愛しい声 -2-

部屋で政宗に寄り添ってのんびりとしていると、政宗は、私の額にキスをして、うーんと伸びをした。

「ああ、せっかくお前と二人きりなのに、片付けなきゃならねぇ仕事があるなんてな。今から書状を書く。いくつも書かなきゃならねぇから、お前には退屈させちまうな」
「そんな事ないよ。政宗様の書状見るの好きだもん。読めないけど」

そう言うと、政宗はくつくつと笑った。

「Hey, 俺の事は政宗って呼べ。それから…そうだな。お前も手習いしろ」
「えー、お習字苦手だもん」
「この天才遙が、手習いから逃げ回るな。琴は弾くし、茶も嗜んでいるくせに、手習いだけ出来ねぇなんて、この俺が許さねぇ。なんなら、百人一首を小十郎に書かせるから、それを見て手習いするか?」

私は慌てて首を横に振った。
あんなの全部筆で書いてたら一日で終わるどころか、いつまで経っても終わらない。
それに、私には、手習いのお手本がきちんとあった。
あの新婚旅行の日、政宗が書いてくれた「いろは」とラブレターが…。

「手習いのお手本ならあるもの」
「は?誰に書いてもらった!?」

政宗の表情が厳しくなったので、私はバッグの中のファイルから、政宗の書いてくれたラブレターといろはを取り出した。
7年の歳月は、紙の色を変色させるのには十分で、涙で濡らさないように大切にしていたつもりなのに、少しだけ染みが出来ていた。
政宗はそれを見るとハッと息を呑み、そして、涙ぐみながら私をキツく抱き締めた。

「まだ持っててくれてたなんて、思いもしなかった…」
「だって、政宗が私のために書いてくれたんだもの。政宗を思い出しながら眺めては泣いてたよ…。大切にしていたつもりなのに、涙で汚してゴメン…」
「いや、謝らなくていい。すごく嬉しかったぜ。お前がどれだけ俺を恋しく想ってくれてたか、また思い知った。それは、取っておけ。新しいのを書いてやるから」
「うん」

政宗は、硯を出しながら小十郎を呼んだ。

「おい、小十郎!遙がこれから手習いをする。硯と筆を持って来い!」
「はっ!」

政宗は、その間に墨を擦り、巻紙にさらさらといろはを書いて、その隣りに、和歌のようなものをいくつか書いて、小刀でそれを切って私に渡した。

「政宗、この歌なぁに?」
「かなで書いてあるだろ?頑張って読んでみろ」
「うん…」

指で辿りながら解読していると、小十郎が部屋に入り、微笑ましそうに私を見つめた。

「遙様も、やっと手習いをするお気持ちになったのですね。とても嬉しく思います。いろはの手習いですか?それから、和歌でございますね」
「うん…。いろははなんとなく分かるんだけど、和歌が…」
「遙様なら、きっと読めますよ。それにしても、情熱的な和歌ですね。実に政宗様らしい」
「小十郎、俺が文を書いている間、遙の手習いを見てやれ。とりあえず、いろはのマスターだ」
「承知」

小十郎は、私の隣りに座った。

「美しい書跡とは、墨の濃き薄きに現れます。まずは、硯に水を差し、心を落ち着けて墨を擦って下さい」
「うん」

私は、最後に墨を擦ったのっていつだったか思い出して愕然とした。
あれは、中2の時で、自分の名前を行書で書かされて、それがまたすごく下手で情けなくて書道嫌いになったんだった。
墨を擦る手つきさえ覚束なくて、情けない事、この上ない。

政宗は、一つ書状を書き上げて、顔を上げると少し目を瞠ってくつくつと笑った。

「お前、墨を擦るのさえ苦手なんだな、クッ…」
「あんまり見ないで、緊張するから!」
「お前、手習いした事ねぇのか?」
「あるけど…。もう十年以上前だし、自分の名前を行書で書かされて、下手過ぎて泣けて来たんだもん…」
「遙様、それはかな文字でしたか?」
「ううん、漢字」

すると、政宗も小十郎も驚いたような顔をした。

「お前、いろはは?」
「二回だけ。その後すぐに、自分の名前を行書で書かされたの」

政宗と小十郎は絶句し、そして溜息を吐いた。

「これほど優秀な遙様が、手習いから逃げ回るのがやっと分かりました」
「ああ、そうだな。信じられねぇ」
「何で?」
「いろはは基本だ。名前もかなの方が女らしくていい。漢字は楷書でかまわねぇ。まずは、かな文字の崩し方から覚えろ」
「同感です。政宗様の和歌もかなでございます。かな文字が基本です。それをいろはをたったの二回書いただけで、漢字の行書など以ての外でございます。では、この小十郎が墨を擦りますから、遙様はご覧になっていて下さい」

小十郎が墨を擦るのを観察しつつ、ちらりと政宗を見遣ると、さらさらと達筆な字で次々に書状を書いていた。

「小十郎、どうやったら、墨の濃さが分かるの?」
「初めは、分からないでしょうから、紙の端で確認すると良いでしょう。濃すぎず、薄すぎず。この頃合いが良いと思います」

小十郎は、紙の端に柔らかな線をすっと書いた。
墨汁より少し薄くて、艶やかだ。
そして、その曲線がまたとても綺麗だった。

「それでは、政宗様の手本の通りに書いてみて下さい」

いきなり筆を渡されて、私は困惑しながら墨を筆につけて、毛先を揃えると、政宗の手本を見ながら、模写をするように、恐る恐る手本の曲線の角度を真似て行った。

…全然似てない…。

真似ようとし過ぎて手が震えているのか、筆の跡はがたがただし、全然強弱がつかない。
小十郎はしばらく黙って見ていたけれど、また一つ書状を書き上げた政宗が私を見ると、ギョッとしたような顔をした。

「あのなぁ…。はぁ…。小十郎、何で黙って見ていやがる。一から叩き直せ」
「よろしいのですか?」
「ああ、構わねぇ」
「では、失礼致します」

小十郎は、私の後ろ覆いかぶさるように座り、私の右手に手を重ねた。

「あれ?小十郎、左利きじゃないの?」
「書は右手でも書けます。では、始めましょう。コツは緩急です。遙様が、英語の文字を書くのと変わりません。ただ流れるように緩急をつけて書くのです。必ずしも政宗様の手本を正確に真似る必要はございません」

そう言う、小十郎の声が耳元ですると、どうしても意識してしまって、緊張してしまう。
緊張というか、むしろ政宗以外の男の人で、しかもこんな美声の人にこんな風に寄り添って話しかけられて、恥ずかしさで顔が赤くなって行くのが分かった。

小十郎はそれに気づかないのか、私の手を握って、さらさらと筆を滑らせて行った。

「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ…」

ゆっくりと、そう囁くように言われて、勝手に手が動いて行くのを感じたら、もう限界だった。
また顔を上げた政宗は、驚いたように固まった後、とても不機嫌になってイラついたように爪を噛んだ。

「Hey, 遙。何でそんなに顔が赤いんだ?」
「だって、小十郎が近過ぎるんだもん。男慣れしてないから緊張しちゃうんだもの。こんな美声を耳元で聞いてて、赤くならない方がおかしいよ!」

そう言うと、政宗はますます不機嫌になった。

「そう言えば、前にも小十郎の声が好きだって言ってたな…。お前、小十郎に惚れたか!?」
「政宗一筋だって何度も言ってるでしょ!?」
「なら、何で赤くなる!?」
「小十郎は特別なの!好きとか嫌いとかじゃなくて、大人の色気に当てられちゃうの!」
「もう、いい、小十郎。とにかく遙から離れろ。あと少しで書状が書き終わるから、それを使いにやらせろ。遙の手習いは、俺が見てやる」
「は、はい。申し訳ありません」

小十郎は、筆を置くと、私の後ろに控えた。
やっと顔の火照りが治まっていって、私もホッとした。
小十郎の無骨な手とか、低い声とか、意思とは裏腹にものすごくドキドキしてしまって心臓に悪い。
あんまり近付かれると、本当にときめきそうで怖い。
こんなに政宗が好きなのに、小十郎の色気は半端なくて、赤くなるなという方が無理だ。

政宗は、ものすごい速さで、次々に書状を書くと、それを封に包んで、小十郎に手渡した。

「早馬を使え。それから、信玄の動きについて聞いて来い」
「承知」

小十郎は、ホッとしたように下がって行った。
途端に政宗は唇の端をつりあげて笑った。
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