02
艶やかな髪から床に滴り落ちる雫。
弾力のあるソファーにぐったりと身を沈め、お風呂から上がってから何ひとつ言葉を発さない彼女はさながら屍のようだった。言わずもがな、原因は少し離れた場所で自分の髪を無造作にタオルで拭く彼にある。
「……オイ。いいかげん髪乾かせよ。風邪引いても知んねーぞ」
「動けない……動きたくない……」
もはや喋るのすら億劫だという様相の名前に、花礫は面倒だとばかりに眉根を顰めた。むしろなぜ彼のほうこそ平然としているのか、名前は甚だ疑問だった。
ベッドで三回、お風呂で二回、計五回。中でも名前が達した数は知れず仕舞い。
これが現役十代と二十代の体力の違いなのかと、歴然とした差に彼女が愕然としながら揺さぶられたのはつい数時間ほど前のこと。
『もう無理だめ壊れる』。どんなに訴えても留まることはなく却って激しさを増す行為。
だったら誘うな煽るな隙を見せるなと花礫は口を酸っぱくして何度も言うが、名前は挑発した覚えも唆した覚えも微塵もない。ましてや自分からけしかけるなんて以ての外だ。『隙を見せるな』と言われても、仕事が終わり自室に戻ってくれば誰だって肩の力は抜くものだろう。それとも部屋でも日頃から警戒していろというのか、そんな殺生な話があってたまるかと名前は心の中で密かに毒づく。
すると髪を濡らしたまま微動だにしようとしない名前を見兼ねたのか、痺れを切らした花礫が深々と重い嘆息を吐き、おもむろに彼女が俯せに横たわっているソファーに近付いてきた。
「ほら、乾かしてやるから俺の気が変わんねーうちにさっさと起きろ、じゃねえと襲うぞ」
「っもう勘弁してください!」
洒落にならない宣告に名前は節々が痛む体に鞭を打ち、上体を起こして不承不承と腰を据えた。後ろに凭れ掛かる前に花礫が背後に体を滑らせ、彼女とソファとの合間に割り込んでくる。これは自分に寄りかかれということだろうか、勝手な解釈をして名前が素直に体を預ければ、「ンなくっついたらやりづれえだろうが」と遠慮なく頭を叩かれた。それなりに痛かったが文句を囃し立てれば痛みが倍に膨れ上がって返ってくるのは百も承知、おとなしく口にチャックする。
髪を優しく撫でる柔らかなタオルの感触に、うっとりと夢見心地で瞳を細めた。
「……もう少し私の体力を考慮してくれれば、申し分ない素敵な旦那様なんだけどなぁ……」
「あ゛?」
「なんでもないです」
地獄から湧いたような低い声だった。
すかさず身の保身のためにかぶりを振れば、動くなとタオル越しに頭蓋を鷲掴まれる。いつまで経っても粗末な扱いは変わらず、ふたりは一生このままのスタンスを貫くのだろう。
果たして自分は十代の盛んな底なしの性欲に着いていけるのだろうか。数年後、元気に生きていられるだろうか。途方もない未来に思いを馳せている名前など露知れず、花礫は股の間に彼女を挟んでできるだけ傷めないよう細心の注意を払いながら髪を拭いていた。本当に、夜さえがっついて居なければ理想の旦那だろう。
半乾きになったところであらかじめ名前が側に用意しておいたドライヤーのスイッチをオンにした。生温い温風が細い髪の間を潜り抜け、見る見るうちに含んだ水分を干していく。
タオル越しなどではなく、直接感じられる花礫の指使いに先ほどまでの情事を思い出して、名前はこれだけは絶対に悟られまいと下唇を噛んだ。
けれどもちろん、見逃すような甘い彼ではなく。
「……耳、赤ェけど?」
「っドライヤーが熱いから」
「冷風にしたけど」
「えーと、〜〜っほら、お風呂上がりだし逆上せちゃって!」
「……ま、今はそういうことにしといてやるよ」
後で激しい押し問答は確定ですね。
といっても端から叶う筈もない負け試合だが。そのときの名前には、まるでドライヤーのスイッチを切る音が断頭台のギロチンを振り落とすためのボタンを押す音に聞こえたという。
次はどんな火の粉が降りかかるのだろうか。そう戦々恐々と臆病風に吹かれる名前に襲い掛かったのは、しかし予想だにしていないまさかの展開だった。
「……が、れきくん?」
「……お前、俺がクロノメイに居る間また大怪我してたんだってな」
「え、あ、あぁ……」
後ろから自分を抱き竦め、肩口に顔を埋めて覇気なく呟いた花礫の頭を反射で撫でた。
「誰から訊いたの?」首を捻れば彼の口から紡がれたのは気心の知れた幼馴染みの名。
そういえば、そのときも喰と一緒だったっけ……何の因果かは計り知れないが、失態を犯すところにばかりたまたま居合わせる幼馴染みに辟易する。それを出汁にいったい何度皮肉を言われたことか。
気難しげに名前が唸ればなおいっそう花礫が彼女を抱く力が強くなる。鳩尾をも圧迫する腕を宥めるようにポンポンと叩けば多少は緩められたが、頑として離されることは無い。珍しく甘えたな彼の姿に「あのときほどひどい怪我じゃなかったよ?」と苦笑すれば「そういう問題じゃねーよ馬鹿」と素っ気なく返される。じゃあどういう問題なんだ、と真意が窺えない言葉に名前が困惑しながら花礫の名を呼べば、しばしの無言のあと投げられたのは「……ムカつく」という、これまた今までの話とは噛み合わない悪態だった。
「────分かってるよ、お前が俺よりも喰のヤツと居た時間のほうが遥かに長いってことくらい。幼馴染みだし、俺が知らないお前をアイツは知ってるってことも重々承知してる。……分かってる、分かってっけど、でもやっぱ腹立つ」
ポツポツと耳を凝らさないと聞き取り難い声量で落とされていく花礫の言葉に、名前は思わず(……あざとい、あざといぞ花礫くん)などと、場違いなことを考えていた。口にしたら顔を真っ赤にして烈火の如く怒り狂うだろうから、そんな軽率な行動には出ないが。
もしかして今日の行為がさらに余裕が無かったのもそのことが原因だったのかと思うと、怒るにも怒れなかった。
「……喰に嫉妬したんだ?」
知らず声音が弾んでいてしまったかもしれない。黙れと言わんばかりに花礫の腕に再び力が込められて、噎せた名前は慌てて「ゴメン!」とあっさり白旗を上げた。
「…………ヤキモチなら私だって焼いてたよ、ツバメちゃんに」
「ツバメに? 何で」
「だぁって、花礫くんと学生生活なんだよ!? 一緒に登下校して一緒に過ごして勉強もして……あまつさえ私は花礫くんの制服姿なんて一回しか拝んでないのに!! うあああツバメちゃん羨ましい、羨ましいよおおお」
「……ぷっ、くだんねー」
「くだらなくない! あーあ……蘭二くんかセセリちゃんあたり花礫くんの貴重なサービスショットとか持ってないかな……もし持ってたら売ってくれないかな」
「それだけは絶対ヤメろマジで」
『ロクなモンじゃない』といつの間にか隠し撮りされていた諸々の過去の記録を思い浮かべて、花礫がいささかげっそりした面持ちで呟いた。アレが発端でどれだけ同室の男にからかわれたか分からない、思い出したくもないと嘆息を吐く。
それでもなお「えー」と駄々を捏ねる彼女の口を手のひらで覆って黙らせた。
さらさらと指通りの好い髪を横に退け耳朶を甘噛みしながら「それ以上ゴネたらどうなるか……分かんねーほど馬鹿じゃねえよなぁ?」と脅迫紛いの言葉を口にすればたちまち強張る細い体。口は災いの元。無邪気に振る舞っていた態度とは打って変わって蒼白とした表情で頷いた名前に舌を打ちながら、花礫はやがて手を離して元の定位置に腕を戻した。
「いや、あのね花礫くん……私と花礫くんじゃそもそもの体力が違うんだけど……」
「お前がいちいち煽んのが悪ィんだろ」
「それ! 私は煽ってるつもりなんてないよ?」
「んなこと疾うに知ってるっての」
無意識でやってるからこそ興奮する、と。
たまには名前から誘われても悪くないとは思うが、やはりリードするのはいつ如何なる時であろうとも自分でいたい。何より強引に迫って恥ずかしがる彼女の顔を見るのが楽しいのだ。そんなとっておきの楽しみを自ら潰すような真似はもったいない。それに、
「お前、自分が不意打ちに弱いって知ってたか?」
「ッあ」
「……な。こうすると、凄ぇイイ反応すんの」
就寝時、彼女がブラジャーを身に付けず眠ることを知っている花礫は、服の下から微かに主張している胸の頂をピンと弾いた。
逃げるように肢体を捩る名前を全身を使って押さえ込み、手の内で柔らかい感触を心ゆくまで堪能する。幾度となく吟味したって飽きることは無い、無防備にも露わになった項に口付けを落としほくそ笑む。
……も、だめだってば。
そんな弱々しい抵抗も彼を煽る一因にしかならない。
背中に感じる温もりは確かに心強いけれど、同時に自分を疲弊させる危険性の高い爆薬でもあった。燻る火を付けるのはいつだって彼女のほうから。
しかし彼女がそれに気付いて身の振り方を改めるのはいったい──いつになるのやら。
「っこら、花礫く……! ンむ、」
「……今日は寝かせねーから」
正しくは今日も、なのだけど。
降ってくる口付けの嵐に、名前が抗う術はもう何ひとつ残さず奪い去られていた。
(名前、死にそうな顔してるけど……)
(……冗談抜きでそのうち死ぬかも)
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