121

翌朝ふと意識が浮上してゆるりと目を開け、真っ先に目に入ったのは褐色の胸元だった。何も見なかったことにして再び目を閉じる。
…静かな寝息が聞こえる。大丈夫、透さんはまだ眠っているようだ。じわじわと羞恥に苛まれて思わず両手で顔を覆う。恥ずかしさに殺される。
じんわりと腰が重く、小さく身動ぎすると鈍い痛みが走った。当然のことながら透さんも私も何も着ておらず、透さんの腕は私の背中に回されている。
昨日何があったか忘れているわけじゃない。忘れられるわけがない。嬉しくて幸せであたたかくて気持ちよくて、…その、最高の夜、というやつだった。透さんはどこまでも私を大切に扱ってくれたし、性行為の経験はあってもこんなに大切にされたことのなかった私にとっては、とても新鮮な経験だった。ただただ気持ち良かった。途中で意識もぶっ飛んでいた気がする。変なことを口走っていなければいいんだけど。
そっと手をどけて、彼を起こさないようにちらりと視線を上に上げる。すうすうと静かな寝息を立てながら眠る、あどけない透さんの顔があった。…なんだか少し幼く見えるなと思えば胸が甘く疼く。…可愛い。
…私は昨日、透さんとひとつになったんだ。この世界に来た時には考えもしなかった。彼のことを好きになってからも、考えられなかった。想いの先にこんな最上の幸せがあるなんて、思わなかった。
本当に好きな人と肌を重ねるって、こんなに気持ちが良くて幸せなのだと知った。きっと透さんとじゃなきゃこんな気持ちは知り得なかっただろう。
…好きだなぁ。昨日も散々口にした記憶があるけど、やっぱり私はこの人が好きで…きっとこの先も、この人以上に好きになる人なんていない。
急に透さんにキスがしたくなって、そんなことを考えた自分に恥ずかしくなる。だって、好きなのだから仕方がないのだ。

「……、…」

せめて、と思いながら彼の胸元に頭を寄せた。恥ずかしいけど、でも、こ、恋人なんだから…これくらいはしたっていいはず。
…でも、私はひとつ気掛かりなことがあった。私はどろどろに溶かされてしまうような勢いで、気持ちが良くてたまらなかったけど…透さんは、どうだったんだろう。気持ち良いと感じてもらえていたんだろうか。私も余裕がなくて、透さんがどんな顔をしていたかとかどんな息遣いをしていたかとかはっきりとは覚えていない。せめて少しでも気持ち良かったと思ってもらえていたらいいなと思いながら、そんな不安を押し込めるように小さく息を吐く。
ふと、背中に回されていた透さんの腕が私の体を抱き寄せた。突然のとこに小さく悲鳴を上げる。

「っ、と、透さん…!」
「…おはようございます、ミナさん」

顔を上向けて視線を向けると、優しくこちらを見つめる透さんの瞳に息を飲んだ。ブルーグレーの瞳は柔らかく細められていて、窓から差し込む光を受けてきらりと光っている。瞳の奥に込められた感情は甘く、見つめ合うだけで頬に熱が上がる。

「…お、…はよう、ございます…」

詰まりながらもなんとか言葉を返せば、透さんはくすりと笑って両手で私の体を抱きしめる。透さんの胸元に顔を寄せる形になって、羞恥に体がぎしりと強ばる。
恥ずかしい。昨晩のことも少しずつ思い出してきて羞恥が止まらない。

「今日は日曜日ですし、あなたも仕事はお休みでしょう?まだもう少し寝られますよ」
「…透さんは、今日は…?」
「僕は昼過ぎからポアロに。でもそれまではのんびり出来ます。せっかくですし、二度寝しませんか?」

部屋の時計を見れば、まだ七時半を過ぎたところ。もう一眠りしても昼前には起きられるだろう。
二度寝はとっても幸せなことだ。それも透さんと一緒なら尚更幸せだ。好きな人とのんびり朝の時間を過ごし、共に微睡んで挨拶を交わす。贅沢な時間の使い方にとくりと胸が高鳴った。
優しく頭を撫でられて、うとうとと意識が微睡んでくる。体から力が抜けてゆるりと目を閉じれば、額に唇が押し当てられるのを感じた。

「お休みなさい、ミナさん」

眠気に意識が沈んでいくギリギリのところで透さんの声を聞いた。それに言葉を返すだけの意識はなくて、せめてと思いながら目を閉じたまま透さんの胸元にキスを落とす。私が幸せであると、彼に伝わるように。
そうしてすぐに、揺り籠のような安心感の中私の意識は白く溶けて行った。



ふわりと意識が浮上して、頭を繰り返し撫でられている感触に小さく身動ぎした。くすりと笑う気配。透さん以外にいるはずもない。
次に目を覚ました時には、透さんはもう起きてしまってベッドにはいないかと思っていたけど、ずっとそばに居てくれたんだ。そのことが嬉しくて無意識に彼の胸元に頬を寄せる。
今は何時だろう。あれからどれくらい経ったんだろう。そろそろ起きた方が良いかな。でももう少しだけこうしていたいな。ぼんやりとしながらそんなことを考えて、ゆるりと目を開ける。

「…よく眠っていましたね。おはようございます」
「…おはようございます、透さん」

二度目のおはようは一度目よりもどこか甘く。透さんを見上げると、優しく笑いながら私の頭を撫でてくれる。透さんのこの表情と優しい手のひらに、私はきっとどこまでも溶かされてしまうんだろうな。

「…今、何時ですか?」
「十時を過ぎたところです。…そろそろ起きますか?お腹も空いたでしょう」
「…空きました」

ぐぅ、とお腹が鳴ってしまって透さんがクスクスと笑う。…こんな至近距離にいたら確実に聞こえるよなぁと恥ずかしくなるものの、透さんが笑ってくれるならそれでもいいかなんて思って苦笑した。
透さんはそっと体起こすと、私にシーツを掛け直してからベッド下に落とされていた下着やシャツを身に着け始める。そんな彼の背中に小さな引っ掻き傷を見つけて、ぼっと顔が熱くなった。

「…?どうしました、ミナさん」
「……いえ、その」

いくらなんでも夢中になってしがみつきすぎだ。透さんの背中に傷を付けて尚気付かなかったなんて恥ずかしさと申し訳なさで埋まる。
何とも答えられずシーツに顔を埋める私を見て、透さんは不思議そうに目を瞬かせながら首を傾げ…すぐに、何のことか思い当たったようで小さく笑った。

「僕も余裕がなかったので…おあいこです」
「………おあいこ?」

シーツから顔を出して眉を寄せれば、透さんはにこりと笑い身なりを整えて立ち上がった。

「朝食を作りますから、ゆっくり着替えて来てくださいね」

そう言って透さんが和室を出ていく。部屋の外でハロに出迎えられたのか、ハロをあやすような彼の声を聞きながら、私は目を瞬かせながら首を傾げていた。
余裕がなかったのでおあいこ?…それってどういう意味だろう。おあいこというのは、私が彼の背中に爪痕を残してしまったということに関してのはずだけど…。
ひとまず、と私は体を起こし、ベッドの下に落ちていたシャツに手を伸ばす。それを着ようと自分の体に視線を落として…絶句した。
腹部。それから胸元。手首の裏。至る所に散る、赤いキスマーク。
え…全然覚えてない。首の辺りは鏡を見てみないと分からないけど、絶妙に服で隠れる辺りに痕が付いているのがなんとなく透さんらしいというか…。
唯一この季節見えるであろう手首の裏のキスマークにそっと触れる。覚えていないけど、ここにキスされた時のことを想像して、胸がきゅうと痛んでたまらない気持ちになった。
手首を口元に寄せて、その痕に唇を重ねる。幸せが過ぎて、視界がほんの少しだけ滲んだ。
私、こんなに涙脆かったっけ。


***


「おはよう、ハロ」
「アンッ」

身なりを整えてダイニングキッチンの方に行くと、ご飯を貰って満足した様子のハロが出迎えてくれた。パタパタと尻尾を振りながら私の足を軽く前足で引っ掻いている。
ハロを抱き上げてキッチンに立つ透さんに歩み寄ると、透さんは私の方を軽く振り向いて小さく笑った。それから、焼いたばかりであろうふわふわと卵焼きの欠片を菜箸でつまみ、それを私の口元へと寄せてくる。
少し気恥ずかしくなりながらも口を開けてその卵焼きを食べれば、ふわふわの卵本来の甘さと程よい塩加減、それからごまの風味が広がる。卵とごまを混ぜて焼いているみたいだ。香ばしくてとっても美味しい。

「…美味しいです…」
「ふふ、良かった。もうすぐ出来ますから、少し待ってくださいね」
「いくらだって待ちます。…何かお手伝いをしたいんですけど」
「…そうですね。それじゃ、ご飯をよそってくれますか」
「了解です!」

ハロを一度床に下ろすと、シンクで手を洗ってからお茶碗を手に炊飯器に歩み寄る。ご飯は昨日の夜炊いたものの残りだ。杓文字で私と透さんの分のご飯をよそって先にテーブルへと運び、ついでにお箸も用意しようと思って食器棚の引き出しからお箸を二膳取り出す。
この世界に来て、透さんと一緒に生活するようになって、最初は何も無かった私の私物も少しずつ増えた。それは私が自分で買ったものもあるけど、家にあるものは大体透さんが知らぬうちに買い足してくれたものが多い。
私用のマグカップとか、お茶碗とか。このお箸もそうだ。
洗面所にある歯ブラシやコップも、私の存在を許すように置かれている。それは私が気を遣わないようにという配慮からか、ふと気付いたら増えているということばかりだった。私用のものなのに、馴染んでからその存在に気付くといったことの方が多かったように思う。

「どうしたんですか?」

お箸を持ったままじっとしてる私を不思議に思ったんだろう。透さんが少し心配そうな声色で声をかけてきて、はっとして顔を上げる。

「あ、いえ。なんでもないんです」
「体の調子、悪いですか?どこか痛いとか」
「い、いいいいえっ!体の調子は大丈夫です…!」

腰の辺りに鈍痛があるのは否めないけど、それは…なんというか、幸せの痛みだからむしろ愛おしいくらいで。なんて考えて恥ずかしさに撃沈した。自爆してどうする。

「でも、何が考えているようでしたので」

透さんに言われてそっと視線を上げた。
多分、純粋に心配してくれているんだと思う。お箸を持ったままじっと動かなくなればそれは確かに心配するかもしれない。不審すぎる。
うう、と呻きながら、私は再び手にしていた二膳のお箸に視線を落とす。元から家にあった透さんのお箸と…透さんが買い足してくれていた、私のお箸だ。臙脂色のお箸は品が良くて、それでいて可愛い模様も入っていて。大切に使っていきたいなぁと思う。

「…その。…私、ここにいてもいいんだなぁ、…って思って」

ここに来た当初は早く自立できるようになって出ていかないとって思っていたけど、結局仕事をできるようになり、自分である程度の稼ぎを持てるようになった今も、私は変わらずここにいる。
最初はよそよそしいと感じることもあったこの部屋が、今では私にとっての安心できる我が家だ。そう感じられるのはこの部屋に少しずつ増えた私の私物と、透さんの存在がやっぱり大きいと思う。
居候から、同居へ。そして今は…透さんとの関係性も変わって、もしかしたら…同棲、ということになるのかもしれない。恥ずかしくてたまらないけど、それ以上に幸せだ。

「ごめんなさい、変なこと言って。…なんか、幸せだなぁって…思ったんです」

願わくばこのままずっと続いて欲しいと思う。透さんとの幸せな生活を、ずっと続けていきたいと思う。

「ここにいてもいい、ではないんですよ」

透さんは私に歩み寄ると、私の頭を優しく撫でながらこつんとおでこを引っ付けた。唐突に縮まった距離に小さく息を呑むと、彼はくすりと笑う。

「僕が、あなたにここにいて欲しいと思っているんです。僕のわがままですよ」
「っ、そ、そんなことないです…!」

透さんのわがままなんてとんでもない。だって、私だってここにいられることを望んでいるんだからわがままなんかじゃない。
私はここにいたい。透さんのそばにいたい。その為に、彼の隣に立てるように…もっと、いろんなことを頑張りたいと思う。

「…私も、ここにいたいです」

だから、いさせてくださいね。
私がそう呟くと、答えの代わりに優しい口付けが降ってきた。


Back Next

戻る