#74
「へ。母さん戻って来てたって?」
「うん」
「で。とっととあっち戻ったわけか」
「うん」
あの後。
さて、もう行かないと。と風のように去って行った千影さん。
快斗君に会っていかないのか聞いたら、「あー、いい、いい!どうせ散々がっついて幸せそうな面して寝てんでしょ?寝かせといて」とけたけた笑って返されて。
思わず真っ赤になってしまった私は、千影さんにすっかり揶揄われていたんだろう。
「杏ちゃんも、お疲れだろうし、ゆっくり休んでいってね」
そんな気遣いの言葉をありがたく受け取って。玄関先でのお見送りのあと、再び快斗君の隣へ潜り込んで、目覚めたのが10時過ぎ。
なぜか朝から私の胸のところで怪しく動く手のひらのおかげで目が覚めた。
快斗君、君はどんだけおっぱいが好きなんだ。
昨日あんだけ触ってたのに。
そんな憮然とした表情を受け止めたのか「大丈夫、いくら触っても減らねぇから」ととても良い笑顔で返された。
そういう問題じゃない。
まあ、そんなおそようの後。
のんびりとブランチがてらオムレツとパンとサラダ──もちろん快斗君作である。私が手伝わせて貰えたのは、レタスを千切る部分だけだった。どれだけ過保護!──を、食べながら、コーヒー片手に快斗君に昨日の出来事を掻い摘んで話をしたのだ。
「わりぃ、あの人自由人だから。何か変なこととか言われなかったか?」
快斗君の言葉に、玄関先での千影さんの言葉を思い出す。
「ああ。そうだ。良いこと教えたげる」
ちょいちょい、とこっちへおいでと示されるままに、千影さんに近づくと。内緒話をするように、口元を手のひらで隠して私の耳へと近づけてきて、小声で語り出した。
「魚、食べるって言ってたけど。──あの子ね、私が作った魚料理は、どんなものでも一切食べないのよ?外食も勿論そうだし。余程杏ちゃんの料理が食べたいからなのか。それともカッコつけたいからか。…どっちにしろ、杏ちゃんの前だから、だろうなぁって、ね」
そこで、内緒話風から居住まいを正した千影さんは、とても楽しそうな表情をしていた。
「ふふ。どうにかして食べさせてやろうと思ってたから、助かったわ」
へ。うそ。
そうだったの?
なんだか、それって。
少しだけ、自分が特別な気がしてしまって。
嬉しさで顔がへにゃりと崩れてしまいそう。
引き締めないと、締まりのない顔になってしまう。
喜びのあまり変な顔になってしまっていただろう、私を見てまた、千影さんは笑っていた。
「…どした?みょうちきりんな顔になってっけど。やっぱ母さんになんか吹き込まれたか?」
「う、ううん!そんなことないよ!」
あいつ、ええかっこしいだから。きっと私がそんなことバラしたって言ったら怒られちゃうし。快斗には内緒ね?
そう笑っていた千影さんの姿を思い出し、何もないです!とぶんぶんと首を振る。
というか、妙ちきりんって。
つい、昨日の千影さんの言葉を思い出して、にやけそうになった顔を引き締めようと頑張ってただけなのに。
昨日は散々可愛い可愛い言ってたくせに!
なんなんだ。あれはバレンタイン仕様か。そうなのか。
「本当かー?顔がへんてこになってたってのに」
「何も、ない、よ!」
訝しむ快斗くんの言葉は辛辣で。次はへんてこときた。
ううくそ。すっかり通常モード!
不満げにぶすくれる私をみて、快斗君は笑って私の頭をぽん、と叩いた。
「大丈夫大丈夫、多少へんてこでも杏ちゃんは可愛い可愛い」
そんな言葉と、優しく頭を擽る手のひらの感触ひとつですっかりご機嫌になる私は、上手いこと快斗君に転がされてるんだろうなって思う。
「寺井ちゃーん、連れてきたぜー」
ブランチの後、用意を終えて昨日話していた寺井さんのお店へと向かい。
そんな言葉とともに、ガラリと扉を開けた快斗君の後ろについてお店に入った。
ここが寺井さんが経営してる、ビリヤードバーなのか。
そう、快斗君の背中から、店内へと視線を移したそこには。
わあ。すごい!
扉を開けたすぐ先に、沢山のお酒が並んだバーカウンター。
右手に進むと、数台のビリヤード台が並んでいた。
まだお昼時だからか、バーカウンターには人は居なくて。
何人かのお客さんが、玉突きを楽しんで居た。
なんだか大人の遊び場のようで。
普段こんなところ来ないから、ちょっとドキドキする。
…ビリヤードか。
ドジだから、ビリヤードもしたことないんだよなぁ。
快斗君がビリヤードする姿とか。絶対格好いいよね。
うーん、でも、大人なイメージだし、キッドさん?
あ、やばい。
絶対格好いい。
「杏、この人が言ってた寺井ちゃんな。寺井ちゃん、こいつが…って、おーい、杏ちゃん?」
そんな妄想に頭がぶっ飛んでいると、快斗君に呼ばれていた。
慌てて目の前に視線を戻すと、優しそうなお爺さんがバーカウンターを挟んでにこにこと微笑んでいた。
「…っす、すいません!ちょっと、こういうとこ、初めて来たもので浮かれてしまって。は、初めまして。浅黄杏です」
どうやらこの人が寺井さんらしく。慌ててぺこりと会釈する。
「これはこれは。可愛らしいお嬢さんだ。…あの、快斗坊っちゃんが、こんな可愛いお嬢さんをうちの店に連れてきて、紹介して下さるなんて…寺井は、寺井はもう、嬉しくて…」
なんだか目元がうるうるしてきた寺井さんに、快斗君が呆れている。
「寺井ちゃん、孫の成長喜ぶようなその反応、本当恥ずかしいからやめて」
「おお、ついつい…。すみませんね、お嬢さん。杏さんとお呼びしても?」
「はい、もちろんです」
「お噂はかねがね快斗坊っちゃんから伺っておりました。常に危なかっしいとか」
…すいません。ドジがデフォルトで。
がくりと落ち込みそうになるところに、続けて言葉が降ってきて。
「目が離せない、とかね」
ぱちり、とウインクひとつしながら、寺井さんは茶目っ気たっぷりに私を見た。
思わず、快斗君を見ると、少し目元を赤く染めていて。
「あーあー。何しでかすかわかんねぇから、な!杏は危なっかしいから!寺井ちゃん、あんま余計な事言うなってのっ!」
散々、もっと恥ずかしい甘い言葉を私の前で平然と言ってのけるのに。こういうのは照れるのか。
寺井さんの前だから恥ずかしいのか、私のことを人にそんな風に話していたことが私に知られて恥ずかしいのか。
とにかく、いつも翻弄してくる快斗君の、少年のようなその様子に、思わず顔がにやけてしまう。
「えへへ。常に危なっかしいんで、是非目を離さず見張ってて下さい」
思わずそう、からかうように返すと、ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられた。
「さってと。何飲む?お薦めとしては、寺井ちゃんお手製のホットジンジャエールだけど。ちょうど杏、昨日喉酷使した後だし?生姜は喉にいいかんなー」
カウンターバーに2人、腰掛けると。
快斗君がニヤリと笑いながら、そんな風にドリンクメニューを勧めてきた。
こういう場所でさらりとそんなぎりぎりな事言うのやめてほしい。慌てちゃってなんて返せばいいのかわかんないじゃないか!
なんだ、さっきちょっとからかった事に対する仕返しなのか。
「とりあえず、それ頼んどく?」
あわあわして兎に角頷いている私を横目に、快斗君はすっかり余裕を取り戻した様子で寺井さんにホットジンジャエールとコーラを頼んでくれて。
用意をしながら寺井さんは快斗君のお父さんの話をしてくれた。
そのマジックに惚れ込んで、なかば押掛け女房かの如く付き人になったこと。
付き人で一緒に回っていたステージでの盗一さんのマジックの素晴らしさ。
盗一さんを未だに崇拝していて、彼の亡きこの8年で、未だに彼を超えるマジシャンは居ない!と熱く語っていた。
「ま、俺が超えるけどな」
寺井さんが出してくれたコーラを片手に、快斗君は自信たっぷりにそう言って。
自信家な所も好きなんだよなぁ、なんて惚けたことを思いながら、うんうんと、私も首を上下に振って頷いていた。
「ふふ。寺井もその日を楽しみにしております」
そんな和やかな雰囲気のところに、店先からガヤガヤとした声が響いた。
団体のお客さんが来たのかな、と思いながら意識を扉に向けたところ、快斗君がなんだか嫌そうな顔をしていて。
「…げ。もしかして」
そんな快斗君の声と共に、開いた扉から元気な声が店内に響き渡った。
「あー!黒羽てめぇ!」
「あれ。黒羽じゃん」
「くそ!!この裏切り者の明智光秀ぇ!!」
快斗君は嫌そうに顔を顰めたまま、なにやら騒がしい扉の前の人達に向かって「何しにきたんだよ」と吐き捨てるように返して立ち上がった。
立ち上がった快斗君の背中が立ち塞がるように私の目の前にやってきて、入ってきた人達がどんな人かもわかんないんだけど。
一斉に快斗君に向かって話しかけたことだけはなんとなくわかった。快斗君返事返してるし。
…明智光秀はよくわかんないけど。
快斗君の返しに、扉の前の人達の声がワントーン大きくなった。
元気だな。
「んだよ、わりぃか!バレンタイン翌日の日曜に男3人でビリヤードきてわりぃのか!くそ!バレンタイン翌日は独り身は家でぼっちでしんみりしてろってか!男だけで街を出歩くなと!?日本はそんなに差別社会なのかこのやろーー!!」
「一橋、気持ちは痛いほどわかるが被害妄想激しすぎ。どうどう、落ち着け落ち着け。お前が言えば言うほど俺まで悲しい気持ちになるから」
「俺はバレンタインデーなんてめんどくさい女のイベント付き合うより、バレンタインを呪いの呪文かなんかだと思い込んでるコイツらと遊ぶ方がおもしろいから付き合ってるだけだけどねー」
「二川、お前ほんっと女の敵!そして俺らの敵!!」
「ひっで。昨日一緒にチョコ食いまくった中だってのにー」
ん、チョコ貰えない云々の愚痴かと思ったら、違うのかな?とわいわいと元気な会話を背中越しに盗み聞いていると、私の疑問が快斗君により代弁された。
「お前ら、あれか。もしかして自分でチョコ買って自分達で食ったのか…?なにその自分で自分を苦しめる行為。マゾなん?」
「俺が貰ってきてあげよっか?って聞いたんだけどねー。他人が女子から貰ったチョコを食うくらいなら自分で買ってやる!!って息巻いちゃって。ヤケになったのか2人して山のように買うから。いやーウケるわ本当」
「お前の毒牙にかかる女子をこの身を呈して守ってあげたんだよ!」
「そうそう。俺ら偉い。なんでこのやる気なさ気な男が何気にモテるのかが意味不明だ!」
「ひでぇの、女より友情とった俺を褒めてよ」
「オメェはあちこちふらふら都合良く女の子を手篭めにしてっからこういうイベント逃げてるだけじゃねえか!」
「そうとも言う。が、友情に厚いとも言う」
「「言わねぇよ!」」
やいのやいの。騒がしい会話に目が回りそうになっているところに、ひょい、と黒羽君の背中から顔を覗かせる人物が。
「で?なに、この子が黒羽の?」
私を興味あるんだかないんだかわからない表情で覗き込んだその人は。顔はどこまでも醤油顔、ってな感じの整ってる黒髪黒目のあっさり系。
黒曜石の瞳が澄んでいて、どこか飄々としているその雰囲気はでも、なるほどなんとなくモテそうな気がする。
多分この人が女の敵と言われてた人だろう。二川、と呼ばれてたかな、確か。
その、二川と言うらしい男の子が私へと興味を向けた途端、わーわーと騒いでいた人達もこちらへと一斉に近付いてきた。
「え!この子!?この子が黒羽の!?おお!可愛いじゃねえか黒羽このやろー羨ましい!!俺、一橋!黒羽とは熱い友情を交わしてるマブダチっす!誰か友達紹介して!」
「この子か!黒羽のくそさっみいトレジャー発言の女の子!おー!まじ可愛い!むしろ俺のマイトレジャー!!俺三澤!俺の宝箱に納まる気ない?」
ええと、茶髪でそばかすの男の子が一橋君で、前髪メッシュの男の子が、三澤君、と。
勢いよく自己紹介しながら、ずい、とこちらへと迫らんばかりの勢いの二人組に、少したじろぎながら反芻していると。
ぐ、と身体を抱え込まれて、快斗君の胸元が眼前に押し付けられた。
「オメーら、寄るな!触るな!喋りかけるな近付くな!杏が減る!!」
むしろ同じ空気を吸うんじゃねぇとまでおっしゃって、ぎゅ、と力強く抱え込まれる。顔が胸板に押しつぶされそうだ。
私、減るのか。
てか、人前でこれは恥ずかしい。快斗君は寺井さんのあの言葉は恥ずかしがるくせに、こういう事は平気でするんだよなぁ…!
「かーっ!ばーか!ばーか!いちゃつくんじゃねえばーか!」
「くそが!ちょっとぐらいおこぼれ寄越せ!バレンタインデーに浮かれ狂った侍魂を忘れ去ったアメリカかぶれ野郎が!アメリカでは本来バレンタインデーはこんな商業魂にのっとったイベントじゃねえんだぞ!浮かれやがってばーかばーか!」
「やーいやーいばーかばーか」
「うるせぇ三馬鹿共!二川てめぇも便乗して野次るな!あーくそ、おめぇらにこの店教えた俺が馬鹿だった…。いつの間にかすっかり常連になりやがって」
ため息をつきながら、快斗君が耳が腐る、と私を抱え込みながらも器用に私の両耳を手で押さえている。
でも、声が大きいので大体聞こえます。にしても中々に辛辣だな、快斗君。
「だぁって、じっちゃん優しいし。居心地いーんだよ、ここ」
「そうそ!あ、じっちゃん、俺コーラね!あっちの台借りるぜー」
「俺オレンジー」
「俺もコーラね」
「おーおー。とっととあっち行け三馬鹿」
「なに言ってんの。黒羽も勝負するっしょ?」
しっしっとあっち行けと手をふる快斗君を尻目に、さも当然、と言わんばかりに醤油顔の男の子が返した。
「は?俺今デート中ですー。見てわかるだろーが」
「何?負けてカッコ悪いトコ見せたくないって?」
やーい、ヘタレーと醤油顔の男の子が野次るのを、便乗してほかの2人も野次りだし。
快斗君がおめーら…とふるふると怒っているのが、腕の中でもわかった。というかそろそろ離して欲しい。息が辛くなってきた。
「トレジャーちゃんも、黒羽のカッコいいとこみたいよね?」
問いかけられ、快斗君も気になったのか、腕の力を緩めて私を見た。
トレジャーちゃんって、私のことなのか。
いや、それよりなにより。
ビリヤードする快斗君を見たいか見たくないかと言ったらそりゃあ。
「…見たいな」
欲望が思わず正直に口をついた途端、決まりー。と快斗君が3人に引き摺られて行った。
腕から解放された私は、半ばぽかんと、カウンター前に立ち尽くす。
ことり、とそこでカウンターテーブルに何か置かれた音がして。
振り向くと、寺井さんが微笑みながら「バレンタインですので」と、美味しそうなチョコレートが載った小皿を勧めてくれた。
「お客様に頂いたものですが、なにぶん甘いものは私はそんなに食べれませんので。宜しければ杏さん、召し上がりながら、彼らの勝負を高みの見物と致しましょう」
そう促されるまま、再びカウンターの椅子に腰掛ける。
少しぬるくなったホットジンジャエールをこくり、と飲むととろりとした甘さの中に、生姜の香りがふわっと口内に広がった。
甘辛くて、美味しい。
そんなほんわかとした心地を引き戻すような元気な声が奥の台から聞こえてきて。
「おめーら全員ぶっとばす!」
「はっ!ロンリー協定を破ったユダめ!受けて立つ!!」
「俺が勝ったらトレジャーちゃんの友達のアドな!」
「ビリヤードは格闘技じゃありませーん」
騒がしい彼らが、ここからだと確かによく見える。
いつも、私の前だとかっこいい快斗君が。
「──ふふ、すっかりやんちゃ坊主だ」
なんか可愛いぞ。
なんやかんやで楽しそうなその様子に、思わず口元が緩んでしまった。