学問の山奥にひそむ人影



 私のクラスには、というより私の学校には、それはそれは有名な人がいた。人、と言っていいのかさえ定かではないけれど、恐らく人であり、学校にいるからには恐らく生徒であり、私の予想でしかないけれど、きっとその人は私たちと同じくらいの年齢である。と、思う。
 なぜ、こんなにも曖昧なのかは私にもわからない。というのも、先生たちも詳しいことは知らないのだ。ただいつからか、この教室内に一年中置かれたままの机があり、その机は誰も使おうとせず、ある種の不気味さを演出するに至っていた。その不気味な机の持ち主が、その有名な人だった。
 有名な人と言っても、誰が言いはじめたのかもわからない、それも不思議な噂話なのだけれど、謎の机が実在するおかげで妙な信憑性があった。名前さえも知られていないその人は、悩み解決屋なるものを営んでいる。らしい。
 どこで一体どんな方法で悩みを解決してくれるかも何もわからないけれど、どうやらその人は実在して、実際に解決してもらった人もいると噂では聞いた。それすらも噂でしかないのだけれど、私はもうそれを信じるしか他に方法はなかった。
「とは言ったものの、やっぱり噂は噂……なのかな」
 放課後、誰もいない教室でぽつりとつぶやく私のなんと惨めなことか。うらめしく謎の机を睨んでも、ほんの少しだけ古くなったその机は、こうして誰もいない放課後では大してその不気味さを発揮してはいない。ただの古びた学生机だった。
「でももう、悩んでもいられない。もうすぐ日も落ちるし、どうにかしなきゃ」
 噂では、放課後の教室で会えるらしいみたいな話も聞いたからいるのだけれど、そんな兆候は一切見られない。ただ待っているだけではだめなのかもしれない。思い切って、謎の机に触れてみる。そこはまるで、人がさっきまで触れていたかのように暖かかった。
「って、ええええええええ!!」
 机の表面に触れていただけだった手が、急に何かに吸い寄せられるように机の中に移動した。腕全体が机の中に入ってしまっても、その謎の吸引力は止まらなかった。というか、物理的におかしい。私は腕を曲げていないのに、腕全体が机の中に果たして入るだろうか。
 さあっと全身から血の気が引いたけれど、吸い込む力は変わらない。むしろ、全力で踏み留まろうとしている私に焦れているかのように、力が増す。もう無理、と思った瞬間に私は机の中に吸い込まれていった。

 ふわふわと漂う意識の中、私は後悔していた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。こんなことになるくらいなら、自分でもっとどうにかしようと努力をすればよかった。努力しないでどうにかしてもらおうとするから、こんなことになってしまった。自分が自分で情けない。
 こんな思いを残したままでは、成仏なんてできない。と思ったところで、ひんやりとした床の感触を体で感じた。私の都合のいい錯覚でなければ、この床の感触は教室。まさか夢だったのだろうかと重い瞼を上げた。
「おはよう」
「っっっ!!!!」
 驚きのあまりひゅっと締まった喉のおかげで、悲鳴は声にならなかった。ほとんど反射的に体を起こして全力で後ずさる。頭を机の角でぶつけて、今度はふぎゃっとみっともない声が出た。
「驚きすぎじゃない? 僕に会いに来たんでしょ?」
 しゃがんだまま呆れたように言われる。会いに来たということは、もしかしなくてもこの人があの噂の。
「あなたが、悩み解決屋さんですか?」
「まあね。そう呼ばれてるみたいだけど、正直ださいよね」
 ライムグリーンの帽子のつばを指先でつまみながら、口角を上げるその人は、なんというか、ものすごく学校とミスマッチな服装をしていた。私の予想通り、彼は私たちと同年代らしく、古風な学ランを着ていたけれど、その上から派手なパッションピンクのパーカーを着ており、フードを帽子の上から被っていた。帽子とパーカーの色合いがとても視覚的暴力だけれど、なぜだか妙にその服装が似合っている。そして何より、帽子や長い前髪で隠れてはいるものの、その顔はひどく整っていた。
 じろじろと不躾な視線に対し、彼は不快感を示すどころか愉快そうに口を歪める。せっかく端整な顔立ちだというのに、とても醜悪な笑い方だと思う。もっと素直に笑えばいいのに。
「君はなんだか面白いものを連れてるみたいだね。暇つぶしには丁度いいよ」
「え? あっ、それで……あなたの名前は?」
 ようやく立ち上がりながら聞くと、彼は例の謎の机に腰掛けて足を組みまた笑う。笑い方はどうであれ、とてもよく笑う人だ。
「ふぅん、名前を聞くんだ。普通、そんなことより悩み相談じゃない? こんなところに来るくらいだから、藁にも縋る思いだったんでしょ?」
「そうですけど、最低限の礼節は尽くしたいですから」
「その考えは立派だと思うけど、それならまず自分が名乗らなきゃね」
 ケタケタという効果音がぴったりな笑い方とともに、ウインクをされた。言われたことはもっともなのに、どうも素直に言葉を受け取れないような、そんな軽薄さが彼にはある。と、会って数分しか経っていない私が思うのだから、彼に友人がいるかはわからないけれど、そんな人がいようものなら、とても大変に違いない。
「私は藤里ハンナです。あなたは?」
「ハンナ……『神に愛される』か。面白いね」
 おもむろに、彼は机の上に立った。言うまでもなく、あの謎の机だ。
「僕は神だよ。君を愛するかはわからないけど、少なくとも、今の状況からは救ってあげよう。まあ、タダではないけどね」
「か、神?」
「うん、そう。よろしくね」
 まるで舞台俳優さながらに大仰な仕草で名乗ったかと思えば、神だと言う彼に、私はひどく困惑した。言われたことを額面通りに受け取ってしまう悪癖があり、しばしば友人に騙されないように気をつけなさいと言われている私でさえ、さすがにこれは信じることはできない。
 机の上でしゃがんでにこにこと笑っている彼は、確かにそんな派手な格好をしていながらも、どことなく浮き世離れしていたけれど、だからと言って神だと言われて簡単に信じるほど、人間離れはしていなかった。
「すみません、私、冗談は嫌いです。特に今は」
「奇遇だね、僕も冗談は嫌いだよ。愉快な冗談なら好きだけどね」
「あなたが神様ってこと、信じろって言うんですか」
「君が信じるも信じないも、僕が神ってことには変わりないからね。ていうか、様付けやめてくれる?」
「……少し、考えさせてください。また、明日来ます」
 頭を下げて足早に教室を出た。半ば逃げるようにして去ったのに、自称神は声を上げることもなく私を見送るばかりだった。引き留めないということは、やっぱり神ではないのだろうか。

 ふと、歩きながら家に帰ることを思い出し憂鬱になる。あの人の言う通り、正直藁にも縋る思いだったのに、なんてことだ。何も解決していない。段々と後悔がせり上がってくる。あの人は私を救ってくれると言っていたじゃないか。それならば、自称神でもよかったんじゃないか。いやでも彼は、タダではないとも言っていた。救ってくれたとしても、莫大な金額を要求されたりしたら、高校生の身である私にはとてもじゃないが払えない。ある程度なら私だって払う気ではいるけれど。
 そんなことを悶々と考えながら帰路を辿っていると、人が歩いているのにも関わらず、減速せず車が横切った。危ないなと思うより前に、驚きで言葉を失った。今の車、人が乗っていなかった、ように見えた。
 ひやりと背中に冷たいものが走るのを感じながら、それとなく急いで歩いていると、さらに気持ちが焦ってしまう。さっきから誰ひとり人を見かけないせいだ。なんで、さっきまでは普通に、いや、よく考えてみれば、さっきは考え事をしていて気がつかなかったけれど、学校を出てから、もっと言えばあの人と別れてから、ずっと人を見ていない。
 自然と歩くスピードが早くなっていく。なんで誰もいないの。怖い、怖い、怖い! 情けなくなるほど震えながら、気がつけば走っていた。一刻も早く、誰かに会いたかった。
 家に着くなり鍵を乱暴に開けて、家に入る。この時間には必ずお母さんがキッチンで夕飯を作っているはずだし、玄関に靴もあった。明かりの漏れるリビングにほっとしながらドアを開ける。
「お母さん、ただいま」
 いつもなら帰ってくる返事が、今日はなかった。けれど、夕飯を作っているらしい物音は聞こえてくる。たまたま、私の声が聞こえなかったのかもしれない。返事をする暇がなかったのかもしれない。
 走ってきたせいか、それともそれ以外の理由でか、心臓はドクドクと脈打ち、呼吸は浅く短く繰り返される。そろりと無意識に足音を忍ばせ、キッチンを覗く。頭をコンクリートで殴られたようだった。繰り返されていた呼吸は数秒止まり、その間心臓さえも止まった気さえした。

 それからのことは当の本人である私でさえ、あまりよく覚えていない。ただ、一刻も早くあの異常な空間から抜け出したかった。誰かに会いたかった。そう思った私が向かうところなんて、残念ながらひとつしかない。
 出たときはまだ明るかったのに、もう今は濃いオレンジに染まりきっている教室のドアを勢いよく開けた。
「おかえり。どうだった? ひとりぼっちの家は」
 最後に見たときと寸分違わぬ笑顔でそう言われたときは、さすがにカッときたけれど、それより何より人に会えた嬉しさのほうが勝って、腰が抜けた。私が呆けた顔で床にへたり込んだのがそんなにおかしかったのか、彼は驚いた顔で机から腰を上げた。
「……ごめん」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。さっきの彼の弾むような声とは全く違って、同一人物なのかさえ疑いたくなった。だって、あんなにも笑っていた顔は今はなんの表情も読みとれない。
 目の前に膝を着いた彼が、パーカーの袖で私の顔を乱雑に拭ってはじめて、自分が泣いていたのだと気づいた。
「あ、ぅ……っえと……」
「いいよ、何も言わなくて。わかるから。……怖かったんだよね、ごめん」
「……っ」
 言いたいこと聞きたいことは山ほどあるのに、なかなかうまく言葉になってくれなくて困る。ぐちゃぐちゃで纏まらない思考の末、私は考えるのを放棄して、ただ一心に私の涙を止めようとする彼の顔を見ていた。綺麗だなぁとか、そんなありふれた感想を抱きつつも、なんとなく、このひとに触れたいなと思った。

 私が落ち着いたころ、彼はようやく私から離れた。私が泣き出した最初よりも声は沈んでいなかったけれど、無駄にありあまるほど弾んでいた声は常人程度に収まっていた。そうすると、なかなか耳に心地いい声だとわかったのだけれど、なぜかそんなことを考えていたら軽く睨まれた。笑顔は完全にどこかへ行ってしまったようだ。
「……どういうことか説明してくれますか」
「そうしたいのは山々なんだけど、時間も時間だしね。また明日にしよう」
「明日も何も、私……」
 あの家には、絶対に帰りたくない。言外に込めた意味は正確に彼に伝わったらしく、「それなら大丈夫」と言い切る。
「やっぱり、これはあなたの仕業なんですか? あなたは神様なんですか?」
「それについても明日だ。ちょっと複雑な事情でね。君に今伝えることはこの3つだけだ。ひとつは、君をつらい目に遭わせたお詫びに悩みを解決させる代金はいらない。もうひとつは、今日のところはこの僕の帽子を預けるから、それで悪夢は見ないと思うよ」
 言いながらライムグリーンの帽子を脱ぎ、私の頭に被せる。あまりの趣味の悪さに感心していたけれど、それよりも帽子を脱ぐためにフードまで脱いだ彼のほうが興味を引かれた。帽子やパーカーを脱ぐと、さらに浮き世離れした彼特有の雰囲気が増した気がする。
「そして最後のひとつ、ここへ来る方法はもうわかったよね? 目眩が止まれば、もう元の世界だから。気をつけて帰ってね」
 今までとは全く違う柔らかな微笑みを浮かべて、彼の手が私の頬を撫でる。その瞬間、私の意識は途絶えた。

 気がつくと、私は教室の床に寝ころんでいた。なんの変わり映えのない教室に、すべて夢だったんじゃないかという思いが頭をもたげる。体を起こすと、ずるりと頭から何かが落ちた。あの趣味の悪い帽子だ。
「夢じゃ……ないんだ」
 周りを見回すまでもなく、あの自称神の人はいない。それどころか、若干周りの空気さえ淀んでいるような。気のせいなのかもしれないけれど。
 帰れと彼は言った。元の世界とも言った。思い返せば、私はあの謎の机の中に吸い込まれたのだった。もし、あの出来事がさっきまでいた世界の中だけの出来事だったとしたら。そこまで思い至った瞬間、体は勝手に走り出していた。

「お母さん!!」
 勢いをつけたまま玄関のドアを開け靴を脱ぎ散らかして、リビングのドアを開け放つと、お母さんが心底驚いたような顔をしてキッチンから顔を出した。それは、ついさっき見たくても見られなかった顔で。
「あらあら、どうしたの? 学校で何かあったの?」
 慌てたように駆け寄ってくるお母さんに心配はかけられない。そう思いつつも、止まったはずの涙がまた溢れてきて言葉にならない。よかった。よかった。帰って来られたんだ、私。

 あのあと、涙は止まったもののお母さんになぜ泣いていたかの説明はできずに言葉を濁して終わった。説明してもよかったけれど、きっと信じてはもらえなかっただろうし、何より私自身がもうあの光景を忘れたかったというのが一番だった。ずっと暮らしていた家なのに、人が住んでいる痕跡もあるのに、いっさい人の気配の感じられない空虚な家。まるで、廃墟にでもいるような。思い出して身震いする。
 未だに恐ろしくて思い出すと泣きたくなるけれど、お母さんと話をして、一緒に食事をして、お湯に浸かって、ようやく落ち着くことができた。事情を知らないお母さんでさえ私の異変に気づき、できるだけそばにいてくれた。けれどさすがにこの年になってお母さんと一緒に寝るのは恥ずかしくて、意を決して自分の部屋に入った。さっきまで誰もいなかったのにも関わらず、それでも私の部屋は人の気配に溢れている。それが当たり前なのだ、一体ここで何年過ごしてると思っているのか。
 特に躊躇もせずにベッドに横たわる。ああ、落ち着く。やっぱり自分の部屋が一番だ。あんな目に遭ったせいか、今日はひどく疲れている。はやく寝たい。いっそこのまま寝てしまいたい気もしたけれど、そうすると明日の目覚めは最悪なこと間違いなしだと、残念ながら言い切れてしまう。重い体を起こし、あらかじめ近くに置いてあった帽子を手に取った。あの趣味の悪い帽子だ。
 彼が神様だとは、未だに信じられない。けれどあの出来事からして、私を救ってくれると言っていたのはあながち嘘ではないかもしれないとも思う。正直、怪しいことこの上ないけれど、代金はいらないと言っていたし、あれだけのことをされたのだ。少しくらい怪しくたって頼らない手はない。それに、この帽子があればあの夢は見ないとも言っていたから、効果があるかどうか一晩試してからでも遅くはない。
 帽子を一旦被ってみたものの、このままでは寝るに寝れないと悩んで、結局頭のすぐ横に置いて寝た。被って寝ろとは言われてないし、多分大丈夫だろう。昨日までは、眠るのがあんなにも恐ろしかったのに、今はそこまで恐ろしくはなかった。きっとそれは、あれ以上の怖さを知ったせいだ。
 そういえば、私はいつ彼に悪夢を見ると教えたのだろう。意識の底に沈む寸前でそんな疑問が浮かんだけれど、不思議なくらい穏やかな睡魔とあたたかで懐かしい香りに誘われて、私は眠りについた。その日、悪夢を見ることはなかった。


 放課後、教室に誰もいなくなったのを見計らって、あの謎の机に近づいた。本当は一刻も早くあの人に会いたかったけれど、朝や昼間に机に触れても昨日みたいに吸い込まれるなんてことはなく、昨日のことはやっぱり夢だったんじゃないかと思ってしまいそうなほど、ただの古びた机だった。そこまで驚きはなかった。何か確証があったわけではないけれど、なんとなく、彼には放課後しか会えない気がした。もちろん、例の噂のこともあったけれど。
 なんとなしに触れてみただけの昨日とは違い、ゆっくりと慎重に触れてみる。そこからは、昨日と同じ展開だった。どう考えても物理的に無理な机の中に吸い込まれてブラックアウト。触れた机の表面はやっぱり人肌にあたたかくて、今思えばあれは、あの人の温もりだったのかもしれない。

 ひやりとした冷たさにはっとして体を起こすと、さっきまでと変わらない教室。けれど、絶対的にさっきまでと違うのは、机の上に行儀悪く腰掛けた自称神の彼がいるということ。
「やあ、こんにちは」
 パッションピンクのフードだけを被った彼が、ニタリと口の端を上げて笑っている。声や表情からして昨日のように気分が沈んではいなかったようだけれど、どちらかというと昨日の彼のほうが好きだったから少しだけ残念だ。気分が沈んでいるときのほうが好ましいと言うのも、なんだか変な話だけれど。
「こんにちは……と言うより、こんばんは、ですかね」
「まあ、そんなことはどうだっていいよ。それより早く返してくれないかな、帽子」
「あ、はい」
 制服についた埃を払いながら立ち、持っていた鞄からあのライムグリーンの帽子を取り出して渡す。差し出した帽子をひったくるように私の手から奪い取って、素早く帽子とフードを被り直すその動作に迷いはなく、とても手慣れていた。というか、お礼を言う隙さえなかった。
「ええと、その……ありがとうございました」
「いいよ。これが僕の仕事だし、お礼を言われるほどのこともしてない。……タダ働きはイヤだけど」
 少しばかり拗ねたように口を尖らせている彼を見て、そういえばと、昨日言われたことを思い出す。お詫びと称して今回の代金はいらないと言っていたっけ。確かに昨日のことはつらかったけれど、私があそこまで取り乱すことを彼は予想していなかったみたいだし、それに、今日私がこんなにも気持ちよく1日を過ごせたのは、彼のおかげだ。
「あの、やっぱり私、代金払います」
「は?」
「昨日、悪夢を見なかったのって、その帽子を貸してくれたからなんですよね? だったらやっぱり、ちゃんとお礼はしたいですし、昨日のことだってわざとではなかったんでしょう?」
 少しの間、何を言われているのか理解できないという顔をしていたけれど、すぐにケタケタとお腹を抱えて笑い出した。じたばたと机の上で暴れるせいで、机が不安定にガタガタ揺れて危なっかしい。
「ははは……あーおかしい」
「何もおかしくないと思いますけど」
「いいや、おかしいね。君は僕を昨日の今日で信用しちゃってるんだから、笑わずにはいられないよ。昨日のことがわざとじゃない? そんなわけないでしょ。わざとじゃなきゃ、誰がタダ働きなんかするのさ」
 あーあ、おっかしい。未だに笑いを堪えながらそう言うせいで、間違ったことは言っていないはずなのに妙に恥ずかしくなってくる。でも、と言うことはやっぱり昨日のあれは彼がやったことなのだろうか。
「じゃあ帽子のお礼です」
「一晩借しただけなのに? 悪夢より恐ろしいことをされたのに?」
「だったらなんだって言うんですか」
 言われていることはもっともで、反論の余地はない。昨日のことがわざとでもそうでなくても、お礼をしたいと思う気持ちに嘘偽りはなく、むしろわざとなのだとしたら、やっぱり神様なのかもしれないとさえ思う。それはやっぱり私が彼を、もう信じてしまっているということになるのだろうか。正直に言うと、彼があまりにあんまりな態度だから半ば意地になっていた。
「あのさ、善意の押し売りは悪意にも勝るんだよ」
「ですけど、」
「今回のは僕の自業自得だから。昨日のあれはわざとだったけど、僕の意図したところとは違ったからね」
 それに、と続けた彼の顔は確かに笑っていたけれど、赤みがかった瞳の奥は笑っていなかった。
「君みたいなの、僕はあんまり好きじゃないしね」

 私みたいなのが好きじゃないとは、一体どういう意味なのか。足を機械的に動かしながら、ついさっき言われた言葉を繰り返し繰り返し思い返していた。それはつまり、私のことが嫌いだということだろうか。そうだとしたら、どういう反応を返すのが正解だったのだろう。
 好きじゃないと真正面から言われた私は、あんまり深く考えずに「そうですか」と返してしまった。けれど今さらながら、あんな適当に返事をしていいものだったのだろうかと不安が湧いてくる。しかしだからと言って、あの場で何を言えばよかったのかも、私にはわからない。
 あれから、彼はひとまず私の部屋を見に行きたいと言ったので、家へ向かって歩いている。その間、道中には誰もいない。昨日のあの時のように。もしかすると、家にいるはずの母もいないかもしれない。
「ここ、かな。君の家は」
「えっ」
 場所を教えてもないのにぐんぐん先を進んでいた彼は、ちゃんと私の家の前で足を止めた。
「私の家、知ってたんですか?」
「知るわけないじゃん。ただの勘だよ」
「はあ……?」
「早く開けて」
 こちらを見ずに顎で玄関の扉を指す鷹揚な態度に思うところがないわけでもないけれど、それより早く済ませてもらうのが先決だ。ポケットから出した鍵を回すとガチャリと音がする。そうした瞬間に、自分ひとり分のスペースだけ開けて彼がするりと家の中へ身を滑り込ませた。
「ちょっと、勝手に上がらないでくださいよ」
 自然と小声になりつつもそっと玄関を覗くと、彼が靴を履いたまま廊下に立っていた。
「靴ちゃんと脱いでください!」
「何こそこそ話してるの? 聞こえないんだけど?」
 耳あたりに手をそえて首を傾げている彼。いちいちボディーランゲージが大きいのがなんだか、人の苛立ちを煽ってるみたいだ。
「だって……お母さんが……」
「いないよ。いや、厳密に言えばいるんだけど……ともかく、今僕らの声や姿は君のお母さんに認識されない。僕らが君のお母さんを認識できないようにね」
 どういうことですかと聞こうとしたけれど、彼は「君の部屋は二階だね!」と元気よく跳ねていったので聞き損ねてしまった。というか結局あの人土足じゃないか!
 靴をきちんと脱ぎながら汚れてないか床を確認したけれど、いつも通り床はピカピカで埃ひとつ落ちていなかった。どういうことだろう。

 自室に近づくと、一気に空気が重くなったような気がした。丁寧に閉められた自室の扉の向こうには、恐らくあの人がいるんだろう。何か話し声が籠もって聞こえている。一体誰と何を話しているんだろう。触れたドアノブはひやりと冷たく、やけに重く感じた。
「あ、あの……?」
「今開けないでくれる」
「はい!」
 そっと開けた扉は速攻で閉じられた。というか、閉じた。うっすら開いた隙間から、ぬぞぬぞした何かが、何かって何かはわからないけれど、とにかく何かが私の部屋を這いずり回っていた、よう、な?
 忘れよう。軽く頭を振って目を閉じる。あの人はもうここには来ないからいいかもしれないけれど、私はここに住んでいるのだ。しかも私の部屋だ。今夜もここで寝なければならない。私の精神衛生上、忘れる以外に選択の余地はない。

「もういいよ」
 部屋の中から、特に変化のない声が聞こえてきた。実はこの声はさっきの何かで、あの人はもうとっくにやられてしまって、とかそんなのないよね?
 開けるか開けないかで迷っていると、勝手に扉が開いた。そこにはちょっと不機嫌そうな顔の彼が立っている。
「いつまでそこにいるのさ」
「す、すみません」
「まあ、いいけど。ほら、終わったよ。ちょっと散らかっちゃったけど、問題ないよね」
 そう言われて見せられた部屋は、確かに布団がめくれていたり、枕が変なところに転がっていたり、小物が床中に散らばっていたりとなかなかの惨状だったけれど、さっき見たうぞうぞしていた何かの痕跡は何もなかった。
「何をしたんですか? 一体あれをどうやって……」
「どうもしないよ。ちょっと浄化しただけ」
 それどうかしてますよ。と思ったけれど、本当になんでもないみたいに言っていたから、なんとなく言いそびれてしまった。
「これで悪夢にも魘されないし、死んだりもしないよ。悩みは解決、でいいよね?」
「そうなんですか、死んだり……死んだりするんですか!?」
「え、そうだよ。君が憑かれてたのは、そういう類のものだったと思うよ、多分」
 サーっと血の気が引いていく気がした。確かに首を絞められるのは夢だとしても死ぬかと思うほど苦しかったし、耳元で囁かれる毎夜減っていく数字も不快でたまらなかった。けれどまさか、現実の生死が絡むほどのこととまでは思っていなかった。今さらながらに、自分の危機感の薄さを自覚することになるなんて。
「まあでもほら、もう解決したし。気にすることないよ」
 はははと軽く笑い飛ばす彼は気にしなさすぎだと思う。彼にとっては他人事かもしれないけれど。
「あ、でも、そうなるとあなたは私の命の恩人ってことになりますよね?」
 思いついたように私がぽろりとこぼすと、いつの間にかからから笑いながらベッドに座っていた彼の顔が、あからさまにピシリと固まった。あの人今、しまった余計なことを言ったって思っているような。
「代金、支払わせてください。お金で買えるようなものではないですけれど、あなたは他に希望を言ってくれなさそうですし、せめてお金だけでも……いくらなら受け取ってもらえますか? まだ学生ですからあんまり高額だと……いえ、どんな額でも一生かかってでも支払わせていただきますけれど」
「あのねぇ……」
 両手で頭を抱えるようにする彼に、口を止めた。しまった。お礼の気持ちを示すチャンスだと思って急に話を進めすぎてしまった。なぜかわからないけれど、この人にはちゃんと感謝の意を行動で示したくなるのだ。なぜかはわからないけれど。
「代金はいらない。そもそも僕は金なんて必要としてない」
「でも昨日代金って」
「それは便宜上そう言ってるんだよ。その方が受け入れやすいでしょ? 等価交換だとか代償だとか、そんな言葉よりね」
「つまり……代金はお金じゃない、んですね」
「そうだよ。今の僕にとって金はあまり価値がない。そんなものより今は……」
 何かを言いかけた口は、結局何も言わずに閉じた。それを誤魔化すように彼は私を見てにやりと笑う。
「まあ、それはともかく。これで昨日のはチャラだ。それでいいよね?」
「……はい。あっ、それで結局あなたは神様なんですか? さっきのことといい、神様だからなんでもできちゃうんですか? そう、そういえば悪夢のことも……何も言ってないのにわかったのは、神様だからですか?」
「ああ……」
 考えるように視線を巡らせたあと、たっぷりの間をもってから彼は軽く頷いた。
「いいよ。特別に僕のことを教えてあげる」
 言うなり彼は私のベッドの上に立った。汚れてないからすっかり思考の外にいっていたけれど、彼は土足(外を歩いた上履き)である。汚れてないといっても、さすがにそれは視覚的に抵抗感が。というか、彼は教室でも机の上に立っていたけれど、高いところが好きなのだろうか。そういうところも含めて煙のような人だ。掴み所のない感じが特に。
 ベッドの上で仁王立ちし、腰に手をあててやたら演技がかった口調で、呆気にとられている私に向かって好き勝手にしゃべり始めた。上履き脱いでくれないかな。
「僕は確かに神のように高貴な存在だけど、神様ではないんだよ残念ながら」
「で、でも神だって最初に……」
「そう、僕は神だ。でもそれは神様だっていう意味じゃなくてね、神って名前だってだけなんだよ」
「……………………え?」
 ちょっと理解が追いつかないのは、私の頭が悪いせいなだけじゃないはず。
「え、なんですか?」
「だからぁ、僕は神紅華っていうちょっと変わった名前の勘が少しばかり鋭いただの男子高校生でーす」
 いえい。と語尾につかんばかりに適当さいい加減さのオンパレードな遅すぎる自己紹介をかましてくれた自称神様……ではなく、自称カミコウガはピースを私に向けた。嫌みったらしい笑顔とともに。
「う、うううう嘘だ!!」
「あははは、嘘じゃないですよー。大体僕は一言も人間ではなく神だとか言ってないし、自己紹介で神ですよろしくね!って名前名乗ったら勝手に君が勘違いしただけだよ」
「だってあんなに、意味深に……! 神様なんですかって聞いてもそうだって!」
「そりゃそうだよ。嘘は言ってないし僕。それに君が神様って言ったときちゃんと、様付けはやめてって言ったよ?」
「あれってそういう意味だったんですかあああああ」
 思わず足から崩れ落ちる。そろそろ羞恥心とかで死にそうなんですけれど。どうしてくれるんですか。黒歴史確定ですよ。
 大笑いどころか高笑いにまで発展しそうな笑いをなんとか鎮めたカミは、目に涙を浮かべながらベッドに座り直した。
「まあ、僕もわざとそう思わせるようにミスリードしたんだけどね」
「やっぱりわざとなんですね……」
「じゃなきゃ君のハンナって名前聞いて、『神に愛される』か……とか言わないでしょ。痛すぎるよ僕」
「あ、自覚あったんですね」

「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
 あれから少しだけ話すと、なんの脈絡もなく唐突にカミはそう言って立ち上がった。
「え、もう帰るんですか? どうせならご飯食べて帰ってくださいよ。お母さんも喜びます」
「……ありがたいけどお断りするよ。言ったでしょ、僕らが今いるこの世界は、君のお母さんのいるあっちの世界とは似ているけど同じじゃない。君はまだ家に帰ってもないんだよ」
「それ、どういうことですか?」
 帽子の陰になっている瞳は、相変わらず赤みがかっていて、割と賑やかな声に反して沈んでいるようだった。でもやっぱり、その沈んだような彼の色は嫌いじゃなくて、むしろ好ましいのだけれど。
「世界にはね、知らなくてもいいことと、知らないほうがいいことのふたつしかないんだよ」
「え」
「まあ要するに! 説明するのも面倒くさいし、知らなくてもいいことだから別にいいよねってことさ」
 にこりと笑って、さあここに来たとき持ってたものを持って玄関に行こうか。とスキップで部屋を出て行った。
 さっき言っていた言葉がもし、いつも彼と会う世界がいつも過ごしている世界とは別の世界で、そのふたつの世界にいる人間同士は認識できないという意味なら。それなら、一体なんだっていうんだろう。わからない。未知のことが多すぎて、脳が理解を拒んでいるのかもしれない。

 鞄を持って、靴を履いて、玄関を出て学校に向かおうとしたところでカミに呼び止められた。
「あれ、学校まで行かなくていいんですか?」
「別にいいんだよ。出入り口はここにある」
「ここ?」
「ここ」
 カミは口だけで器用に笑って自分を指さした。そういえば昨日帰るときは机じゃなくて、彼に触れたら帰れたんだ。そうだ、来るときだってあれは彼の温もりなんじゃないか。
「それって、つまり、あなたは……」
「はーい、そこまで。さよーならー」
 にやりと意地の悪い笑みで楽しそうにデコピンされた。痛いと反論する前に、反射的に閉じた瞼の裏が一瞬ぐにゃりと歪む。慌てて目を開けたときには、もうあの意地の悪い笑みはなかった。
「あなたが出入り口なら、あなたはどうやって出入りするんですか……」
 誰もいない暗闇に、ぽつりとこぼした独り言は、きっと誰の耳にも届かない。
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