#83
喉元から頭上まで、熱いものがせり上がってきて。
我慢しきれず嗚咽が漏れる。
瞳を瞬くと、雫が床へと落ちた。
それでも、私の顔を固定する掌はそのままで。
じ、と真っ直ぐに見つめられているのが目の前が滲んだ状態でも分かって、ぐらぐらと脳みそが揺れる。
なんで。こんな。
私がいっぱいいっぱいなの、わかるはずなのに!
頭の中まで熱くなって。
とうとう、全然ぐちゃぐちゃな感情が溢れ出してしまった。
「…わたし、だって。私だって!快斗くんのバイク、のり、たい、のに…!のれないの、わかってて、なんで、違う子乗せる、の…!」
──ああ。こんなこと、言いたくなかったのに。
「うん」
静かに相槌を打つ快斗君が、何を思っているのかは、わからない。
でも。
一度噴き出した思いは、もう、止められなくて。
「バレンタイン、時、も…!きづいて、た!だれかの、チョコ、食べた、ってぇ…!あの、子だ、て!思った!なんで、ホワイトデー、まで、あの子と、いるの…!」
もう、何が言いたいのか、何を言ってるのか自分でもわかんない。
黙って聞いてるその白装束姿にすら、なんだか頭に血が上ってくる。
「快斗君は、なんか、隠してるのに!何も、言ってもくれない…!」
「…それは本当、ごめん」
「あの子、のが、快斗君、といて、バイク、お似合いで…!それが、みてて、つらくて…!」
私だって。
普通に、快斗君の後ろ乗って、どこへだって行きたい。
普通にビリヤードだってしたいし。
キッドさんとのハングライダーだって、本当は乗りたかった。
きっと彼女は、当たり前に快斗君とそういう日々を過ごしてたんだろうことが、あの瞬間気付いてしまった。
同じように出来ない自分が、惨めで仕方がない。
もっと、普通に、一緒に居たいのに。
それが出来ないの、快斗君だって、知ってるはずなのに。
どうして。
嫌だよ。
…ああ。
こんなぐるぐるした気持ち、いつもはちゃんと、整理するのに。
「他の子なんか、乗せないでよ…!!」
こんなこと、言いたくなかった。
うざいと呆れられて、嫌われてしまったら。
「も、やだ…!」
こんな自分を見せたくないから、会いたくなかったのに…!!
堰を切ったように、子供のようにしやくり上げて。
息すらままならない。
やだ、もう。本当やだ。
そこで。
ようやく顔を固定されていた手が離れた。
そのまま、白いタキシードの中に優しく包み込まれ。
あやすように背中を、ぽんぽん、とさすられる。
引き攣るようにしていた呼吸を、ゆっくりと落ち着かせるような、その動きに。
感情が馬鹿になっている私は、更に涙が溢れでてしまう。
「本当、俺が悪かった。もう二度と、杏以外の女乗せない。つうかむしろバイク乗らねぇ」
ひ、ひ、と。しゃくりが止まらない私の背中を、ずっと優しくさすってくる掌は、先程よりいくらか暖かい。
いや、バイク乗らないとか。私のわがままに何を言ってるんだと思うけど。
感情のまま叫んで、子供のように泣いてしまった所為で、息を吐いたり吸ったりするのがやっとの状態の今は、何も言葉が出ない。
「──ごめんな。杏、辛いって泣いてんのに。俺、なんかちょっと嬉しい」
「…っぇ」
何言ってるんだ。大分嫌な女じゃないか。
「すげぇ、全力で好きって言われてる感じ──って、まじごめん、不謹慎だな」
結構、惨めでめんどくさい女な発言をかましたと言うのに。
本当にそう思ってるかのように笑うので、思わずしゃくりも止まった。
驚いて見上げた私に、モノクルの奥の蒼い瞳が絡む。
「今くらいの言葉じゃ、わがままにも入んねぇよ?杏になら『他の女なんて視界に入れないで!』くらい言われても、俺としては全然嬉しいくらいで。まあ、巨乳なオネェさんが居たりしたら、一瞬そちら側に目は奪われちまうかもしんねぇけど。そん時、もし杏が泣いて怒っても、うざくもなんともねぇよ。むしろ可愛いくらい」
「…そこまで、言って、ないよ」
「知ってる。杏ちゃんはもっと俺に甘えて良いっちゅー話」
私が落ち着いたのを感じ取ったのか、背中を撫でていた手が離れ、その手が私の側頭部の髪の毛を攫う。
白い手袋に、私の髪の毛が絡むのが、横目に見えた。
「──杏が、いつもすげえ気持ち強くしてさ、普通に笑ってんの。俺、わかってるつもりで、ちゃんと分かってなかったよな。多分、杏がそうして笑ってっことで、浅黄さんも、緑っ君も、馨さんも。ほんで多分杏のお袋さんも。皆結構救われてる。もちろん、俺も」
そこまで言って、キッドさんな快斗君の顔が近付いてくる。
う、わ。
キッドさんが、間近に…。
思わずぎゅ、と目を瞑ると、目元に柔らかい感触。
涙を舐め取られたのだと、そこで気付いた。
「そうやって、ちゃんと笑ってられる杏が好きだ。でも、辛くなった時は、やだなって思った時は。俺だけには、こうして吐き出してくれると安心する。俺、全然ダメダメで、多分杏のこと、知らねぇ間に沢山傷付けてっかもしれねぇ」
そんなことない。
全然、そんなことないのに。
違うんだ、と言いたくて勢いよく面を上げると。
真っ直ぐで、真摯な面持ちな快斗君がそこに居て。
どくり、と心臓が音を立てた。
「だけどさ。こうしてまだ、側に居ても良いか?」
せり上がってくるように、また喉元が熱くなる。
枯れることなく涙が溢れる私の目元に、苦笑しながら再び唇がよせられて。
側に居てもいいか、なんて。
こっちの台詞なのに。
こんなめんどくさい女。
貴方の側に居ていいのかな、なんて思いは、頭のどっかにいつも残ってた。
ひどく惨めで、汚い心の内を叫んだのに。
モノクルに映る私の顔は、そりゃもう酷い顔なのに。
どうして、そんな愛しげな顔で私を見つめてくれるんだろう。
ふるふると首を振って、ぎゅ、とこちらからその首もとにしがみつく。
私が、貴方の側に居たいんだと。
貴方に伝わるように。
汚くて、惨めで、情けなくて。
普通じゃなくても。
当たり前のように出来るはずのことが、一緒に出来ないことが、沢山あっても。
ねえ。
それでも、いいの?