側にいる理由があるのに、ディーンは幾度となく家族と離れ離れになった。一番一緒にいて欲しかった時も、寂しさに押し潰されそうな時も、一人で耐えてきたのだ。
けれども今は、カスティエルが側にいてくれる。
それがどれだけ、嬉しいか。
「ディーン、泣いているのか?」
「まさか。こんな事で、泣くかよ」
目頭が、熱い。
視界がぼやける。
カスティエルの声が遠い。
頬に触れる温もりに、目眩がしそうだ。
「ありがとな。側にいてくれて」
天使が慌てているのが可笑しくて、ディーンは声を上げて笑う。その際に丸い粒が両目から零れ、余計にカスティエル慌てさせる事となってしまった。
END
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