「ふぁーい」
「こらこら。浅黄、その気のない返事はやめなさい」
「ふぁい」
「──俺、泣くぞ?」
しつれーしましたぁ。声のトーンがワントーン下がりながらも、一礼をして職員室を出る。
ガラガラ、と扉を閉めて、ふぅーとため息を一つ吐いた。
手には、数学教師に渡されたプリントが一つ。
丸々30分間のお説教で飽き足らず、こんなものまで付いてくるなんて。
モリチョー……もとい、森長先生もあんなにこんこんと説教しなくたっていいのに。
だからいつも赤点なんだぞ、って仕方ないじゃない!数学は苦手なんだもの。
世の中に得てして必要ないように思うの。
だって今の世はパソコンでなんでも計算してくれるじゃない。計算機だってあるじゃない。
生活している中で、Xの4乗とか3乗とか、必要ないじゃないっ!!
思わず手に持っていたプリントを握り締める力が強くなる。破いてはいけないので、気をなんとか落ち着けた。
「あーもー。馨ちゃんも数学は苦手だからなぁ。もう帰ってるだろうしなぁ」
こんなプリント、一人で終わるのだろうか。
またしょうもない答え(私にとっては精一杯だけども!)を書くと、今度は補習を受ける羽目になりそうだし。
何が悲しくて放課後先生とマンツーマンで授業を数学の授業を受けなきゃいけないのか。
「困ったな」
とにかく、図書館でも行こうかな。と、ガラリ、教室の扉を開けて。
「……失礼しましたー」
速攻で閉めた。
「ええぇ!?」
扉を開けた瞬間、目にしたものは。
ひらひらと手を振って、私の机に座っていた黒羽君だったのだ。
──うそ、同じ高校だったの!?
え、いやいやいや。そんなはずは!
あれだけカッコいい男の子だったら同じ高校だったら知ってるはずだもの!
目の錯覚!?乙女の妄想が作り上げた幻覚!?
私が廊下でぐるぐると思考を巡らせていると、「ちょ、それはないっしょ」と扉の開く音と共に聞こえる声。
目の前には、苦笑している黒羽君。
──本物っぽい。
「黒羽、君……?」
「はいよー」
びびった?と笑う顔は、黒羽君でどうやら間違いないみたいで。
吸い込まれそうな蒼い瞳が、悪戯が成功した子供みたいに輝いている。
まさか、あのドラマチックな出会い(色々あったがここはドラマチックという事にしておきたい。私の名誉の為にも!)から二度目の逢瀬が、私の教室なんて。
どうして?と思わず疑問の方が先に来る。
「え、どうしてここに?」
「杏が『居残り……エックスデー……』なんて意味わかんねぇLINE送ってくっからよぉ。気になっちまって杏の学校潜入しちまった。杏んとこが同じ学ランだから、目立つ事なく潜入できたぜー?」
「な、なんで学校わかったの!?」
LINEでも電話でも、特に言っていないはずだ。
そういえば、黒羽君の学校だって知らない。潜入したってことは、違う学校なのはやっぱり間違いないみたいだけれども。
てか潜入って!
驚く私に、事も無げに黒羽君は話す。
「ん? だって初めて会ったときも制服だったろ? その特徴的な水色の襟で赤色のネクタイのセーラーは、ここらじゃ江古田東しかねーし」
「だからって。うそぉ……」
「で。エックスデーってのは──数学かよ」
は、と気づくと、私の手元にあったはずのプリントがいつの間にやら黒羽君の手の中にあった。
「う、わわ! だめ!」
「今因数分解やってんだなーそっちは。へー」
職員室ショックに確かにそんな内容のLINEを凹みスタンプ付きで入れていた事は入れていた。
けれど、実際に居残りでプリントをするはめになっているのを、黒羽君に知られるのは恥ずかしい!
慌てて私は、プリントを取り替えそうと手を伸ばす。
私にとられないように手をずらした黒羽君のお陰で、私は黒羽君の襟元にしがみつく形になってしまった。くそ、リーチの差め!
うう。黒羽君には情けない姿ばかり見せている気がする。
──てか、顔が近い!!
気付くと、私の頭のすぐ上が黒羽君の顎の位置。
息がわかるほどの距離に、心臓が嫌というくらいに音を立てた。
「お、っと」
「わわ!!」
慌てて離れて、ドキドキする心臓に叱責した。
落ち着け!変に動揺しすぎると黒羽君におかしく思われちゃう!
なんとか気を取り直すと、ここが廊下だという事に気づいた私は、黒羽君に教室へ入ろうと促した。
黒羽君が潜入してきたなら、他の人に見られるのは、あまりいい事ではないはずなので。
先ほどの動揺も相まって、教室へ入るなり、椅子にぶつかって転がりそうになるのはお約束かもしれないけれど。
くそう。本当色々格好つかない。
せっかく黒羽君に会えたのに、これじゃあんまりだ。
もし今日の占いをテレビで見ていたら『とても会いたい人に会えますが、気をつけないと、貴女を幻滅してしまうかも?数学の授業には気をつけて』とかだったんじゃないだろうか。
「パンツ」
ぼそり、と声が聞こえ、私は慌ててスカートを抑える。
え!?そんなに勢いよく転げたの!?
「うそ!?」
「嘘」
後ろで噴出する音が聞こえ、顔に熱が集まってくるのを感じ、私は手で顔を隠した。
黒羽君め!ひっかけたな!
くそう、と後ろを振り返り睨みをきかせると、わり、と笑いを堪えている顔で。
そんな優しい瞳をされたら、怒るに怒れないじゃないか。
「ほんっと、杏は見てて飽きねぇな……じゃ、ちゃっちゃとやっちまうか?」
「え」
「しょーがねーから、教えてやるよ。ここ、俺の学校でもう習ったし」
「ほ、本当!?」
「快斗先生の授業料は高いからなー?」
「ジュース奢ります先生!!」
「もう一声っ」
「ケーキ奢ります先生!!」
「よしのったぁ!」
棚からぼたもち?瓢箪から駒って言うのかな?こういうの。
まさかの事態に、私の心臓の音は早くなるばかりで。
もちろん、変に期待するわけじゃないけど。
でも、嬉しい、な。
「だからどうしてその公式がそうなんだよ?」
「うぅ…」
でも、黒羽君の教えは意外とスパルタだった。
甘い雰囲気なんて、べ、別に期待してなかったけど……!!
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