あんな風に別れた後だったから、何だか気まずい。
でも、私が彼と間違えてキスしてしまったように、政宗が想い人と間違えて私を抱こうとしても仕方がない。
寝ぼけていたのだから。
それに、大事には至らなかったし。
私は、努めて明るく振舞った。
政宗には気にして欲しくない。
あのぬるま湯のような優しい空気にずっと包まれていたかった。
政宗の温もりに溺れていたかった。
政宗が寝ている間に、カレーをスパイスを調合するところから丁寧に作って、チキンカレーを作った。
政宗は見たこともない料理に目を丸くしている。
「What is this?」
「これはカレー。インドから伝わってきたんだよ。唐辛子が入っているから辛いけど。あ…、政宗は辛いの大丈夫?」
「ああ、好きだぜ。南蛮貿易で奥州にも伝わってきた。かなり貴重だから俺もあまり食べたことはねぇが。病み付きになるな」
「そう、よかった」
いつものような食事風景だった。
何気ない会話と優しい空気。
政宗はカレーが余程気に入ったようで、目を細めて喜んでいた。
でも、私は甘かった。
一度壊れてしまったものは、二度と同じ形には戻れないんだ。
私が違和感に気付いたのは食事が終わって二人でソファに座ってテレビを見ている時だった。
今までだったらソファに座るとすぐに政宗が私の肩に手を回してきて、抱き寄せるようにして二人でテレビを見ていた。
狭いソファなので、二人で座る時には余程外に寄って座らないと、身体が触れ合ってしまう。
政宗は長い脚を組んで外側に投げ出し、ソファに手をついてテレビを見ている。
私に少し背を向けるようにして。
政宗に触れられないだけで。
それだけで、何だか今までずっとすぐそばにいてくれていた政宗が遠くなってしまったような気がした。
今もまだこうして指を伸ばせば触れられる距離にいるのに。
その数センチが深い溝のように遠い。
「ちょっと飲み物を取ってくるね」
立ち上がろうとした私は、ソファの上に着かれた政宗の手の上に自分の手を着いてしまった。
政宗の身体がぴくりと動き、さっと手を引いた。
まるで私から逃れるかのように。
政宗はハッとしたような表情で、立ち上がった私を見ている。
「Sorry, 驚いただけだ」
ううん、それは違う。
そうじゃない。
確かに驚いたのかも知れないけど。
それはただの言い訳。
本当は……私と距離を置きたいんでしょう?
愛する人と間違えて抱こうとしてしまったから。
愛する人と……。
私にだって彼氏がいた。
政宗にだって愛する人がいてもおかしくはない。
むしろそちらの方が自然だ。
なのに、それを考えると心が重く沈んでいく。
心の底が冷たく冷たく凝り固まっていく。
私は無理矢理に笑みを作った。
「やっぱり先にお風呂に入ってくる。今日はちゃんと湯船にお湯張るね」
風呂を沸かしながら、身体をゆっくりと洗っていく。
もやもやとした気持ちも一緒に洗い流したくて、私は殊更丁寧に身体を洗った。
ジャスミンの香油を一滴垂らした湯船の中に身体を沈める。
いつもはふわりと香るその香りに、身体の力がふわりと抜けてリラックス出来るのに、頭の中をとりとめもない思考がぐるぐると回る。
どうしてこんなことになってしまったんだろう…。
つい昨日までは、政宗の優しさにただ溺れていられたのに…。
気付かなければよかった。
知らなければよかった。
政宗にも愛する人がいるということを……。
胸の奥がこんなにも苦しい。
何故?
別に政宗が他の女の人を好きでもいいじゃない。
政宗は仮初の住民なのだから。
そう、いずれ近いうちに消えてしまう……。
私には彼を止める権利などない。
元よりこの世界の人ではないのだから。
それでも、抱き締めてくれる腕が力強くて。
あまりにも温かいから。
その微笑があまりにも優しげだから。
私はそれを忘れてしまう。
まるで、この温もりが永遠に続くかのように錯覚してしまう。
この関係には終焉があるのに……。
それに、温もりを与えられるのは何も政宗に限ったことではない。
頭ではそう理解出来る。
温もりが欲しいだけなら、私を好いてくれて抱き締めてくれる人なら誰でもいいはずなのに。
でも、気持ちがそれを拒絶してしまう。
来栖君が私に想いを寄せてくれていることは、何となく気付いていた。
私はそれに気付かないふりをしていたけれど。
私には彼氏がいたから。
もし政宗に出会わなかったら、私は昨日来栖君を受け入れていた…?
温もりをくれるのであれば誰でも良かったの……?
咄嗟に来栖君を拒絶したのは、激しい違和感からだった。
違和感…?
嫌悪感……?
うまく言えないけど。
これは間違ってると咄嗟に感じてしまった。
私が抱き締めて欲しいのは……。
私が欲しいのは……。
政宗の温もりだった。
その時はそれが分からなくて。
ただ、私が抱き締めて欲しいのは来栖君じゃないということしか分からなくて。
来栖君を拒絶してしまった。
政宗に、来栖君を拒絶した訳を聞かれて、襲われそうだと思ったからだと答えた。
確かにそれも理由の一つだったけれど。
一番の理由は違和感から来る嫌悪感だったと思う。
その時は、あまり深く考えなかったので、その嫌悪感が違和感から来るものだとは分からなかった。
だから、何となく、貞操の危機を感じたからなのかなあと漠然と思っていたのだ。
何故違和感を覚えたのか、今になってよく分かる。
政宗の温もりを失った今だからでこそ……。
私は政宗に抱き締められたいんだ……。
抱き締めて、頬にキスをしてくれるのが堪らなく好きだった。
力強い腕に包まれて、ものすごく安心出来た。
政宗が元彼の体格と似ているせいもあるのかも知れないけれど。
だけど……。
もう、元彼がどういう風に私を抱き締めていてくれたか思い出せないくらい。
私の記憶は政宗で塗り替えられている。
目を閉じれば、政宗がどういう風に抱き締めていてくれたかとか、政宗の唇が頬を掠める感触とかが蘇ってくる。
そして、じわりと心の底が温かくなっていく感覚まで蘇ってくる。
でも、もう、私はそれを永遠に失ってしまった。
きっと、もう、政宗はああいう風に私を抱き締めてくれない。
政宗は恋心に気付いてしまったから。
聞かなければ良かった。
愛を知らないという政宗に、恋とはどういうものか、伝えたかっただけなのに。
皮肉にも、それが政宗に恋心を自覚させてしまうとは。
愛なんて感じたこともないという政宗が、本当は恋をしたことがあったということはとても嬉しいことではあったけど。
でも、政宗の温もりを失うくらいなら。
知らないままでいて欲しかった…。
何て私は自分勝手なのだろう。
政宗には政宗の世界があるのに。
そして、そこに愛する人がいるのに。
母親の愛を受けなかった政宗が、愛を自覚するのは素晴らしいことなのに。
その人は、きっと、政宗に抱き締められて。
耳元で愛を囁かれて。
頬に口付けを落とされて。
嬉しそうに笑うんだ。
胸の奥が苦しい。
私はその人に酷く嫉妬している。
ああ、そうか……。
私は……。
政宗に……恋をしたんだ……。
だから、こんなにも切なくて。
政宗の温もりが恋しい。
私達はすぐに離れ離れになる運命なのに。
政宗には愛する人がいるのに。
私の恋は実らない。
でも、離れ離れになる、その日まで、ぬるま湯のような優しい温もりに包まれていたかった。
知りたくなかった…。
知らなければよかった…。
政宗が恋をしているということを……。
もう、頭の中がぐちゃぐちゃで。
後悔と。
嫉妬と。
胸の奥が苦しくて。
流れ出した涙は止まらなかった。
湯船にぽたぽたと涙が波紋を作っていくのを眺めながら、頭がぼんやりとしてくる。
「遙……あまり長く浸かっているとのぼせるぞ」
いつの間にか、政宗が風呂の扉の前に立っていた。
「うん、すぐ上がるから」
私は涙声にならないように気をつけながら返事をした。
「そうか…」
「うん、着替えるから外で待っててね」
「Alright」
政宗が脱衣所を出て行くのを確認してから、私はお風呂を出た。
身体をバスタオルで拭き、髪の毛をざっくりとタオルドライする。
湯気で曇った鏡を指で拭いて、自分の顔を見ると、涙でぐちゃぐちゃだった。
政宗に気付かれてしまう。
髪が濡れていたら、それで言い訳がつくだろうか、と考えて、私はドライヤーで髪を乾かさないで、そのままバスローブを羽織って脱衣所を出た。
髪からまだ雫を滴り落ちさせながら、私は俯き加減に床の上にぺたりと座った。
そして、タオルを頭から被り、ぞんざいに髪を拭く。
政宗が振り返り、フッと笑う気配がした。
「まるで子供みてぇだな。いつもはドライヤーで乾かしてるのにどうした?」
政宗が手を伸ばして、私のタオルを取る。
私はますます俯き、顔を背けた。
「綺麗な髪が台無しだぜ?」
そう言いながら、私の髪をかきあげて、そして、そこで手が止まった。
「遙…?お前、泣いて……」
「奥の部屋で乾かしてくる」
政宗の手からタオルを取り戻そうと、手を伸ばして、逆に手首を掴まれてしまった。
こんな、嫉妬でぐちゃぐちゃな気持ちでいる顔なんて見られたくない。
逃れようと身を捩ると、政宗がぎゅっと抱き締めてきた。
そして、チッと舌打ちをする。
「まだ、諦め切れないのか?」
「え……?」
「前の男のことだ」
ずっと政宗のことばかり考えていたから、私は一瞬何のことを言われたのか分からなかった。
私はふるふると頭を振った。
すると政宗は身体を離し、身を屈めて私の顔を覗き込み、濡れた髪をかきあげて、親指で涙を拭った。
「……俺のせいか……?」
私は一層激しく首を横に振った。
違う。
政宗のせいじゃない。
これは、私の心が汚れているから。
私が欲張りだから。
政宗に甘えていたから。
これは罰なの……。
「違う…政宗のせいじゃない…。私の……せい…なの……」
「遙……?」
こうして抱き締めて欲しかったのに。
でも、政宗のこの逞しい両腕は、私のためのものではなく。
他の誰かのものだから。
私は素直になれなくて。
政宗の胸に手をついて身体を離した。
「ゴメン、ちょっと外で頭冷やしてくる」
私はテーブルの上の煙草と灰皿を取ると、ベランダへと出て行った。
いつもなら少しは効き目のある煙草が全く役に立たない。
何本吸っても、気持ちのもやもやは消えず。
いや、増していく一方で。
私は部屋に戻ったが、政宗のいるリビングには行かなかった。
昨日、政宗が横たわっていた布団の上にごろんと転がる。
昨晩、一体何を想いながら政宗は眠れぬ夜を過ごしたんだろう。
故郷に置いてきた想い人のことだろうか。
愛しい人を想って、何度甘い溜息を吐いていたことだろう?
胸の奥が重たく暗く沈んでいく。
『政宗にそんなに愛されてその人幸せだな…。私だったら……』
私だったら、そんなに政宗に愛されたら、永遠に離れたくない。
そして、私もきっと溢れる想いを止めることが出来なくて、政宗を心から愛するだろう。
でもこれは届かない想いだから……。
とりとめもない想いが頭の中をぐるぐると回っているうちに、意識が霞がかり、私はそのまま眠りに落ちていった。
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