#84
私が抱きついたと同時に、はーーと、深く息を吐く音が届いた。
「良かった…ちゃんと間に合って」
「…間に合ったって…?」
こちらとしては、明日には何もなかったようにいつも通りにする予定だったんだから、間に合うもなにもない気がする。
別れるつもりなんて、当たり前にあるはずも無くて。
そう。みっともないところを見せてしまっただけで。
──そんな私を受け止めてくれたのは、すごく嬉しいけれど。
「ん。良いの。俺の自己満だから。杏が泣くのは俺の前でいて欲しいっていう、俺のワガママ」
ぐりぐりと、顎で頭頂部を擽られる。
目の前で揺れる赤いネクタイが目に入り、そういや、快斗君は今、キッドさんだったと、今更ながらに改めて思い。
思わず身動ぎしてしまった。
「──ん?…あー、」
──ごめんな、黙ってて。
私の動きに、私が今思い至ったことに気付いたのだろう。
そう、静かな声が頭上に響いた。
ふるふると首を真横に振る。
感情的になって、ついあんな風に言ってしまったけれど。
言いたくないはずのことを、本当は聞くつもりは無かった。
──怪盗。
それは、世間一般的に許されない行為。
快斗君も、そんなことぐらい全て承知だろう。
それでも、そのリスクを背負ってまで、キッドさんをし続けているということは、きっと。
快斗君にとって、大きな意味のあることなはずで。
それを誰かに話すのは、大きな決断がいることだと思う。
──杏さんは、私のしていることは、馬鹿みたいな行為だと思いますか?盗んでは元に返し、を繰り返す、ただの愉快犯だと。
キッドさんが私に吐いた、小さな弱音。
きっと、怪盗キッドをするということは。
沢山迷って、そうして出した、快斗君の決意なんだ。
そんな秘密を、そりゃあ、簡単には言えないよ。
「──弱っちいこと言うと。まだ、杏に言わなきゃいけねぇことあんだけどさ。ちいっとだけ、待ってくれるか?」
そこで、キッドさんが私の肩を持って、対面する形に変わり。
真剣な蒼い瞳が、私をじっと見つめてくる。
「──絶対。全て終わらせたら、ちゃんと言うから」
真っ直ぐな想いが、声に含まれているのを感じて。
こくり、と頷くと、再びぎゅ、と抱きしめられた。
「こんな時に言うのもどうかと思うんだけど、さ。──俺が、キッドでも。杏は変わらず笑いかけてくれる?」
どこか、不安げな声でそんな事を聞いてくるのが、少し不思議で。
私がキッドさんファンのことは、快斗君も知っていると思っていたのだけれど。
ああでも。そうか。
と理解する。
私が、普通の身体とは少し違う事。
快斗君には、特に知られたくなかったように。
快斗君だって、キッドでもなんでもない、普通の高校生の『黒羽快斗』として、何も知らない私と居たかったのかも知れない。
そんなことで、嫌いになったり、嫌になったりするわけないのに。
それでも。『そんなこと』と、私が思ってたって、快斗君にとってはそうじゃないことなんだ。
今、私に。
言葉にして快斗君が『そんなこと』で嫌いにならない、と言ってくれたみたいに。
私だって、ちゃんと、伝えないと。
大泣きして、鼻水まで啜ってる中だけど。
今出来る限りのめいっぱいで、口角を上げて。
笑顔を作って、快斗君の方へと顔を上げた。
私の動きに気付いた快斗君と目が合って。
私の顔見て、少し瞳を瞬かせている。
しまった。
やっぱりすごくぶさいくな笑顔になってしまっているかもしれない。
「──快斗君ほど高スペックな男の子そう居ないから。多分、快斗君に『俺実は、火星人なんだ』って言われても、私は多分納得しちゃうし」
快斗君が何言ってんのこいつ、という顔をしたのが、モノクル越しでもわかる。
うん、自分でもちょっとやらかしたかな、と思わなくもない。
でももう後には引けない!
お構い無しに続けさせてもらおう。
「何でも出来ちゃう快斗君の実態は、実はアメーバだったりするのかもしれないと、思わなくもないし」
アメーバ…と快斗君が若干渋い顔をして、私の顔を覗き込む。
アメーバはいくらなんでもダメだったかな。
快斗君に伝えたい気持ちがあるのに。言葉を紡ぐ度に、なんだかどんどん、ドツボにはまっていってる気がする…。
「んーと。杏ちゃん、まだ怒ってる…?」
んー!違う!
やっぱり言葉選びが可笑しいよね!申し訳ない。
でも、こんな困惑した顔の快斗君は、中々お目にかかれないし。
もう、アメーバのままでいいや。このまま進んじゃおう!
今言わないで、いつ言うのって話!
「だからね!快斗君がアメーバでも、火星人でも。なんなら、みみずだってオケラだってアメンボだって。どんな貴方でも、私にはただただ大好きな黒羽快斗君なんです。勿論、キッドさんだったとしても、だよ!正直、快斗君がキッドさんなんて、私には一粒で二度美味しいくらいだし」
そこまで一息で言い切って。
もう一度、にかりと不器用に笑みを作った。
大泣きに泣いた後に、可愛く笑えてる自信はないんだけど。
それでも。
私の馬鹿みたいな笑顔に、キッドさんの格好をした快斗君が、安心したように形相を崩してくれたから。
「──俺が、杏の涙を止めに来たはずなのになぁ」
…これじゃ、俺が慰められてんじゃねえか。
そんなことを、独り言のように呟いたと思ったら。ぼすり、とまるで倒れこむように、再び真っ白な身体が私を包み込んで。
「…あんがとな」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だったけど。
ちゃんと、聞こえたよ、快斗君。
応えるように、私もぎゅ、と抱きしめ返した。
しばらく心地いいような沈黙の中、そうして抱き合っていたけれど。
まだ、身体が冷え切ってるなぁと思い「寒くない?」と快斗君に尋ねてみた。
──すると。
何かを思いついたかのように、にやりと笑ったと思えば。
快斗君の雰囲気が一変して。
ひんやりとした夜の帳が下りてきたような。
その、凛とした雰囲気は。
「では、折角ですので。暖めてもらうついでに──私も美味しく頂いて貰いましょうか」