見えざる角 【前】


 あれから、ただの一度も悪夢に魘されることはなくなった。
 命が脅かされていたというのに、もともとの寝付きの良さと連日の悪夢や心労が相俟って、それはもう眠りに眠った。ほとんど夢を見ないほどの深い眠りと、平和な日常を噛みしめ数日。心が落ち着きを取り戻したころ、ふとしたときに彼を思い出した。
 あのときは自覚がなかったけれど、私も精神的にいっぱいいっぱいだったのだろう。思い返せば彼、神紅華との会話は実に奇妙なものだった。細かいことはいろいろと忘れてしまったけれど、彼がただの人ではないことはいくら私でも気づいた。というか、気づかなかったあのときの私がどうかしていたのだ。
 だから、今更ながらに気になった。彼のことが。一体本当は何者なのか。人間であるのか。もし人間ではないのなら、なんなのか。なぜ、悩み解決屋なんてものをしているのか。一体なにを対価として受け取っているのか。
「対価……といえば、やっぱり悪魔かなぁ」
 図書館内の怪しいタイトルが並ぶ区画を眺めながらつぶやいた。悪魔全集と書かれた禍々しい背表紙に指をかけ引き抜く。そこに描かれた悪魔たちは、差異はあれどどれも一様に禍々しく、なんというか、悪魔然としていた。
 彼を思い出してみる。ああ、やっぱり彼は悪魔じゃない。あれだけ怪しいことこの上ないのに、思えば彼の纏う雰囲気はとても清浄だった。神社や教会なんかの所謂聖域的な雰囲気に似ているのだ。だから、こっちの世界に戻ってきたとき、少し空気が淀んだように感じた。
「だとすると、天使? でも天使が対価って要求するのかな……」
 思い悩みながらふと時計を見て、そろそろかと本を棚に戻す。静かに片づけを始める図書委員を横目に図書館を出て、部活の生徒の声もほとんど聞こえなくなった廊下を歩く。
 彼と別れた次の日から、私はまるで定められたことのように夕方まで残り、誰もいなくなったのを見計らってあの机に触れていた。結果はまあ、言わなくてもわかるだろう。ともかく、私は彼にまた会わなくちゃならない。いや、またと言わず何度だって会ってみせる。謎の机が謎でなくなるまで。

 とは言うものの、彼と会う方法が放課後に謎の机に触れる以外にないのだから、どうしようもないのだけれど。前はあんなにも簡単に会うことができたのに、悩みが解決した途端こうも会えなくなるなんて。今まで彼に会った人たちはどうしていたんだろう。
「どうやったら会えるんですか、神紅華さん……」
 すっかり私の体温であたたまった机に突っ伏しながら、誰にも拾われることのない言葉を吐く。せめて連絡手段があればいいのだけれど、それも難しいだろう。なんせ相手はよくわからない世界にいるのだ。
 ふと、あの誰もいない世界を思い出して眉を顰める。今はだいぶ落ち着いているから、もう極端に怖がったりはしないけれど、それでもあの光景を思い出すと寒気が走る。彼は今もあんな世界にひとりでいるのだろうか。
 教室の外はもうだいぶ闇が迫っていた。オレンジと濃紺のグラデーションがとても綺麗だ。記憶に残る彼が、この空を眺めている光景が浮かぶ。彼が今ここにいる確証はない。ただの私の空想だ。
「帰ろう」
 席を立とうと突っ伏していた体を起こすと、ばたりと何かが倒れる音がする。反射的に視線をそちらに移すと、床に倒れたらしい女の子が慌てて立ち上がったところだった。小柄なその女の子は、きちんと制服を着ているにも関わらず、ニット生地の大きめなキャスケットを目深に被っているのがなんとなく浮いていた。
「……大丈夫?」
「ひゃっ」
 あまりの怯えた様子にどうかしたかと思って声をかけたものの、それはどうやら逆効果だったらしい。小さな鳴き声のような悲鳴を上げてすぐ、脱兎の如く駆けていってしまった。軽い足音を遠くに聞きながら、呆然と廊下を見つめる。今の子、多分このクラスの子じゃない。あんなに小さな子はこのクラスにいなかったと思うし、なにより様子がおかしかった。まるで、私が化け物のような。あ。
「もしかして、悩み解決屋に相談しにきた子かな」
 だとしたら、なんだか申し訳ないことをした。特に用もない、わけでもないけれど、深刻な悩みがあるわけでもない私が長居をしたせいで、あの子は相談できなかったのかもしれない。明日からは早めに帰ろう。反省しつつも来るのをやめる気はさらさらないのだから、本当どうしたものか。自分のすることだけれど。
 改めて帰ろうと鞄を持って席を立ち、教室の出入り口まで来たところで足を止める。さっきの女の子がこけていた辺りに、見覚えのあるものが落ちていた。
「これ、学生証……。こけたとき落としたのかな」
 なんとなしに拾ったところで、私はとんでもないことに気がついた。あの子が悩み解決屋の噂を信じてやって来たということは、あの子は遅かれ早かれ彼に会うことになるんじゃないか。うっかりしていた。危うくチャンスを逃すところだった。握りしめた学生証に思わず口元が緩む。
 これでまた会えますね、カミサマ。


 次の日、麗らかな春の早朝、私はいつもより少しだけ早めに家を出た。作戦は至極単純明快だ。昨日の女の子に会いに行き、過去私も相談したことがあるとかなんとか言って、案内ついでに一緒に連れて行ってもらう。問題があるとすれば、あの机は一度に二人も通れるのかということぐらいだろうか。
 そのためにはまず、昨日の女の子に会わなくてはならない。学生証を開くと、いかにも内気そうなボブヘアの女の子の顔写真と、クラス番号名前が載っていた。1−A、佐藤恵奈。昨日会ったときは帽子を目深に被っていたから顔はよくわからなかったけれど、あの子で間違いないだろう。

「え? いないんですか?」
 学校に着いてすぐ、自分のクラスより先にA組の教室へ寄った。教室の位置関係的に、私のクラスに行くときA組の教室前を通るので、ちょうどよかったのだけれど。適当に声をかけたA組のちょっと派手な女の子によると、佐藤さんはいないと言う。
「それって、まだ来てないとか……」
「いや、多分来ないよ」
「風邪とかですか?」
「あー違う違う。あの子あれなんだよねぇ。なんてゆーの? 登校拒否? 一週間前くらいから学校来てないんだよね」
 明るく染められた長いカールのかかった髪を指でいじりながら、なんでもないことのように言う。登校拒否なんて、まさか。だって佐藤さんは昨日、学校に来ていたのに。
「てか、C組の藤里さんだよね? あいつになんか用でもあったの?」
「あ、えーと、ちょっと落とし物を拾ったんですけど……」
「佐藤の? ふーん……預かっとこうか?」
「いや、いいです。先生に届けてもらいますから」
 お礼を言ってから、そのままの足で職員室へ向かう。予定が大分変わってきてしまった。本当に佐藤さんが今学校に来てないんだとしたら、昨日はどうして学校にいたんだろう。もし、なにか重大な悩みがあって、それを解決してもらうために学校へわざわざ来ていたんだとしたら。
 連日、悪夢に魘されていたことを思い出して背筋が粟立つ。少し前の私のように、命の危機が迫っているなんてことは、きっとないと思いたい。けれど、絶対にないとも言い切れない。昨日会った時点で、引き留めておくべきだったかもしれない。
 職員室では、落とし物のことには触れず、佐藤さんがどうしているかだけを聞いた。先生が会いに行っても顔さえ見せず、ずっと部屋に閉じ籠もっているらしい。なぜそんなことをしているのか、原因はやっぱりわからなかった。

 誰もいない夕暮れの教室、私はいつものようにそこにいた。本当は、先生に住所を聞いて自宅に突撃してしまおうかとも思ったけれど、今日もここに来る可能性があるかもしれないと思ったから。入れ違いになるのだけは避けたかった。
 ちらりとあの机を見る。確か、彼はこっちの世界とあっちの世界は互いに認識できない、とかなんとか言っていた。だというのに、どうしてまるで私を避けているかのように会うことができないんだろう。もしかして、悩みがない人には行けない世界なんだろうか。
「あっ……」
 静寂の中に囁くような小さな声が漏れた。その声の主は、昨日と同じ格好で怯えたように教室の入り口から私を覗き見ている。私と目が合った瞬間、半歩後退る。
「待ってください、あなた佐藤さんでしょう?」
「っ!?」
 大袈裟にびくついた体が180度回転して、いよいよ逃げようとする。このチャンス、逃せない。逃してなるものか。
「どうしても解決できない悩み、あるんじゃないんですか!?」
 ぴたりと、動きが止まった。ゆっくりとした動作で振り返った佐藤さんは、その大きめのキャスケットからゆらゆら揺れるまるい瞳を覗かせる。数回の瞬きは無言の肯定だった。

 黙り込んでしまった佐藤さんを、ひとまず適当な席に座らせ、私も机を挟んで向かい合う形で座る。佐藤さんは、近くで見ると余計小さく見える体をさらに縮こめて、時折キャスケットを気にしながら目を泳がせていた。
 さて、これからどうしようか。私は彼ではないから、悩みを聞いたとしても解決できる見込みはない。とにかく、一緒にあの机に触れてもらわないことにははじまらないのだ。
「あ、ああ、あのっ」
「はい?」
「あなたが悩み解決屋さんなんですかっ……?」
 その台詞にとてつもないデジャブを感じながらも、一生懸命に話す佐藤さんに申し訳なく思う。
「すみません。私はただのこのクラスの生徒です」
「そ、そんな……だって、私の名前……」
「あ! そうでした。これ、あなたのですよね」
 ポケットから学生証を出して差し出すと、慌ててポケットの中を確認してから、顔を赤くして学生証を受け取った。なんだか気の抜ける子だ。
「ご、ごめんなさい……」
「いえ、こちらこそ。勝手に見てしまってすみません」
「ううん、いいの。……ありがとう」
 佐藤さんは大人しくて気が弱そうな子だけれど、とても可愛らしい子だ。早く悩みを解決してあげたい。そういえば、悩みと一言で言ってもいろんなものがあるだろうに、それらすべてを彼は解決できるのだろうか。
「あの……」
「あ、なんですか?」
「藤里さん、だよね」
「私のこと知ってるんですか?」
「うん……藤里さん有名だから……」
 そういえば佐藤さんのクラスの子にも名前知られてたっけ。やっぱり、この髪は目立つのかな。
「あの、それで……どうして私が、その……」
「佐藤さんも、あの噂を聞いて来たんでしょう?」
「もってことは……藤里さんも?」
「私はもう解決済みです」
「えっ、じゃあ、噂は本当だったんだ……!」
 目を輝かせて身を乗り出す佐藤さんに圧されながら、覇気なく笑って誤魔化す。佐藤さん、こういう話好きなのかな。噂の正体があんな人だと知ったらどうするんだろう。とてもじゃないけれど、噂通りとはいかない彼を思い浮かべる。
「それで、その悩み解決屋さんにはどうやったら会えるの!?」
「そう、それなんですけれど……ひとつ頼み事があるんです」
「……頼み事?」
「はい。えっと……会う方法はわかってるんですよ。けれど私ひとりじゃ会えなくて……だから、できれば一緒に会いに行かせてほしくて。私どうしても、彼に会わなくちゃいけないんです」
 もう私の日常は戻った。本当ならもう彼のことは忘れるべきだ。けれど、どうしたって彼のことが気になってしまうんだからもう、どうしようもないじゃないか。彼に関わることで、また日常からは遠ざかってしまうかもしれないけれど、そうだとしても。彼が今もひとりでいるのかと思うと、どうしようもなく、じっとしていられない。
「えっと……いいよ。むしろ、そうしてくれたほうが助かる、かも」
「本当ですか!」
「う、うん。ひとりだと心細いし……」
「そっか……そうですよね。ありがとうございます」
 嬉しくて意味もなく手を握ってお礼を言う。すると、佐藤さんの顔がまた真っ赤になった。ああ、本当によかった。

 佐藤さんとふたりで机を囲む。ふたりしてなにもない机をじっと見ているという不気味な光景ができあがってしまっているけれど、誰も見ていないので気にはしない。
「あの……本当に触るだけでいいの?」
「少なくとも、私はそれで会えましたから」
 不安そうな顔をする佐藤さんに笑いかけて、手を握る。一緒に触れるだけでは不安で、一応手も繋いでもらうことにした。これで私だけ残される、ということはない、と信じたい。
「じゃあ、触りますよ」
「う、うん」
 佐藤さんの手と私の手がほとんど同時に机に触れる。誰も触れていなかったはずの机は、ほんのりあたたまっていた。私ひとりではずっと感じられなかった温もりだ。会える。また会える!
 歓喜に満ちたのもつかの間、佐藤さんが小さく悲鳴を上げる。怯えた表情で助けを求める佐藤さんの手は、机の中に吸い込まれていた。もちろん、私の手も。
「こ、こここっ、これ、ててて手が!」
「落ち着いて、佐藤さん。なにも怖くないですよ」
「〜〜〜っ!!」
 言葉にならない叫びとともに抱きついてくる佐藤さんを受け止めたとき、ほんの少し違和感を覚えた。しかし、深く考える暇もなく腕は段々と吸い込まれていく。暗くてなにも見えない机の中を見ながら、若干不安が過ぎる。これ、同時にふたりも入るのかな。そんな心配をよそに、私と佐藤さんは机の中に吸い込まれていった。

 ぱちり。目を開くと、いつも通りの教室。けれど、それがいつもの教室ではないことを私は痛いほどよく知っている。傍らには、気を失っている佐藤さんが床に寝ていた。そういえば、私は今回床に寝ていない。座り込んでいただけだ。来るのは3回目だから、流石に慣れたのだろうか。
 ふと、漂ってくる清浄な気配に振り向く。あの机の上に、パッションピンクの背があった。けれど、なにか前と雰囲気が違うような。
「あの、」
 控えめに声をかけると、ちらりと不機嫌そうな視線を寄越された。どきりと心臓が跳ねる。相変わらず、心臓に悪い容姿をしているなとしみじみ思う。流石に諸手を挙げて大歓迎、とまではいかなくとも、いつものニタニタした嫌な笑みで迎えられると思っていたのだけれど。
「お久しぶりです、神紅華さん」
 立ち上がってそう言うと、はぁとため息を吐かれた。
「……そんなことしか言うことないわけ?」
 跳ね回るような声の調子も、おとなしい、と言うより苛立ちを抑え込んだように淡々としている。あきらかに怒っている。私、なにかしただろうか。なにかするどころか、最後に別れてからずっと会ってないのだけれど。
「どうして怒ってるんですか……」
「どうしてもなにもないよ。わからないの?」
「え、えっと、」
 どうしよう。思い当たる節がない。とりあえず、謝るべきだろうか。でも、理由もわからないまま謝るというのもどうだろう。いやでも。
 私の混乱を知ってか知らずか、さらに長いため息を吐いて、ようやく体をこちらに向けた。
「自覚があったからこうして来たんだと思ったんだけど、違ったみたいだね」
「すみません……」
 完全に呆れられている。だけれど。そんなことも気にならないくらいに、嬉しい。彼の正体だとかなんだとか、いろいろ考えてたことすべてどうでもよくなるくらい、ただ嬉しかった。嬉しさが顔に出ていたのか、嬉しそうな顔しないでよとさらに呆れられた。
「まあ、いいや。君も一緒とはいえ、久々の依頼者だ。さんざん邪魔してくれたんだから、今回はおとなしくしててくれるよね」
 ちらりと私の足下にまだ寝たままの佐藤さんを見る。それでようやく、彼の言わんとしていることを理解した。もしかして、以前にも佐藤さんのように私がいたせいで相談できなかった人がいるんだろうか。だとしたら、申し訳ないことをした。
 というか、もしそうだとして、彼はどうしてそれを知っているんだろう。
「ん、んん……?」
 呻きながらかすかに動く佐藤さんに近寄り、膝をつく。
「佐藤さん、目が覚めましたか?」
「んあ? あれ、私どうして……」
 うつ伏せ状態から体を起こしつつ、寝起きのぼんやりした目が緩慢に瞬きを繰り返す。とても気の抜けた顔だ。私も最初はこんな顔をしていたのかと思うと少し恥ずかしい。
「机に一緒に触れたのは覚えてますか?」
「え……う、うん……」
 不安げに周りを見渡した佐藤さんが、ぴたりと動きを止める。目線の先には、さっきまでのことがなかったように、以前のような薄っぺらい笑顔を浮かべた彼がいた。
「やあ」
 びくりと体を震わせる佐藤さんに、さらに笑みを深める。
「いいね、君。随分面白そうなもの抱えてる」
 ね、と彼が意味ありげに帽子の鍔に触れる。佐藤さんはいまだに視線を彼に奪われたまま、青い顔でずれていたキャスケットの位置を整えた。置いてけぼり感がすごいけれど、とりあえず座り込んだままの佐藤さんを立ち上がらせる。
「あ、あの……ああ、あなたが……」
 ガチガチと歯がぶつかって音が鳴りそうなほどに声が震えている。確かに、彼はかなり怪しいけれど、そこまで怯えるような相手だろうか。
「そう、僕が悩み解決屋。君の悩みを解決できるかもしれない唯一の相手だよ」
「そう……ですか」
 ぎゅっと手を握りしめて、うつむいたけれど、すぐ意を決したように顔を上げた。
「あの! 私ができる範囲のことなら、な、なんだってします! だから……!」
「いいよ、そういうの。つまり君の悩みは、それをどうにかしてほしいってことだね?」
「わ、わかるんですか……?」
「まあね」
 驚く佐藤さんと、にやりと笑う彼。ふたりの間では通じ合ってるようだけれど、私にはさっぱりわからない。人の悩みに興味本位で首を突っ込むのはよくない。それでも知りたくなるくらいには、とんでもない疎外感だ。
「あの、一体なんの話をしてるんですか?」
 ふたりの視線が一瞬私に向けられて、ちらりと互いを見る。会って間もない上に、佐藤さんなんか怯えっぱなしなのに、どうしてアイコンタクトが成立するんだろう。
「私の悩みなんだけど……今から見るもののこと、誰にも言わないでくれる?」
「え? は、はい」
 人の悩みをおもしろおかしく人に言いふらす趣味はない。けれど、佐藤さんの悩みって一体なんだろう。そんなことを考えているうちに、佐藤さんが被っていたキャスケットに手をかけて、ゆっくりと脱ぐ。
「え……!?」
「ふぅん。やっぱり、面白いね」
 大きめのキャスケットでずっと隠れていた佐藤さんの額には、乳白色の小さな突起がふたつ。それはまるで、昔話によく出てくる鬼のような、柔らかな丸みのある角だった。

 人の気配がない放課後の教室というのは、かなり不気味だ。それに加え、白い角を生やした少女がいる光景は現実味が薄く、まるで本の中にでも迷い込んだように感じる。彼は相変わらず机の上に座り、私たちふたりは適当に近くの席に座った。
「つまり、一週間前の朝、起きたら角が生えていたからどうにかしてほしい。それが君の悩み相談ってわけだね」
 彼の声に相変わらずビクビクしながら、佐藤さんが小さく頷いた。
「こ、こんなんじゃ学校も行けないし……家でも隠し通すのはつらいんです。早く、なくなってほしくて……」
 じわりと目尻に涙が浮かんでいる。かわいそうに。あれだけ目立つものがあったら、確かに学校も行けないだろう。四六時中帽子を被っているわけにもいかないし、家でも隠し通すとなれば引きこもるしかない。
「病院とかでは診てもらわなかったんですか?」
「君は馬鹿かな」
 間髪入れず、にこやかに馬鹿にされた。ひどい。
「だって、まず疑うのは病気じゃないですか!」
 額から角が生えるという病気がもしかするとあるかもしれない。身体的な悩みなら、まずは病院で診てもらうのが一番じゃないか。
「僕はね、“誰にも言えない”悩みを解決に導いてるんだよ。病気かそうじゃないかは問題じゃない。誰にも言えないからまずここに来るんだ」
「……つまり?」
「ただの病気であれば、それは病気だから安心して病院へ行っていいとすぐ言ってるよ」
 はっと鼻で笑われた。前より私の扱いが雑になっているような気がしてならないんだけれど。
 ふと、佐藤さんを見ると顔が強ばっていた。少し良くなっていた顔色も、また悪くなっている。ああ、そうか。病院へ行けと言われないということは、病院ではどうにもできないものだということだ。
「率直に聞こうか。君、そうなった心当たりあるんじゃない?」
「……、」
 あからさまに佐藤さんの目が泳ぎだす。怯えているというよりは、なにかを隠そうとしているような。知られたくない、なにかがある、ような?
「ねえ、君はさ、どっちを解決したいのかな」
 ここぞとばかりに、にたりと弓なりの口が怪しく笑う。帽子の影になった瞳が、きらりと光ったようにも見えた。背筋に冷たいものが触れたような、言葉にできない恐ろしさを感じる。佐藤さんもそうだったのか、激しい音を立てて立ち上がった。
「どっちもなにもない!! 私が解決してほしいのは、この角のことだけ!!」
 佐藤さんにしてはあまりに大きくはっきりした声で、思わず肩が震えた。彼はなんでもないふうに、にたついている。
「そう。なら、いいんだけどね」
 ふぅやれやれとでも言いそうな様子で、彼が机から降りる。
「あ……ご、めんなさ……」
 はっとしたように小さな声で謝る姿はとても弱々しい。この一週間、いろいろと悩んだんだろう。誰にも相談できない悩みは、あるだけで精神的な負担になる。私にも経験があるから、気持ちはなんとなく察することができた。
「角を取り除くのは簡単だよ。だけど、原因がなくならなければ遅かれ早かれまた生える。……どうする?」
「…………」
 黙り込んだ佐藤さんを興味なさそうに眺めていた彼が、ちらりと私を見た。目が合うとすぐにそらされて、挙げ句ため息を吐かれた。ちょっとどころか、かなり傷つく。
「……本当はすぐにでも結論を出してほしいところだけどね、僕にも片づけなきゃならない用がある。だから、今日はもう帰って。一晩悩んで、明日また来ればいい」
 ほんの少し頷いた佐藤さんの握るキャスケットを奪い、ちょうど角が隠れるように被せた手が、頬に触れる。彼の白い手に撫でられた佐藤さんは、かすかな残像を残して消えた。

 佐藤さんの存在は意外と大きかったらしいというのは、ふたりきりになった瞬間に訪れたこの空気の重さが証明してくれた。さっきまでは平気だったのに、今は目も合わせられない。ようやく会えると盛り上がっていた気持ちが実際に会って爆発して、逆に冷静になってしまったというかなんというか。
 佐藤さんをあっちの世界に帰したあと、彼はすぐに机の上に座り直し、しかもあぐらをかいて腕を組んで無表情で黙り込んでいた。うん、やっぱり空気が重く感じるのは佐藤さんのせいでも私のせいでもなく、彼のせいだ。
あぐらがとても似合わないな、とかよくわからないことを考えて気を紛らわせていると、深いため息が聞こえた。
「それで? 君は僕に何の用だったのかな」
 あーあ、めんどくさい。とか、そんな言葉が副音声で聞こえた。めげるな私。なにを聞いても適当にはぐらかす態度から、嫌がられることは予想できてたじゃないか。
「……な、悩みがなくなって冷静になったら、あなたのことが気になったんです」
「愛の告白なら間に合ってるよ」
「茶化さないでくださ──痛っ」
 勢いよく立ち上がろうとして、できなかった。足にぶつかって倒れるはずだった椅子は、びくともせず、ぶつかった私の足のほうがふらついてまた座ってしまう。なにが起きたのか理解できずにいると、今度は入り口近くの椅子と机がひとりでに動き出す。一体なにが起こっているのだろう。
 食い入るように動く椅子と机を見ていると、しばらくしてぴたりと動かなくなった。
「今、のは……」
「さあ? 忘れ物でも探してたんじゃないかな」
 なんでもないように平然と答える彼に、ようやくここへ来た目的をはっきりと思い出す。
「……あなたに、聞きたいことがあるんです」
「なにかな」
 わかっているくせに。とは、さすがに言えなかった。けれど彼は絶対にわかっている。浮かべられた意地の悪い笑みにはそう書いてあった。本当に意地が悪い。
「この世界のこと、あなたのこと、全部教えてください」
「いいよ」
「わかってます。どうせあなたのことだから、そう簡単に教えては…………え?」
 今、彼はなんと言っただろうか。恐らく私の都合のいい聞き間違いだとは思うけれど、いいよと言われた気がする。いや、きっと気のせいなんだけれど。そうじゃないとおかしい。
「今、なんて?」
「だから、いいよって言ったんだよ。別に隠すようなことでもないからね」
 今度こそはっきりと、いいよと言われた。私が知らない間にいいよという言葉が拒否を意味する言葉になっている可能性すら、完全に否定された。教えてくれると言うのなら、なにも問題ないじゃないか。そう自分に言い聞かせてはみるものの、いまいち納得できない。
「本当に……本当に教えてくれるんですか?」
「もちろん、この世界のことも、なぜ僕がここにいるのかも教えてあげよう。……ただ、ひとつだけを除いてね」
 そう言いながら人差し指を立てた彼を見て、やっぱりと思うのは仕方のないことだったのかもしれない。だって彼は、自分のことに関してあまりに教えたがらないのだから。
「この世界のことを説明すれば、その疑問は必ず出てくる。しかも、僕のことが気になってここまで来た君のことだ。知らずにはいられないだろうね。でも、残念だけどその問いに答えはあげられない。あげる気もない」
「それは、つまり、」
「そう。僕の正体についてだよ」
 言葉を聞いた瞬間、わかっていたのに落胆する気持ちを抑えられなかった。そう、わかっていた。答えはすぐには手に入らないと。けれどやっぱり、一番知りたかったことだった。仮に、他のことを教えない代わりに彼のことが知れるなら、私はきっとそれを選んだだろう。
「君がどんなに望んでも、どんなに僕に何者なのかと問いかけても、僕はただの男子高校生だとしか答えられない。それでもいいなら、教えるよ」
 どうする。彼が目で問いかけてくる。
 そんなの決まってる。私は最初から教えてもらえない前提でここに来たのだ。確かに、まったく期待していなかったかと言われれば嘘になる。けれど、ここであきらめたくはない。彼と話せば話すほど、不思議とそう思えてくる。
「聞かせてください。今は、それだけでいいです」
「ふぅん……それじゃまるで僕がいつか話すみたいだけど、そんな期待はしないほうがいいと思うよ?」
「わかってます。私がいつか、あなたの正体を暴いてみせるってだけですから」
 言いたいことを言いたいように言うと、彼は帽子の下の顔をきょとんとさせてから、一拍置いて激しく笑い出した。あぐらを崩して足をバタバタさせるせいで、机が不安定にガタガタ揺れて危なっかしい。
「あは、あははは、あぁもう苦しい」
「そんなにおかしなこと、私言いましたか」
「言った、言ったよ」
 暴れたせいで乱れたパーカーを適当に整えて、彼が机の上から足を降ろす。おかしなことを言ったつもりはなかったけれど、ここまで笑われるとさすがに恥ずかしい。
「君も知ってる通り、世界には不思議なことがたくさんある。自分で言うのもなんだけど、僕だってそれのひとつだ。そんなのを、なんにも知らない君が暴くだって? 一体何年後の話だよ」
 確かに、その通りだとは思う。
「なにも知らないのは、今の私です! これから先はもっと、いろんなことを知るはずですから!」
 そうだ。今日だけでも私はたくさんのことを知る。最初にこの世界のこと。そして、これから会う回数を重ねていけば、きっといつか彼のことだって。
「……ちょっと待って」
 ぎこちない動きで手を挙げ、硬い表情を浮かべた彼がさっきまでとは違う焦りが混じったような声で私を制止した。
「まさかとは思うけど、君、これからもここに来るつもり?」
「え? だめなんですか?」
「ダメに決まってるだろ!!?」
 ものすごい勢いで立ち上がって距離を詰められる。急に叫ぶからびっくりしたけど、彼が焦っているのは貴重な気がして少し面白い。
「ここはすごく危険な場所だって言ったよね!? 君みたいなのなんて、すぐ死んじゃうよ!」
「え、言われてませんよ。それに、あなたがいるなら平気ですよね」
「百歩譲って平気だったとしても! 僕は君に正体が明かせないって言ったでしょ!? 君がいたらできることもできなくなるよ!」
「大丈夫です。私が邪魔なときは言ってください。別の場所にいますから」
「そんなこと、っ〜〜!!」
 なにか反論したそうに口を開閉させたあと、彼はあきらめたように脱力して床に座り込んだ。なんだか本当に面白い。前は私のほうがこうして彼に振り回されていたのに。ちょっとした仕返しを達成した気分だ。
「もう、いいや。僕の邪魔しないんだったら、好きにすればいい」
「ありがとうございます!」
「あ、でもそうだな……ひとつ条件をつけよう」
「なんですか?」
 彼は素早く立ち上がって、びしっと人差し指を突きつける。
「僕の仕事を手伝うこと。いいね?」
「……はい!」
 私の返事に満足したのか、彼はいつものようににやりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 彼の話によると、こうだ。
 以前話していた通り、この世界は私たちの住む世界と似ているようで違う世界ということ。
 私たちの住む世界は『確立世界』と呼ばれていて、あらゆる事象の根源であり、単独で存在し得るただひとつの世界。それに対し、彼のいるこの世界は『認識世界』と呼ばれていて、世界を構成するあらゆる事象が確立世界に依存しており、確立世界の人間が想像するだけして生み出さなかったモノたちの掃き溜めの世界。
「まあ、掃き溜めってのは語弊があるかも知れないね。人がよく想像したりするオバケ、お菓子でできた家や金の生る木とか、とにかくあったらいいなとか起こったらいいなって思う物事が実際にある世界だからさ。そういうのは、大体確立世界で絵に描かれたりするだけでこっちからは消えちゃうんだよ。だから一番近いのは、舞台裏の世界ってとこかな」
 彼曰く、人の意識というのはとても力のあるものらしい。
 ぼんやりとした想像だけでも認識世界にはなにかが生まれ、その想像がより鮮明であればあるほど認識世界で力を持ち、多くの人が想像したものであれば、たとえそれが確立世界で生み出されたとしても認識世界に残る場合もある。
 けれど逆を言うと、誰かが認識世界でなにかを生み出したとしても、本人以外の誰も同じ想像をせず、あまつさえその本人も想像したことを忘れてしまえば、その存在を保つことはできなくなる。まさしく、認識世界なのだ。
 確立世界と認識世界の一番の違いは、力関係なのだと彼は言った。
 確立世界は単独で存在することができる。つまり、言ってしまえば確立世界にとって認識世界は必要のない世界だ。けれど逆は違う。認識世界にとって確立世界はなければならないもので、なくては存在することのできない表裏一体の関係。
 つまりは、この認識世界で見えている机や椅子などの物質はすべて確立世界のそれらとリンクしており、形が実際にあるものと認識という塊のものという違いはあるけれど、ほとんど同じものだということ。けれど、動かすことはできない。
 それは、やはり人の意識の力というものらしい。
 確立世界の人の視界に入っていなかったり、意識の外であったりすると動かせるが、そうでなければ確立世界で誰かが動かさない限り、紙の一枚であっても動かすことはできない。もちろん、確立世界で動かされているものは、爪楊枝一本でも止めることはできず、落ちる爪楊枝を受け取ろうと手を出せば、血を見ずに済ませることはできない。
「わかりやすく言うと、光と影の関係かな。認識世界の僕らは影だけで、物体が確立世界にある物、それの影が認識世界の物、光源が人で、物体を一定範囲照らす光が人の意識。そう考えるとわかるでしょ。光と物体を動かさずに影だけを動かすことはできない。光がない暗闇のうちだけ、好きに動けるってね。だから俗に、確立世界のことを光世界、認識世界のことを影世界って呼ばれてたりするんだ」

 いくつかの謎は解けたけれど、不思議に思うこともあった。もちろん、事前に言われていた通り、彼のことが一番不可解ではある。それでも、それと同じくらいにわからないこともあった。
 聞いてもいいのだろうか。様子を窺うように少し疲れた顔をして黙り込んだ彼を見ると、どうぞと言うように左手を軽く差し出した。
「えっと……素朴な疑問なんですけれど、いいですか?」
「僕が答えられることならね」
「想像で生まれたものが確立世界で見えないのは、形がないからだっていうのはわかりました。でも、認識世界で人が見えないのはどうしてなんですか?」
 はじめてこの世界に来たときにも、ついさっきも、人の姿は一切見えない。しかも透明人間のように、中身のない服が動いているわけでもなかった。本当に存在感もなく、気配もなく、ただひとりでに物だけが動いている。それがとてつもなく恐ろしかったのを、私は覚えている。
「いい質問だね。でも、それは僕にもよくわからないんだ。この世界のことを知れば、僕がなぜこの世界にいるのかもわかるかもしれないんだけど」
「え、」
 驚きのあまり言葉が出なかった。だって、それはつまり彼自身なぜ自分がここにいるのかがわからないということになるじゃないか。
「あの、それは聞いてもいいんですか?」
「もちろんだよ。言ったでしょ、話せないのは僕が何者であるかってこと。それ以外の僕のことは話すよ」
 そういえば、なぜここにいるかも教えると言っていた気がする。
「僕は君と同じ世界で生まれ育ったんだけど、数年前にこの世界に閉じ込められちゃってさ。そのせいかはわからないけど、その前後の記憶がさっぱりなくてね。どうやってこの世界に入れたのかはわからないんだ」
 生まれ育つという当たり前の言葉がかなり似合わない彼だけれど、やはりというかなんというか、別れるときに感じた不安はまさしく的中していたということだ。彼は望まずしてこのひとりぼっちの世界にいる。それだけで簡単に私の胸は痛む。
「……そういえば、自分が出口って言ってましたよね」
「ああ、それか。正確にはこの世界を認識した原因に触れると帰れるんだよ。ほら、この机に触ったとき、人の温もりを感じたでしょ? あれ僕だよ」
「なるほど。あ、じゃああなたもそれを探せば……」
「この馬鹿みたいに広い世界でどう探すって? 第一、僕が認識世界にどう来たのかさえ曖昧なんだよ」
 ポケットに手を入れて、はあと軽く息を吐いた。なんだか馬鹿にされたような気がしなくもないけれど、それは気づかなかったふりをする。
「とりあえず、聞きたいことは聞けたよね。もう帰ったほうがいいと思うよ。このまま学校に閉じ込められたくないならね」
 言われてようやく、窓の外がもう真っ暗なのに気がつく。遠くで聞こえていた部活動の声も、もうほとんど聞こえない。
「わかりました……これから私はどうすればいいですか?」
「そうだなあ。特にしてもらうこともないんだけど、強いて言うなら見ていてあげたらいいんじゃないかな」
「佐藤さんを、ですか?」
 わざとらしいニコリとした笑みを浮かべて、彼が手を伸ばす。私の鼻を細い指がつんとつつくと、ぐにゃりと景色が歪む。別れの挨拶すら、彼はまともにさせてはくれなかった。