家に帰ると兄が玄関で仁王立ちをしていた。酷く冷たい視線がわたしを見下ろし、無言の圧が「何か申し開きはあるか?」と問いかけてくる。ここにレイがいたら、助け舟を出してくれるだろうか、なんて現実逃避をすれば、頭の中のレイは無情にも「お前が悪い」と言い切った。
「お前のすぐは、いったい何時間のことを示しているんだ? 兄ちゃんに教えてくれ。なあ、いつの間に、オレたちのすぐに齟齬が生まれちまったんだ?」
「ごめんね。病院の帰りに知り合いに会って、少し話し込んじゃって……」
「少し、か。その少しも、数時間を示しているのか?」
威圧的な態度に、思わず身を縮めてしまう。兄さんの怒りはもっともで、連絡をしなかったわたしが悪い。すぐに帰るなんて言わなければよかったと後悔しても、もう遅い。それに、あのときはすぐに帰るつもりでいたのだ。予定が狂ったのはホムラに会ったからで――ホムラは悪くないんだけど。わたしが起きてすぐ――そうでなくても、病院でレイを待っている間に返事をしていたら、ああはならなかったかもしれない。
まるで尋問のようだ。再会したばかりのころ、執艦官としてわたしを問い詰めた兄の姿を思い出す。あれももう、今となっては遠い記憶のようだが、懐かしんでいる場合ではない。どうにかマヒルに機嫌を直してもらわないと。
「オレは何も、寄り道をするなと言っているわけじゃない。途中で用事を思い出したり、お前のことだ、何か気になるものがあったら、好奇心が先行しちまうのも理解している。でも、オレからの連絡に返事をする暇くらいはあったんじゃないのか?」
――なかったんだよ。それをしたら、ホムラが不機嫌になるかもしれなかったから。
心の中でだけ、言い訳をする。マヒルに言ってもなんの言い訳にならないどころか、レイではない人の名前を出すのは火に油だ。片眉を吊り上げ、尋問が始まってしまうかもしれない。
「僕のせいにするの?」と頭の中のホムラに抗議されたが、許してほしい。全面的にわたしに非がある自覚はある。だからこうして、マヒルの懇々とした説教に耳を傾けているのだ。
「それで? その、少し長話をした知り合いっていうのは誰なんだ?」
「……任務で、知り合った人だよ。ねえ、兄さん。話はちゃんと聞くから、とりあえず、リビングに行かない? ここ、げんか――」
言い終える前に、急に足が浮いて言葉が途切れる。わたしの膝裏に腕を回したマヒルが、軽々とわたしを抱き上げたのだ。咄嗟に落ちないようにマヒルの首に両腕を回す。さり気なく顔を覗き込むと、昏い瞳がこちらを見下ろしていた。
「任務で知り合っただけのやつと長話をするのか。オレよりも、そいつと話す方が大事ってことか?」
マヒルはわたしを、ソファに下ろすことはなかった。自分の膝上に座らせて、逃さないとばかりに腰に腕を回される。逃げるつもりは最初からないんだけどな。
「兄さんよりも大事なんてことはないよ。スマホを鞄に入れて、マナーモードにしてたから、すぐに気付かなかったの」
「……どうして、オレに迎えを頼まなかった?」
「本当にすぐ帰るつもりだったし、兄さんも疲れてるでしょ? 家でゆっくりしていてほしくて……」
嘘と本当を混ぜる。何もかもを曝け出しているわけじゃないけれど、全てが嘘というわけではない。
自分からもマヒルの胸板にもたれるように力を抜いて、上目遣いに顔を覗き込む。甘えるように首筋に鼻先を擦り付けて、「ごめんなさい、マヒル。仲直りしよ?」と囁いた。
「お前……そうすれば、オレが誤魔化されると思ってるだろ」
「誤魔化してなんてないよ」
深く、マヒルがため息を吐く。ゆったりとした瞬きのあと、覗いた瞳はいつもの穏やかなマヒルのものだった。どうやら、許してもらえることになったらしい。
過剰に怯えていたつもりはないものの、少しは緊張していたのだろう。わたしの体も、安堵して弛緩するのがわかった。
片腕はわたしの腰に添えたまま、反対の手がくしゃりとわたしの頭を撫でた。そのまま、乱れた髪を指先が整え、頬まで手のひらが滑り落ちてくる。
「お前に悪気があったわけじゃないのかわかっている。だから、誤魔化されてやるよ」
「誤魔化してないったら」
「ああ、そうだな。そういうことにしておいてやろう」
揶揄うような兄さんの言葉なのに、声音はどこか淡々としている。うん、本当に、ただ一旦、飲み込んでくれてるだけみたい。
何も、兄さんに隠し事がしたいわけじゃない。包み隠さず話すことに抵抗があるわけでもない。話すにしても、タイミングがあるというだけで……今のマヒルに「別の男に会っていて、一緒にご飯を食べてきたよ」なんて言えるはずがない。今のマヒルじゃなくても、あまり言えないかも……あれ、じゃあ、これは隠し事……? ホムラとの間に、やましいことはなにもないんだけどな。
不健全――その言葉が脳裏に浮かび、打ち消す。世間の評価がそうだとしても、それを選んだのはわたしたちであって、これは一方的なわたしの決定じゃない。
「……怖がらせちまったか?」
「ううん、大丈夫。心配かけてごめんね」
無言でマヒルの顔を見つめすぎてしまったらしい。ついさっきまで、感情の読めない顔をしていたのに、今は眉を下げてどこか不安そうにしている。否定するように首を振り、マヒルの手に自分の手を重ねて、頬を擦り寄せる。
マヒルの親指が、わたしの唇をなぞるように押した。
「マヒル?」
「……まだ、おはようのキスもしていないし、お前がさっさと行っちまうからいってらっしゃいのキスもできなかったし、おかえりのキスもしてない」
おはようはしてなかった? それに、ただいまについては、出迎えたマヒルが最初から、ちょっと……ヤンデレちっくだったせいだよ。
ふにふにと遊ぶような唇をおされ、戯れに甘く吸いつく。浅く息を吐いたマヒルが、「悪い子だな」と掠れた声で囁いた。
「仲直りのちゅうする?」
「……ああ」
低い声だ。兄のものではない、どろりとした執着と熱を滲ませた声。
顎を緩く持ち上げられて、キスが落とされる。一度目は軽く触れるだけ。確かめるように何度か重なり、次第に甘く啄む動きが混じる。
頬に添えられていた手は、いつの間にか、押さえ込むように後頭部に回されていた。
――そんなことしなくても、逃げないのにな。
心の中でだけ、言葉を漏らすのは何度目だろう。そんなことを思いながら、わたしは縋るような彼の口付けに、身を委ねていた。