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※吸血鬼に関しての設定捏造あり
※表現にて夢主の容姿仔細あり
※めちゃくちゃ長い
※多数のキャラの名前だけ出張る
※凛月夢と言い張る
※キャラの言葉語尾に♪などの記号使用



 気骨が折れて疲れ切った身体を布団に沈ませる瞬間が綾音はとてつもなく好きだった。
 無数のアイドルを育成するこの夢ノ咲学院プロデュース科にテストケースとして転入してからというもの、常時先生方に監視されているような息苦しさだったり、プロデュースするアイドルたち──殊に同級生──からの過分な期待や懇請だったりと、多様な注目を多方面からいっぺんに寄せられている綾音にとって、こうしてひとりになる、または仮眠をとる寸暇というのは今や絶対に欠かせない安らぎのひと時となっていた。
 そのうえ今日は、常よりもいささか時間に急かされていた一日で心身ともに疲労していた。
 朝は空が白んできた頃おいに起きて必要な荷をまとめ弁当を作り、ラッシュ前に登校してからSHRギリギリまで被服室に籠って、近々校外のイベントに参加予定のRa*bitsの衣装製作を進捗させ。細々とした休み時間は、放課後プロデュースする流星隊の練習メニューを復習っては個人の能力値によって加味をし。昼休みは三奇人のひとりである朔間零から食事をともにしようと誘われていたので、軽音部の部室でミーティングしながらの昼食。帰りのHR後は立案していた企画書を生徒会に申請しに行ってからレッスンルームへ向かい、空調や機材の調整を十全に済ませ、顔触れが揃って準備できたところで本腰を入れたプロデュースの実行。レッスンが終わってからは衣装製作にちょっとだけ足りない材料費を賄うための短時間校内アルバイト。挙げるとキリがないが、まさに分刻みで動いてたと言っても過言ではない営々としたタイムスケジュールだった。
 目まぐるしく独楽鼠のように働いたこんな日こそ、仮眠は必要不可欠だった。家に帰ってもやらなきゃならない作業はある。昨晩も眠りに就いたのは日付を跨いで数時間経ってからだし、睡眠不足で体調を崩す前に心身の充電も兼ねて休んだって誰も咎めやしないだろうと思い立った綾音は覚束ない足取りで無人の保健室に踏み入った。目下の緊要事はあらかた処理してある。蓮巳先輩にだって小言は言わせないぞ、と謎の気構えを張って布団をかぶったところで、はたと気付いた。
 プロデュース科には綾音ともうひとり、同じ転校生のあんずという少女がいるが、彼女の影を今日は見ていなかった。あんずは綾音とは一学年違う上級生だが、アイドル科校舎・唯一の同性生徒である綾音を見つけると必ず声をかけてくれる。口数こそ少ないものの、なにかと気遣ってくれるあんずのことを綾音は何でも話せる姉のように慕っていて、あんずの姿を見ると幾分ホッとするのだが、旦夕まで見なかったとなると先輩も今日はあちこち東奔西走していたのだろうか、と思量する。
 綾音も大概だが、ワーカホリックの気がいっそう目立つあんずのことだ。今も無二無三として仕事に没頭しているやもしれない。なんとなく心配になってきたため、下校する前にトークアプリにひと言送っておこうと決めてから綾音は重たい瞼を下ろした。

 閑話休題。
 ここのところ綾音は、UNDEADを主としてプロデュースすることが増えていた。『専属』なのかと問われると、そうではないと首を振る。予定が入っていなければ異なるユニットからの依頼も須く引き受けるし、つい先ほども行ってきたばかりだが、近頃偏りがちなのはどこからともなく綾音のスケジュール情報を仕入れてくる零、そしてその零から話を聞いた晃牙によってプロデュースの予定を有無を言わさず取り決められていることがしばしば、という理由が背景にあった。
「綾音ちゃんがいると薫くんも張り切ってレッスンに参加するからのう」零は宣い、「おまえがいれば吸血鬼ヤロ〜は途中でダレたりしね〜からな」晃牙は畳み掛ける。都合の好い言い分を並べられて着々と外堀が埋められていってる気がするのは綾音の勘違いではないだろう。現にRa*bitsの衣装を頼まれる際も、なずなには「UNDEADの専属になっちゃったのか……?」とやや及び腰で聞かれてしまった。……何やら諸説紛々として誤解している生徒がまだ居そうである。
 噂が独り歩きしてこれからの仕事の依頼に差し支えが生じても困る。さてどうしたものか、と相談がてらこの件を昼食時に零に話したらば、彼はくつくつと愉快そうに笑いながら「我輩とその愛する同胞たちに見初められたのがおぬしの運の尽きじゃの」などと答えになってないが含みのある言い方をし、綾音が頬を引き攣らせたのは記憶に新しい。零は暗に「逃がさんぞ」と釘を差していた。異変に気が付いて辺りを見渡したらば、既に水も漏らさぬ盤石が築き上げられていたと知った時の虚脱感といったら筆舌に尽くし難い。魔物と名告るだけの権謀術数に長じた手管である。逃げ道など用意されてる筈もなく、綾音が不死者が御する奈落へ引きずり込まれるのも時間の問題だった。

 このように、鈴城綾音という少女は兎角変わった人間に──この学院には変わった人間しかいないのだが──気に入られやすい性質たちだった。
 150にも満たない身長に小さい手足、瞳はアーモンド状に円くぱっちり二重で、せかせかと立ち回る挙措は親の後ろをついて歩く幼鳥のようだと譬喩されることが多かった。かてて加えて少々人見知りなところはあるが、緊張がほぐれた頃に見せてくれる笑顔がたまらなく庇護欲をそそるらしい。ちなみにこれは羽風と乙狩論だ。彼女を一等可愛がる三奇人は語りだすと止まらないので割愛させていただく。
 ────要するに、綾音は夢ノ咲に通う生徒たちからは『もうひとりのプロデューサー』という認識以外で『嘱目すべき後輩』、あるいは『可愛い妹』というマスコット的な目で見られていた。同級生からも『妹』、あるいは『よき友達』だとの意見が一様に挙がるから、綾音もそんなものかと得心していた。

 そう、彼女は油断していたのだ。夢ノ咲アイドル科はもともと男子校。『妹』に近しい存在だと思ってくれている者が大多数であっても、同列ではない九牛の一毛がいるという盲点を綾音は突かれてしまった。
 自分も彼らも今は大事な時期。艶聞などもってのほかで、取り沙汰する『何か』が起きることはないだろうと。もっともらしく、だけれど根拠もない安意を己に根付かせて、思わぬ墓穴を掘っていたのだ。
 だから放課後、無人の保健室で仮眠をとっている直中に『こんなこと』をされていると発覚したときは、驚きすぎて声も出なかった。何でこの人がここに、とか、何で私を、という疑点こそたくさんあったが、めったやたらと触れられることに不思議と恐怖心や嫌悪感が芽生えることはなかった。
 半醒で思考の巡りが悪くなっているからではない。綾音の貞操観念が逸脱しているわけでもない。……相手が己に触れる手つきが、産まれたての赤子に触れるように丁重で温かなものだったから。
 普通の女の子なら怯えて逃げ出しそうな状況でも、綾音はされるがままに、ただ慈しむようなその行いを従容して受けていたのである。
 まさかこの楽観がのちのち自分の首を絞めてしまうとは──。渇して井を穿つ、今さら綾音が鬼胎を抱いて解決に苦慮したところで相手は知る由もなく。
 機会を狙いすましたように、今日も束の間の休息に就いた彼女のもとへやってきた。


 くすぐったくて、時折ちくりと虫に刺されたような痛痒が身体の至るところで生じる。柔らかすぎず、硬すぎない何かが蛇のようにあらゆる部位を這いずり回っては、ゼリーのように瑞々しく弾力のある物体で薄い皮膚を挟まれる。痛みを伴うのは決まってそのときだ。
 ……ああ、またあの人か。と上の空にて思いつつ、泥のようにシーツに沈んで眠っていた綾音の意識がゆるやかに夢の淵から引き起こされる。
 相手に悟られぬよう薄っすらと瞼を開けば、案の定というか。ニーソックスを脱がされて剥き出しになった綾音の片足を持ち上げて、その脹脛に唇を滑らせている朔間凛月の姿があった。身体を好きなようにされて不快を感じないのは、どことなく彼が超然とした雰囲気を纏うからだろうか。この口吸いを、神聖な儀式めいたものと錯覚して諌止することができない。見様によっては忠誠を誓う騎士の振る舞いにも見えるのだから、さすが騎士道ユニットを唱う『Knights』に所属するだけの風格はあるな、といやに冷静な頭で淡々と静思していた。彼には疾うに一身を捧げたレオ女王陛下あんずがいるから、『ひよっこ』という揶揄も込めて『雛』と名付けられた綾音に忠誠は疎か、跪くわけは無いのだけれど。

 閑話休題。
 凛月がこうして人目を盗んで綾音に接触するようになったのはいつからか。明確には定かでないが、綾音が違和感に気付いたのは三回くらい前だ。つまり彼女が把握しているぶんでは今回で四回目の所業。綾音はそれほどの行為の数を看過してきたという事相になる。
 相手は猫のように気まぐれな人物だ、その心中を量ろうとするなんて風を掴まえようと足掻くに等しきこと。故にこれは度の過ぎたスキンシップと無理くり納得することにしたものの──やっぱり、客観的に見ておかしいのだろう。毎々抵抗せず身を委ねている自分も、恋人でもなんでもない後輩に『いかがわしい』ことを隠れて致す、この先輩も。綾音は嘆息したい気持ちをぐっと堪えて瞼を閉ざした。
 ……どうすればいいのか。こればっかりは誰にも相談などできず、もちろん口外する気もない。こんな実情が生徒会にでも漏れたら大変なことになる。最悪、連帯責任としてKnightsは活動停止処分。凛月は停学または退学になるかもしれないし、綾音はアイドルを誑かした好色プロデューサーのレッテルを意図せず貼られる可能性も極めて高い。日頃お世話になっている零を弟絡みで悲しみに暮れさせる真似はさせたくないし、これからの高校生活、充実した日々を送るためにも凛月と同じユニットのメンバーである瀬名泉に逆怨みされかねない事態は、最悪はなんとしても避けなければならないのだ。
 いつ誰が来るかも知れないし、早く拒まないと。拒むだけなら容易い、……が。
 今後Knightsのプロデュース時に支障が出るのではないか、飽き足らず優しいあんずにまで手が及ぶのではないかと現実に復した頭で『もしも』を懸念すると、臆病風に吹かれて簡単に行動には移せなかった。
 取り分け後者は、実際に凛月があんずに血を強請っている場面を幾度となく目撃した経験があるため、なおさら現実味を帯びていて不安である。
 ひとつの軽率な言動が物事をよりややこしい展開に導きそうで、綾音は小さな脳漿を必死に絞り続けていた。もとよりすったもんだは苦手な性格である。できるだけ穏便に落着させようといろいろ善後策を講じてはいるものの──思惟の袋小路に入り込んでしまった感じが否めず、綾音のジレンマをよそに凛月の行為は回を重ねる毎にエスカレートしていった。
 最初は髪や頬を撫ぜるだけの動きだったのが、二回目には首筋や手の甲などに自身の唇をくっつけるようになったのである。当時は吸血されるのかと肝を冷やしたが、触れるだけで済んだからよかった。否、決してよくはないのだが、まだマシだった。
 三回目には舌を這わせるようになったのだ。綾音の指の輪郭をたどるように。鎖骨の窪みをなぞるように。耳朶の柔らかさを堪能するように。
 慈しみつつも獣性的な色情を孕ませた、二面性を併せ持つ舌の蠢動で、二の足を踏んで二重の意味で身動きの取れない綾音を賞翫していった。

「ねえ、綾音。本当は起きてるんでしょ……?」

 そうして、四回目。
 そこはかとなく恍惚とした声色で凛月が問いかける。綾音の片足を持ち上げていた手のひらは、今は綾音の小振りな胸を覆うようにして置かれていた。
 前口上を述べると本人はもの凄く嫌がるが、夜闇を統べる『魔王』の弟であり、自らを吸血鬼と自称する凛月は、真偽はともかくとして日光が大地を焦がす昼間はほとんど眠っている。陽が沈んだ頃にのろのろと活動を始めるが、日中眠っていたぶん、彼は夜になると頗る調子がいいのだ。
 窓から覗く空は薄暗くなっている。下校時間が近くなった今この時間帯は、場所は──綾音の上に跨る朔間凛月が掌握する境域下であった。
 ごくり、と唾を飲み込む音が目睫の間から聞こえる。対処に未だ一歩踏み切れず、今回もあくまで知らぬ存ぜぬを貫こうとする綾音の様子に、舌舐めずりをした凛月がつと飲んだものだ。

「まぁいっか。いただきまぁ〜す」

 端からまともな返答が返ってくるとは思っていなかった凛月は早々に胸から手を外し、ゴソゴソと再び綾音の足元に後退する。冷たい指が己の足首に触れた途端綾音は咄嗟に声が出そうになったものの、奥歯を噛み締めてギリギリのところで耐え忍んだ。
 視覚を閉じているぶん、触覚がいつもより過敏になっている。まして凛月が行為中に声をかけてくることなんてこれまで一度も無かったから、脈拍も、増している。起きていると勘づいてくれたなら黙って去ってくれればいいものを、凛月はあろうことか「まぁいっか」のひと言で片し続けようとしているのだから手に負えない。
 話し掛けられたとき、素直に目を開けて応えていれば引いてくれただろうか、とも考えるけれど──。

「……っ」

 ──たぶん、むりだ。綾音は足の指の間ににゅるりと入り込んできた舌の感触に、背筋を粟立たせながら直感した。今まで綾音をさんざん辱めてきた悪戯な唇は「いただきます」と不穏な語を告げたとおり、綾音の指をそのまま食べてしまいそうな加減で自由気まま動いている。尖らせた舌先で爪の間をほじるように弄くっていたら、ぱくりと熱い口内に指を招き入れてしまったりと、ごく無遠慮に。ちゅうちゅうと吸って賞味する凛月の表情は綾音から目視できないが、足の爪先をねっとりと沿って往復する舌の蠢きは、子供がキャンディを味わうようなそんな稚いものではなかった。
 特に前回から顕著として予測不能かつ大胆となったその戯れは、綾音にとって細い綱渡りの最中に軸足を揺らされるごとく心臓に悪い不意打ちで、まるで我慢競べを強いられてるかの心境だった。
 否。事実、強いられているのだろう。綾音の不安も全て見透かしたうえで「早く堕ちろ」と、「自分を見ろ」と、凛月はもの言わぬ唇でそう訴えていたのだ。挙句今回は「起きてるんでしょ」と看破されている。腹を据えて綾音が目を開けるのが先か、凛月が飽きて帰るのが先か。彼は──試して楽しんでいるのだ。

「ん〜〜」

 すると俄かに頭を悩ませているような、どこか釈然としないような、そんな煩雑した胸中の際に発する声色で凛月がうなる。彼が寝起きのときに発する不満そうな声とはトーンが違うから、著しく機嫌を損ねたわけではないだろう。彼の一挙一動にハラハラしつつ、綾音はしばし息をひそめて様子を窺う。
 凛月の舌はいったん爪先から離れたものの、皮膚が僅かにふやけるほど口内に含まれていた足の指は雨季特有の生温い空気に触れて、彼の唾液でべとべとになっていることが改めて分かった。爪先に糸を引いていたそれを凛月が自分で舐め取って、屈めていた上体を起こす。
 このまま用事でも思い出して保健室から退室してくれれば……なんて希望的観測を抱いたが、強豪ユニットの参謀を務める彼だ。目の前に据えられた好餌をみすみす逃すような手落ちはせず────綾音の身体の横に重心を置き、身を乗り出した。拍子にぎし、と寝台のスプリングが安っぽい音を鳴らす。
 至近距離に凛月の体温を察知し、頸動脈のあたりに呼気を感じた寸陰。噛まれる、と瞳を閉じたままの綾音が若干身構えると、しかし彼女の予想に反して鋭い犬歯が肌を掠める体感はいつまで経っても訪れなかった。肩透かしを食らって力が抜けた綾音をふいに襲ったのは、先ほどまで足先を嬲っていた舌が耳の穴にまで侵入してくる生理的抵抗感。意表を衝く奇襲に思わず肩をすぼめてしまったのは綾音の不覚だ。
 綾音の身体を隣から抱き込むようにして、片手で柔らかい太ももを満喫していた凛月はしてやったりと口角を上げる。彼は、綾音が起きていると早くに確信していた。されど無暗に追及することはしなかった。
 恥辱に震えるこの子の顔がもっと見たい。そう彼自身の中で眠っていた凶猛な獣が、血沸き肉躍る甘い蜜の香りに匂引かされて目覚めてしまったから。

「……ぅ、っ……」

 丹念に耳朶の後ろから中の少し出っ張った部分まで舐め回され、ぞわぞわした快感がさざ波のように綾音の筋骨を駆け上る。乱れる呼吸を整えようにも、投げ出された両足の間に割り込まれた凛月の硬い太ももしかり、鼓膜や頬を掠める吐息しかり、足の爪先と耳に満遍なくまぶされた唾液しかり、諸々の感触の要因が猖獗を極め、懸命に理を保とうとしている綾音の意固地な心を溶かしていく。
 声が、抑えられそうにない。気持ちいい。恥ずかしい。内股の奥がむずむずする。こんな姿見られたくない。でももっとやってほしい。綾音が背反した感情に苛まれては唇を結ぶ仕草を取るたび、ピジョンブラッドの双眸が嬉しそうに細められていることを綾音は知らない。その身悶える表情こそ傍らにいる獣を喜ばせているのに、綾音は初めて経験する感情と快楽の狭間で与えられる責め苦をひたすら受忍していた。
 そんないじらしい姿を見てたら、まだまだ追い詰めてぐちゃぐちゃに泣かせてやりたいと後暗くこみ上げる嗜虐心と。真綿で包むように可愛がって、芯から芯までとろかせてやりたいと疼くお兄ちゃん心とで、凛月まで我欲の板挟みに懊悩する羽目になった。
 どのみち大人として未成熟なこの雛を『啼かせたい』という心積もりは合致しているので、凛月が為すことは変わりないけれど。狂騒の渦を巻く欲望に流されるがまま、凛月は綾音の赤くなった耳殻を前歯で柔く食んで、うっとりと甘くささめいた。

「綾音の耳、おいし……♪」
「〜〜っっ」

 「そんなはずない」、と反論したかった。けれど起きるタイミングを逸した綾音は為す術もなく、ただきゅう、と眉を寄せて言葉攻めに耐えるだけ。然く羞恥に震える綾音の様相に凛月は無言で瞳を眇め、耳から唇を外してその頭を撫でる。肩から不要な力が抜けたところを見計らって蟀谷にひとつキスを施し、綾音の緊張がほどほどに軽減されるまで髪を梳いて彼女のペースに合わせてやっていた。こうした突然の慰撫も、綾音が凛月を心の底から拒めない理由の一端であった。
 これは付説であるが。凛月に触られている、と綾音が気付いた時は、身も蓋もない言い方になるが性欲処理が目的なのかと思っていた。夢ノ先に通う彼らはアイドルだ。しかしアイドルである前にれっきとした男でもある。アイドルとしてスキャンダルは当然のこと御法度であるが、男性の生理現象は自己で調整できるものではないだろう。いくらひとりででも処理ができるといっても、一般の男子高校生といえば性的好奇心が旺盛な年頃。
 もちろん、異性である綾音やあんずの前ではおくびにも出さないが──欲求不満が募りに募ってる生徒がいても、なんらおかしいことではなかった。そしてそれは凛月も例外でなく、たまたま保健室で無防備に眠っている手頃な女子がいて、しかもその女子はアイドルとしての内幕を知ってるからこそ後腐れなく事が済ませられそうな後輩プロデューサーだったから凛月は接近してきたのだと、綾音はそう推量していた。
 だけど、ちがった。凛月は最後まで進むことなく、綾音の身体を強引に割り開くこともできただろうに、それをしなかった。頭を、頬を、肌を撫でて、時折気まぐれに唇を落として、夢現で微睡む綾音をいたわるようにそっと触れた。綾音の目が冴えた時、あれは夢だったのかと混乱するくらいに、曖昧な触感。心境の変化があったのか舌で悪さをすることも増えたけれど、間違っても綾音の秘めたる場所に手を伸ばすことはなく、凛月は下校のチャイムが鳴る前に去っていった。
 この行為を性欲処理というには平仄が合わないことくらい綾音も分かり切っている。かと言って度の過ぎたスキンシップ、なんて言い訳では収束できない一線を超えてしまっていることも、綾音は分かっている。
 ちゃんと瞼を開けて彼の目を見れば、あやふやだった全ての辻褄が合うことも、なんとなく。

「──せん、ぱ……」

 もう、負けでいい。あれだけ綾音を縛りつけていた懸念も不安も、ぜんぶかなぐり捨てて。
 堕ちてしまってもいいから、自他ともに認める面倒くさがりな彼が、限られた条件下の時だけ自分に会いにやって来る理由が知りたくて、綾音はおそるおそる瞳を開いた。しばらく紗幕を通したように視界は不明瞭だったものの、目が闇に慣れるにつれ凛月の目鼻立ちがはっきり見えるようになってくる。
 ようやくふたりの視線が交わると、綾音の目前にある美しい瞳はぱちりと睫毛をはためかせた。
 なぜこのタイミングで綾音が目を開けたのか分かっていないようだ。やや呆気に取られている凛月の様子を間近で眺めながら、綾音はなんと話を切り出せばいいのか、声を出すことを躊躇してしまう。
「ええ、と、」せっかく開いた瞳をまた伏せて、何とか沈黙を破ろうと言葉を探す。しかし彼女の口から続きの語句が紡がれることはなかった。真意を聞き出す決心が鈍ったからではない。凛月が綾音の上に覆いかぶさるように姿勢を変えて、こつんとお互いの額を合わせてきたからだ。伏せた視線は両頬を包み込んだ大きい手のひらに促されて、自然と前に惹き寄せられる。

「ふふ、やっと俺を見た」

 白い頬をかすかに紅潮させて、凛月はふと得意げに微笑う。逸らすことなく真っ直ぐに注がれるピジョンブラッドの眼差しがどうしようもなく気恥ずかしくて、綾音は早くも「そんな風に見つめないでください」と音を上げたくなった。ただでさえ凛月は兄ともども艶麗な顔立ちなのだ。なのに今の心底喜びを示すあどけない表情を見せられた綾音の心境といったら、「たまったものじゃない」のひと言に尽きる。母性心がくすぐられる、なんて言ったらまだ高一のくせに生意気、と返されそうだが、本当にそのような情動を感じたのだ。
 彼の目にはなにか特別な魔力が宿っているのかもしれない。見たもの全てを虜にしてしまう、そんな悪魔的な魅力がふんだんに詰まっている。
 まじまじと見つめて、綾音は霞がかった思考を振り切るように固く瞼を閉ざした。
 やっぱり無理だ。向き合えない。向き合ったら自分でも目を逸らしていた『何か』に気付いてしまいそうで、恐い。心が折れかけた矢先、鼻先をカリッと前歯で齧られ、綾音の肩が大仰に跳ねた。

「だ〜め。ちゃんと目開けて。こっち見て。俺の名前、呼んで?」
「……り、りつ、せんぱい」
「うん、うん。足りないから、もっと」

 すり、と喉元に甘えるよう頬を寄せられ、こそばゆさに身を竦めながらも綾音は従う。戸惑いながら「凛月先輩」と、幾たび彼の名を呼んだ。淀みのないソプラノで自身の名前だけ口にされる心地よさと優越感。このまま俺の名前しか言えなくなっちゃえばいいのに、と純粋とはかけ離れた独占欲を抱きつつ、耳をそばだてていた凛月は密かに酔い痴れていた。うるさいのは嫌いだ。無意味に名前を連呼されるのも煩わしい。だけれど綾音の声は別だった。何回聞いても満足することはない。もっと、と次から次へと欲がこみ上げる。
 息を吸えば綾音の匂いが凛月の肺をチリチリと焦がす。直接身体の内部に生まれた波紋に後押しされ、我慢の限界が頂点に達した凛月は顔を上げて、隙だらけだった綾音の唇にかぶりついた。ずっとずっと彼が眠っている綾音にしたくて、でも、できなかったこと。
 初めて重なったふたりの唇は、火傷しそうなくらい熱かった。

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