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優しく頭を撫でられる感触にゆるりと意識が浮上する。さらさら、さらさらと髪を撫でられるのが心地よくて、胸が詰まるほどの多幸感を感じて私は温かい体にそっと身を寄せる。すると頭上から小さく笑う気配がして、私はますます彼の胸元に頬を寄せた。
…昨日も、とても幸せな夜だったなと目を閉じたまま考える。怪我が治ってようやく透さんに触れてもらえた夜。幸せで人が溶けるとしたら、きっと私は昨日どろどろに溶けていたに違いない。…彼に溶かされたのは間違いないけれど。
透さんと肌を重ねたのは二度目だったけど、一度目も二度目も幸せでいっぱいで溶かされてどうしようもない。
彼に触れる度、触れられる度にもっと透さんのことが好きになる。好きという気持ちに果てはあるのだろうか。こんなにどんどん透さんのことが好きになってしまって、ある日突然好きの気持ちがいっぱいになってしまったらどうしよう。いっぱいになったらどうなるんだろう。もしくは、果てがなくてこの好きという気持ちがもっともっと大きくなって、大きくなり続けてしまったらどうなるんだろう。いつか大きくなりすぎた好きという気持ちに押し潰されるんじゃないかと心配になる。
なんだかたまらなく怖くなって目を開けた。

「おはようございます、ミナさん」

顔を上げれば、柔らかく微笑む透さんがこちらを見つめていた。眦は優しく下がり、穏やかな光を湛えた瞳は甘く揺れている。
…愛おしいと、目で語るようなその様子に顔が熱くなる。自惚れなんかじゃないと思えるようなその瞳に、頬に熱が上がる。真っ直ぐに向けられる、その、愛情…というのだろうか。私には刺激が強すぎる。…恥ずかしくてたまらなくて、でも嬉しくて幸せで、死んでしまいそう、なんて。

「お、…おはようございます」
「よく眠れました?」
「…はい、」

透さんの目をずっと見ていられなくて、照れを誤魔化すように彼の胸に額を押し付ける。彼はまたくすりと小さく笑って、私の体をぎゅうと抱きしめてくれた。
直接触れ合う肌が気持ちいい。ずっとこうしてくっついたまま朝を微睡んでいたいけれど、透さんは今日もお仕事だ。あと少しだけ、と思いながら目を閉じていたら、身動ぎした透さんの唇が額に触れるのを感じて瞼を上げる。

「名残惜しいですが、朝食にしましょうか」
「…はい。…お腹空いちゃいました」

へらりと笑えば透さんも優しく目を細めてくれる。額をくっ付けてじゃれ合うように少し笑って、おはようのキスをした。



透さんと肌を重ねて二回目でようやく気付くのもどうかと思うけど、和室の外に置いてあるハロのクッションベッドは、まぁなんというか、こういう時のために買った…らしい。
そりゃ、ハロがいる前で…なんて考えるとどことなく気まずいし、…犬だろうと透さん以外の視線を感じながらというのはやはり落ち着かないし、そういう意味でハロ専用のクッションベッドの存在は純粋にありがたいと思う。
そもそも裸になるということ自体が落ち着かないのに。透さんの前で裸になるのはどうしても恥ずかしいし慣れそうにない、そんなことをぽろりと漏らしたのだけど、その直後に苦笑した透さんから聞かされたことに言葉を失った。

「…実は、その。僕、寝る時に服を着るの、本当は苦手なんです」
「へっ」
「ミナさんと会うまでは裸で眠っていましたから。…さすがに女性を前にそんな真似は出来ませんから、服を着て寝るようにしていましたけど」

なんということでしょう。
透さんの家に転がり込んで、不便な思いは確実にさせてしまっているとは思っていたけど…まさか睡眠事情に踏み込んでしまっていたとは思わなかった。
透さんは日々忙しく、日々お疲れの人だ。そんな人にとって睡眠がいかに大切か考えなくたってわかる。

「……そんな…今まで私は透さんの睡眠のお邪魔を…」
「その程度で睡眠不足になったりはしませんよ、苦手と言うだけで別に寝れないわけじゃないですし、そもそも僕がお伝えしていなかったからあなたは知らなくて当然でしょう」

透さんは苦笑してくれるけど、申し訳なさでいっぱいになって肩を落とす。すると透さんはどういう訳か、にっこりと笑った。

「…それじゃあ、これからは脱いで寝ても?」
「ひぇ」

そんな笑顔で言われてしまうと上手く言葉を返すことが出来ない。顔が熱くなるのを感じながら一歩小さく後退りした。
確かに、二度。…二度、裸の透さんと一緒に寝てはいるけど。でも肌を重ねてそのままの流れで裸のまま眠るのとはまたちょっと意味が違ってくるというか、その、とても恥ずかしい事のように思えるのは何故だろう。当然ながら透さんが裸で寝るのが恥ずかしいのではない、そんな彼と一緒に眠る私が照れてしまうという話である。

「…ダメですか?」
「う…」

でも透さんの睡眠を邪魔したくはない。出来るならたっぷり、ゆっくり、毎日寝て欲しいのだ。よく眠れるようになるなら、私の羞恥心くらい大した問題ではない…と、思う。

「…その、…下を履いてくださる…なら…」

さすがに全裸は恥ずかしさで私の睡眠が危ぶまれそうなので。そう告げると、透さんはクスクスと笑いながら「ありがとう」と言うのであった。


***


ポアロに出勤するという透さんを見送り、食器洗いや洗濯などの簡単な家事を済ませた私は、ハロにしばしのお別れの挨拶をしてから家を出た。米花駅前で手土産のお菓子の詰め合わせを二つ購入。ひとつは毛利さ家の皆様にだけど、もうひとつはまた別だ。蘭ちゃんの元に行く前に、私は行かなくてはいけない所がある。そこでの用事を済ませてから、蘭ちゃんの家に向かうつもりだ。
のんびりと米花駅から歩いて十五分程度。見えてくる丸いフォルムのお家を通り過ぎて、そのお隣へ。
この時間お家にいるかなと少し不安だったけど、チャイムを鳴らせば目当ての人はすんなりと出てきてくれた。

「こんにちは」

ぺこりと一礼。目当ての人…沖矢昴さんは、ドアから顔を覗かせたまま少し驚いているようだった。連絡も何もなしに来たから無理もないが。お忙しかったかな、やっぱり先に連絡を入れておけばよかったかな。眉を下げながら、とりあえず何か言わなければと口を開く。

「突然すみません。…えっと、なんと申しましたら良いのか…」

沖矢さんはコナンくんと仲良しだし、多分今回の事の顛末もコナンくんから聞いているんじゃないかなと思いせめて自分の口からご報告だけでもと来てみたのだが、どう切り出せば良いのかわからなくて視線を下げる。
…もうちょっと考えてくれば良かったな、と思っていたら、沖矢さんは少しだけ開けていたドアを大きく開いてくれた。そちらに視線を向けると、ほんの少しだけ苦笑した彼と目が合う。

「ひとまず、中へどうぞ。立ち話も何でしょう」
「あ、えっとそれじゃ…お邪魔します」

大きな門を開けて中に入り、沖矢さんに促されるまま工藤邸へと踏み込む。
相変わらず家主である工藤一家は留守のようで、広いお屋敷の中は静まり返っている。…沖矢さん、ここに居候させてもらってるんだっけ。こんな広いお家に一人で過ごしていて、寂しくなったりしないのかな。…確か大学院生と言っていたっけ。勉強とかいろいろ忙しくて寂しく思う暇もないとか?…いや、でも案外沖矢さんってこう、のんびりしているイメージなんだけどな。
沖矢さんに客間に案内されて少し待つように言われる。沖矢さんは部屋を出ていったけど、しばらくしたら紅茶のカップ二つを乗せたトレイを手に戻ってきた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます…」

とりあえず勧められるままに紅茶を口にする。…沖矢さんに紅茶を淹れてもらうのも何度目かになるけど、やっぱり良い香りで良い茶葉を使ってるんだろうなぁと思う。すごく美味しくてほっと息を吐いた。

「突然で驚きました。…少し、お久し振りでしょうか?最後にお会いしたのはスーパーでしたね」
「うっ、お久し振りです…あの時は多大なるご迷惑を…。お陰様で元気になりました…」

そう言えば沖矢さんと最後にお会いしたのは、私が風邪でフラフラになりながらスーパーに買い物に行った時だったな。…帰り、アパートの近くまで沖矢さんの車で送ってもらったんだった。今更思い出して頭を抱える。

「…そのぅ、よろしければこちらをお納めください…」
「?…これは?」
「…お詫びの品です…」

駅前で買ったお菓子の詰め合わせの箱を差し出すと、沖矢さんは不思議そうに首を傾げた。ひとまず受け取ってはくれたものの、やはり首を傾げたまま箱を見つめている。

「お詫び、ですか」
「はい…。あの時、送ってくださってありがとうございました。…それから、いろいろと心配もおかけしてしまったと思うので…。…その、私に似た人物のこととか、」
「あぁ、すみません。そのことなんですが、僕の勘違いだったようです」
「えっ?」

あれ、と思って目を瞬かせる。さらりと勘違いだったと話を終わらせられて、私が言葉を続けようにも沖矢さんは小さく笑いながら軽く肩を竦めて口を開いた。

「それより、コナンくんからミナさんが交通事故に遭って記憶喪失になったということを聞いて心配していたんです。見たところ元気そうですが、もう大丈夫なんですか?」
「え、あ、はい。怪我の痛みもないですし、来週の月曜日からはまた仕事にも復帰しますので」
「そうですか、それは良かった。コナンくんから状況は聞いていましたが、やはりご本人の口から聞くのが一番安心しますからね」

やっぱり、コナンくんからいろいろ聞いていたみたいだ。話題を急に変えられてしまったことに違和感を感じるも、沖矢さんの纏う空気が話を戻すことを拒絶している…ような気がした。変わらず穏やかに微笑んでいるのに、逆らえないような圧を感じる。
私が戸惑っていたら、沖矢さんは小さく笑った後に菓子折りを見つめて苦笑した。

「にしても、二度目ですか」
「えっと…?」
「本来なら僕からあなたに快気祝いを送るべきでしょう。あなたからまたいただいてしまうとはね」

最初にこのお屋敷に沖矢さんに会いに来た時も、手土産を持ってきたんだった。私的には心配をかけてしまったお詫びのつもりだから何も間違っていないと思うんだけど、快気祝いと言うと私が確かに貰う側になるんだろうな。私がしたくてやってることだしあまり気にしないでもらいたい。

「ありがたくいただきます。…代わりに、今度何かご馳走させてください」
「そんな、申し訳ないです」
「僕だって貰いっぱなしでは申し訳ないんですよ。なんでもあなたの好きな物をご馳走しますから、考えておいてくださいね」

沖矢さんはそう言うと満足そうに笑って、紅茶のカップを口に運んだ。
…口を挟む隙もない。口を挟む隙がないというよりは、口を挟む気が無くなるというか…従わないといけないかな、みたいな気持ちになってしまう。
前々から思っていたけど、沖矢さんって不思議な人だ。大学院生と言うには少し信じ難いというか…もっと重たい、強い気配のようなものを持っている気がする。…気がするだけだけど。

「ひとつ、聞かせてください」

沖矢さんの声に、無意識に下げていた視線を上げる。
ほんの少し開いた瞳。緑色の瞳が、じっとこちらを見据えていた。その真剣な眼差しに小さく息を飲む。

「…安室さんのことを、あなたは変わらず好きでいますか?」
「…へっ?」

あまりに予想外の問いに私の顔はかっと熱くなった。
いや、確かに沖矢さんは私が安室さんのことを好きなことを知っているけれども。恋愛相談に乗って頂いたこともあるけれども。突然言われて頭がやや混乱する。
変わらず好きでいますか、って。当然だ。私が透さんのことを好きじゃなくなる理由がない。むしろ日々彼に惹かれてどうしようもないと言うのに。
返答に迷いながら熱くなった頬を手で押さえれば、沖矢さんはくすりと笑った。

「いえ、失礼。不躾でしたね。…あなたの顔を見れば答えは明白のようだ」
「え、ええっと…」

ぱちり、とゆっくり目を瞬かせた。
一瞬だけ見えていた緑色の瞳はもう閉ざされていて、先程までの真剣な空気は霧散している。
戸惑って首を傾げる私を見て、沖矢さんは「あなたはどうか、そのままで」そう言って、穏やかに微笑んでいた。


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