離れることに難色を示すマヒルの拘束をどうにか振り払い、わたしはAkso病院に来ていた。
 家を出る直前まで、マヒルは「兄ちゃんも一緒に行こうか」「オレも一緒の方がいいんじゃないか?」と言葉を変えて、同じことを耳にタコができるくらい繰り返していた。
 兄は忘れているのかもしれないが、わたしはもう立派な成人女性であり、家族の付き添いがないと病院に行けないような子どもではない。そもそも、その病院にいるのは、マヒルも知っているわたしたちの幼なじみだ。

「レイのところに行くだけだから、大丈夫だよ」
「大丈夫だって、誰が決めたんだ」
「わたし」

 暴論を振りかざすわたしにマヒルが黙った隙に、「すぐ帰るから!」と言い残したのが数十分ほど前になる。
 前までのマヒルであれば、もっとすんなり見送ってくれた――かは、疑問が残るけれど、ここまで聞き分けないということもなかっただろうに。素直に欲を吐き出せるようになったと前向きに捉えるべきなのか、それとも、彼が腹の底に抱えていたものを隠せなくなっていると捉えるべきなのか。どちらにしても、それが嫌だとか、鬱陶しいだとか、その他マイナスな感情を抱くことはないのだけれど。こういうところが、わたしもマヒルに甘いと言われる所以なんだろう。
 それも仕方のないことだと思う。わたしとマヒルは世界でたったふたりの兄妹なのだ。たとえ、血が繋がっていなくとも、兄が少々ヤンデレみたいな気質を見せていたとしても、変わらない。
 どうして、マヒルはあんなヤンデレみたいになってしまったんだろう……なにが彼を変えたのかな……何月かな……。

 取り留めのないことを考えて、手元のスマホに視線を落とす。開かれたトーク画面には、ここに来る直前にしていたレイとのやり取りが表示されている。

『おはよう、レイ。起きたよ』
『おはよう。顔が見たい。病院まで来られるか』
『マヒルが離してくれたら行くね』
『待っている』

 病院の椅子は座り心地がいいのか、悪いのかいまいち判然としない。ビニールの手触りは冷たくて、無機質さをひしひしと感じさせた。
 閉ざされたままの扉に視線を、一度だけ放る。
 先ほど、勝手にオフィスに入ったとき、レイの姿はなかった。受け付けで聞いたとき、「レイ先生はオフィスにいらっしゃいますよ」と教えてもらったんだけどな。
 握ったままのスマホが震え、視線を落とす。マヒルからのメッセージが届いたようだ。画面をタップして、トーク画面を切り替える。

『レイには会えたか?』
『まだ。オフィスにレイがいなかったの。会議なのかな?』
『そうかもしれない。出直したらいいんじゃないか? 迎えに行く』
『気が早いよ』

 臨空に戻ってきている間、少しでもわたしと一緒にいたいと考えているのだろう。マヒルはどうしようもないほどにわたしのことが好きで――おそらく、同じくらいかそれ以上の執着心を持っている。
 だからこそ、そのマヒルが、この状況を許容したというのも、少しだけ意外ではあるのだけれど。

「ハル」

 思考を遮るように名前を呼ばれる。ぱっと顔を上げると、レイが廊下の先でわたしを見つけたところだった。
 足早に近付いてくる彼は、ほんの少しだけ、気まずそうな色を顔に乗せている。待たせていたことに、申し訳なさを抱いているのだろう。気にしなくてもいいのにな。レイが忙しいことは、わたしだって知っているんだから。それでも、待たせたくないと思ってくれるレイの気持ちも嬉しい。

「すまない。待たせた」
「大丈夫だよ。レイこそ、大丈夫なの?」
「ああ。問題ない」

 静かに、レイがひとつ頷いた。
 オフィスに入るレイを追って、わたしも室内に足を踏み入れる。整然とした部屋はレイらしい。
 廊下にあるものよりも、座り心地のいいソファに身を沈める。レイはかけていた眼鏡を外し、そっとデスクに置いてから、わたしの隣に腰を落ち着けた。
 頭の先から爪先にレイの視線が滑り落ちていく。それは何かを確かめるようでもあり、探るようでもあった。

「ちゃんと起きたよ」
「わかっている。だが、患者の容態を確認するのは、主治医の役目だろう」
「それなら、触診もする?」
「……ここではしない」

 少し、悩むような間があったことに、思わず笑ってしまう。
 わたしが笑ったのを見て、レイは僅かに眉を寄せてから、ふっと表情を和らげた。穏やかな目を向けてきてはいるけれど、レイの内心が見た目どおりではないことは、想像がつく。わたしを実際に見て安心はしてくれたのだろうけれど、それだけで心のざわつきが完全に消えたわけではないだろう。
 これは、わたしの思い上がりや自惚れではない。
 マヒルだけが、わたしに過保護なわけではない。レイも同じくらい、過保護だ。マヒルが『兄』という肩書きですべてを押し通そうとするのなら、レイには『主治医』という立派な肩書きがある。
 主治医の指示に従わないことで有名であるとはいえ、わたしも、いたずらに彼を不安にさせたいわけではない。特に、これについては。
 妙な沈黙を破るように、ソファから立ち上がる。ひとつも逃すまいと注がれるレイの視線を受けながら、わたしは彼の足を跨ぐように向かい合った。

「ここがどこだか、理解しているのか」
「誰かさんが、ずっと不安そうな顔をしているから、安心させてあげてるんだよ」

 両腕をレイの頭に回し、軽く引き寄せる。顔を顰めていたくせに、レイの上体はなんの抵抗もなく、わたしの胸に傾いた。
 あやすように頭を抱きかかえて、旋毛にキスを落とす。
 腕の中で、レイが細く息を吐き出したのがわかった。

「おはよう、レイ」
「ああ、おはよう」

 レイの腕が、腰に回される。決して強くはないが、そう簡単に逃れることはできなさそうだ。
 視線をオフィスの扉に向ける。先ほどとは違い、内側から。不在を再確認するためではなく、何者かの気配がないことを確認するために。

 Akso病院の天才外科医様が、患者に抱き締められているところなんで誰かに見られたら――とんだスキャンダルになっちゃうからね。


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