この浜辺は由比ヶ浜と違い、あまり人は多くないが、家族連れや、犬を連れた人々がのんびりと思い思いに時間を過ごしている。
遙は俺の手を離し、波打ち際へと歩いて行った。
波が寄せては、その波に濡れないように、浜辺へと戻ってくる。
そして、波が引いては、その波を追いかけるように海の方へとそろそろと歩いていく。
普段は少し大人びた遙の表情は少女のようにあどけなく、嬉しそうに緩められた口元が堪らなく可愛らしい。
波と戯れることのどこが面白いのかよく分からないが、遙が楽しそうにしているので、俺まで嬉しくなる。
きらきらと陽光が反射している水面と同じくらい、遙の笑顔が眩しくて。
胸がきゅうっと締め付けられたような気持ちになる。
出来れば、遙の姿をこの風景から切り取って、誰にも見られないところに封じ込めておきたい。
波打ち際で遊ぶ遙の足元を、年の頃は3歳ほどの幼子がちょろちょろと歩いていく。
そして、海へ入っていく様子を遙は微笑ましそうに眺めていた。
その子供がキャッキャと声を上げ、波と戯れる。
遙は一層目を細めて、微笑を湛えてじっと子供を見つめる。
俺が疱瘡を患う前は、母上もこういう笑顔で俺を見つめてくれていたような遠い記憶が蘇る。
と、少し大きめの波がやってきて、その子供が頭まで波に飲まれ、転んでしまった。
波が引いた後、子供は波打ち際に座り込んで大声を上げて泣き出した。
しかし、子供の両親がやって来る気配はない。
遙はちらりと周りを見回した後、すぐに子供を抱き上げた。
「どうしたの?水、飲んじゃった?」
子供は咳き込みながら、またうわああと声を上げて泣く。
その背中をあやすように、遙はぽんぽんと軽く叩く。
「服、濡れるぞ」
俺の方に歩いて来た遙に声をかける。
「暑いからすぐ乾くし、大丈夫だよ」
子供は甘えるように遙に抱きつき、声を上げて泣く。
あまりの声の大きさに俺は思わず顔を顰めたが、遙は優しくあやしている。
微笑みかける笑顔は慈愛に満ち溢れていて、まるで母のようで。
ドキリとする。
こうして3人で並ぶと、もしかしたら親子のように見えるのではと。
もし、俺達に子供がいたら、遙は俺の子供をこういう風に優しく抱き締めて、可愛がってくれるのでは、と。
俺を愛してくれなかった母上とは違って、いつでもこのような優しい笑顔を浮かべているのでは、と。
無性に遙と俺の子供が欲しくなる。
でも、それは叶わない望みだ。
仮に遙に子が出来ても、出産する頃には俺はもうこの世界にはいない。
それでも願わずにはいられない。
遙と暮らして、子を成して。
共に育てていきたい。
遙の優しさに包まれて。
「あ、そうだ。お姉さん、ジュース持ってるから、それを飲みなよ。海水飲んじゃったんでしょ?」
なかなか泣き止まない子供の顔を覗き込んで、遙はふわりと微笑んだ。
遙は器用に片腕で子供を抱えると、バッグからペットボトルを出す。
「ごめん、政宗。ふた開けてくれる?」
「ああ、いいぜ」
ペットボトルのふたを開けて遙に手渡すと、遙は子供にそれを持たせ、ジュースを飲ませる。
大声を上げて泣いていた子供は泣き止み、つぶらな瞳に涙を溜めたまま、ジュースを飲んだ。
子供は満足したのか、ペットボトルを俺に差し出した。
それを俺が受け取ると、子供は遙の胸に甘えるように頬を寄せて抱きつく。
「おねえちゃん、ありがと」
「ちゃんとお礼言えるの、えらいね」
遙がそっと抱き締めると、子供は嬉しそうに笑った。
遙と子供を眺めていると、心の奥がふわりと甘くなってうずうずと疼く。
この子供がもし俺の子で。
俺も隣で一緒に笑って過ごせたら、と思わずにはいられない。
「こうして見てると親子みてぇだな。お前との子供が欲しくなるぜ」
思わずそう呟くと、遙は驚いたように目を瞠って頬を染めた。
そして、言葉を失う。
驚いて頬を染めていた表情は。
やがて、憂いを帯びた表情に変わっていった。
遙の考えていることは分かる。
おそらく俺と同じだ。
俺達は離れ離れになる運命だから。
「政宗の子供は欲しいけど…。でも、私、まだ学生だから育てられないよ。家を継がなきゃいけないし……」
「I know. 今のは忘れてくれ。俺の戯言だ」
目を伏せて哀しそうな表情をしている遙を俺は後ろから抱き締めた。
遙の腕の中の子供が怪訝そうに遙を見上げる。
「政宗は消えてしまうから。せめて子供だけでも忘れ形見で授かればって……。そんなの無理なのにね」
「そんなに子供が欲しかったら、いくらでも協力してやるぜ」
耳元で囁くと、遙はまた頬を染めて恥ずかしそうに俺を振り返った後、また哀しげな、諦めにも似た表情を浮かべた。
「あのね、私、子供が生めない身体なの、今は。結婚するまで、子供が出来ないようにする薬をずっと飲まされてるんだ。いつ何があるか分からないから、用心のために」
「遙……」
「家を守るため。それと望まない妊娠をしないためにね……。この子抱っこしてたら、何だか、子供が欲しくなっちゃったな。政宗と、政宗の子供と、こうして海で遊べたらきっと幸せなのにね……」
遙の切ない願いが胸に突き刺さる。
俺が遙と同じ世界に生まれて。
同じ大学の同じ学部に通っていたならば、きっと何の障害もなかった。
この手で遙を一生大切に守ってやることが出来たのに。
奥州筆頭という地位も、遙の前では何の役にも立たない。
足枷でしかない。
それでも、俺が消えるその瞬間までは。
俺の全てをかけて、遙を大切に守って、愛したい。
俺は遙をぎゅっと抱き締めた。
子供が唐突に声を上げて、手足をばたつかせる。
「ママー!ママー!!」
遙の首筋に埋めていた顔を上げると、20代後半と思われる女がのんびりと歩み寄ってきた。
「すみません。そこで寝ちゃってたら、いつの間にか子供がいなくなってて。あらあら、服を濡らしちゃってすみません」
「あ、いえ、大丈夫です。このくらいの年のお子さんは、30センチほどの波にも飲まれてしまうから気をつけて下さいね」
遙は、子供を母親に返しながら、そう釘を刺した。
「あ、はい。すみません!本当にありがとうございました!」
女は遙に深々と頭を下げると立ち去ろうとする。
子供が遙に向かって手を伸ばした。
「やだー!やだー!ぼく、あのきれいなおねえちゃんとおにいちゃんともっとあそぶの!」
母親の腕の中で駄々をこねてまたうわああと泣き出す子を、母親はあやし始めた。
「お姉さんとお兄さんに迷惑をかけちゃダメでしょ」
「やだやだやだー!」
「あの……私達でよければ、しばらく遊んであげますけど。ねえ、お姉さんと一緒に遊ぼうか?」
遙が子供の顔を覗き込む。
子供は泣き止み、遙をじっと見上げた。
「あの…ご迷惑では…?だって、デート中でしょう?」
デートと聞いて、遙は少し面食らったような表情になった後、恥ずかしそうに微笑んだ。
「別に私は構いません。政宗は?」
「お前の好きなようにすればいい。付き合うぜ」
俺がニヤリと笑うと、子供の母は頬を染めた。
「じゃ、じゃあ、すみません。よろしくお願い致します。いい子にしてるのよ」
「うん!」
母親が子供を下ろすと、子供は遙の脚に抱きついた。
会釈しながらビニールシートに戻っていく母親を見送りながら、遙は子供の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「ねぇ、僕。お名前は?」
「りょう!3さいだよ!ねえ、おねえちゃん、おすなあそびしよ?」
「うん、いいよ」
遙が立ち上がると、遼は遙と手を繋ぎ、俺を見上げる。
「おにいちゃんも!」
この子供は愛されて育ったのだろう。
疑うことを知らない瞳をしている。
満面の笑みを向けられて、俺もつられてくすりと笑った。
「ああ、いいぜ」
もみじのように小さな手を握り、波打ち際の方へと歩いていく。
俺には、両親とこうして手を繋いで歩いた記憶などない。
それでも、今日、この浜辺でこうして歩く家族連れをちらほら見かけては、微笑ましいような羨ましいような気持ちになっていた。
俺と遙が、遼とこうして歩いていると、親子に見えるのだろうか。
そんな期待で胸が弾む。
遙を見遣ると目が合った。
少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑む。
「何か、子供が出来たみたいで楽しいね」
優しげな、嬉しそうな微笑に胸がドキドキと高鳴る。
今まで恋する遙の幸せそうな笑みしか見たことがなかったから。
まるで母のような慈愛に満ちた笑みに、胸の奥が甘酸っぱい気持ちで満たされていく。
遙が、俺の正室で、子を設けてくれたら、と願わずにはいられない。
波打ち際に着くと、遼は砂を盛り上げて、山を作り出した。
遙も微笑みながらそれを手伝う。
山を作ると、遼はトンネルを作ろうとするがなかなか上手く行かなくて焦れている。
俺がトンネルを掘ってやると、遼はキラキラとした目で俺を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
トンネルの中に、小さな腕を伸ばして肩口まで入れて、反対側の出口に届かせようとしている。
その手を反対側の出口からそっと握ると、遼はくすくすと笑った。
「おにいちゃん、あくしゅ、あくしゅ!」
正直子供は苦手だった。
でも、疑うことを知らない澄んだあどけない瞳が可愛らしくて、笑みが零れる。
「ねぇ、おにいちゃん!うみであそぼ!」
「Okay. 溺れるなよ」
「だいじょうぶだもん!」
遼は危なっかしい足取りでぱたぱたと海へ駆け出して、波につまずき、頭から見事に転んだ。
また泣き出すかと、思わず身体を強張らせたが、遼はおもむろに起き上がり、にぱっと笑った。
ホッとしながら、大股に遼に近付く。
「You dumb ass. (バーカ)あんまりはしゃぐからだ。ほら、つかまってろ」
遼を引っ張り上げるように手を繋ぐと、遼は遙を振り返った。
「おねえちゃんも!」
遙もざぶざぶと海に入って来て、くすくす笑いながら遼の手を握った。
波が寄せては、その波を飛び越えるように遼がジャンプする。
その度にキャッキャと声を上げる様子が微笑ましい。
高い波が来ると、遙と二人で遼を引き上げるようにして、波を乗り越えさせる。
遙も声を上げて笑う。
ただ波と戯れているだけなのに。
以前の俺ならどこが面白いんだと鼻で笑いそうな遊びなのに。
遼の笑顔が眩しくて。
それを微笑ましそうに見つめる遙が愛しくて。
この瞬間が、この空気が愛しくて堪らない。
気付いたら、俺の口元にも笑みが浮かんでいた。
やがて疲れたのか、遼は俺に抱っこをせがんだ。
遼を抱き上げると、ぴとっと身体を寄せて預けてくる。
もし、俺に子供がいたとしても、俺の世界で、俺の地位の人間がこうして子供を抱き締めることはきっと叶わない。
この瞬間を大切にしたくて、俺は遼を抱き締め、浜辺に戻った。
浜辺に腰を下ろすと、遼は俺に抱きついたまま、うとうととし始めた。
遙がくすくすと笑う。
「政宗、きっといいお父さんになるよ」
「いや、それはねぇだろうな。俺は奥州筆頭だ。子供が生まれても、乳母が育てる。ある程度育ったら、小姓が面倒を見る。子供と触れ合う機会なんてねぇだろうな」
遙は笑みを消して、じっと俺を見つめた。
「こんなに羽を伸ばして、のんびりと過ごしたのは、きっと初めてだぜ。子供とこうして遊ぶのも。もしかしたら、一生で初めてで、そして、これが最後だ」
そう口にすると、この遼の温もりが尊いものに思えて、俺はぎゅっと抱き締めた。
片腕に余るほどの小さな身体が愛おしい。
遙はじっと俺を見つめながら、口を何度か開きかけ。
そして、その切れ長の目に薄っすらと涙が浮かんだ。
俺はフッと笑って遙の肩を抱き寄せた。
「そんな顔をするな。俺は楽しかったぜ?お前と、こいつと。まるで家族みたいに過ごせて。お前と結ばれて、子供が出来たら。こうして過ごせたんじゃなかったんだろうかって。いい夢が見られた」
遙は俺の肩に顔を埋め、肩を震わせた。
「泣くな、遙。幸夢は幸夢のまま終わらせようぜ」
遙は頷き、しばらく俺の肩口に顔を埋めた後、指で涙を拭って俺を見上げた。
「私も…楽しかった。幸せな夢が見られたよ」
狂おしいほどに、このまま遙とこの世界で結ばれて、幸せに暮らしていけたらと思う。
しきたりなんかに縛られず。
子を成して、二人で育てて。
こうして、子供と遊ぶ、優しい時間を過ごして。
でも、それは酷く甘く、そして叶わぬ夢だ。
俺は遙を引き寄せ、そっと唇を重ねた。
「さあ、夢が覚める時間だぜ。こいつを母親のところに返しに行こう」
「うん」
俺は片腕ですっかり眠ってしまった遼を抱き、遙と繋ぎ、遼の母親のところへ行った。
眠ったままの遼を返すと、母親は何度もお礼を言いながら頭を下げた。
軽く手を振って、二人でその場を後にする。
手を繋いでのんびりと歩いていると、鳶の鳴く声がする。
空を振り仰ぐと、大きな翼を広げた鳶が上空を旋回していた。
「生まれ変わったら、鳥になりてぇな。家柄も、しがらみもない。大空を自由に飛びまわりてぇ」
「そうだね」
遙も空を見上げる。
「どうせ鳥に生まれ変わるなら、ツバメになりたいな」
「Why?」
空を見上げたまま、遙は夢見るように続ける。
「ツバメってね、一生ただ一羽のパートナーとつがいで過ごすの。一途でいいよね。もし、政宗も私も生まれ変わることが出来るなら……」
「もし、ツバメに二人とも生まれ変わることが出来るなら、俺は真っ先にお前を見つけ出す。そして、一生離さねぇ」
俺は遙をぎゅっと抱き締めた。
深く唇を重ねて、そして耳元で囁く。
「二人で自由に空を飛べたらいいのにな」
「うん、そうだね…。『翼を下さい』って歌を思い出しちゃうな」
「どんな歌だ?」
そっと身体を離すと、遙は俺と手を繋ぎ、ゆっくりと歩きながら歌いだした。
悲しみのない、自由な空へ
翼はためかせ、ゆきたい
切ないほどに自由を焦がれた歌だ。
俺にも遙にも、家やしがらみがある。
決して自由な人生とは言えない。
遙の自由への願いは俺の願いでもある。
俺もいつの間にか、遙と一緒にその歌を歌っていた。
「翼……買いに行くか?」
「え?」
「お前と一緒に入ったaccessoryの店。翼のロケットが売ってただろ?I got the other wing to fly. お前を手に入れたから」
遙は目を瞠った後、嬉しそうに微笑んで、そして頷いた。
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