悟りの退屈

「ったく、人間は本当に分かんねえ生き物だな」

 草むらに膝をつき、社に手を合わせる陰陽師の背中を見下ろして、夜叉は吐き捨てる様に呟いた。

 夜叉には、神に叶えて欲しい祈りなど無い。
そんな夜叉には、神の前に跪き、一心不乱に神の寵愛を乞い願う人間の姿が、酷く滑稽に見えていたのかもしれない。

「分かんなくて、良いんです。私だって、妖の事も、人の事も分からないんですから。きっと、分からない物なんですよ」
「……そうかよ」

 膝に付いた砂や葉を丁寧に払って、陰陽師は立ち上がる。
「全部分かってしまうなら、それはきっと、この上無く楽でしょうけど。この上無くつまらないですよ」
「……そうかよ」

 夜叉には、時折陰陽師が浮かべる何かを悟ってしまった様な表情の意味が分からない。
だが確かに、分かってしまえばつまらない話なのだろう。
夜叉がこれまで出会ってきた、数多の人間がそうであった様に。

「この辺りに、強い妖の気配はありませんね。人を喰らったというにはあまりに弱い妖の気配なら、あちこちから感じますけど」
「雑魚からすりゃ、雨風凌げる良い場所なんだろうよ。ま、確かに血腥せえ気配はしねえがな」
「参りましたね。そうなると、彼処しか無いんですけど」

 口先だけで参ったと呟く陰陽師が指した先は、廃村の比では無い程の草木が茂る森の中だ。
村の中がそうであったように、草に覆われた道だった物が、森へと続いている事が薄らと分かる。

 だが、道だった物が道だった頃は遠い昔。
今はただ、人の名残りを伝える程度の役割しか果たせていない。

「……おい陰陽師、一応聞くが、てめぇは正気か」
「失礼ですね。何処からどう見たって正気でしょう?」
「何処からどう見ても正気じゃねえ事を言いやがったから聞いてんだよ」

 拗ねた様に唇を尖らせてみせる陰陽師の答えを一蹴し、夜叉は目尻を吊り上げる。
そうでなくても悪鬼羅刹そのものであるかのような顔が益々酷くなったと、陰陽師は内心だけで独りごちた。
口に出せば、目の前の悪鬼が酷く怒り出すだろう事は、陰陽師だって分かっていた。

「この、最早道でも何でもねえ物を行くのかよ」
「夜叉さん、気は確かですか? 私達さっきまでこの道でも何でも無い物を辿って来たんですよ」
「さっきはさっきだろうが。今俺様達が行こうとしてるのは村じゃねえ、森だ。人間如きが手出し出来ねえ自然の中だ。準備は整えておかねえと、冗談抜きで死ぬぞ」

 陰陽師は、夜叉の言葉を確かめる様に、幾度か目を瞬かせる。
夜叉が呆れて口を開こうとしたその時、陰陽師は漸く理解が追いついた様に、こくりこくりと頷いた。

「成程、一理ありますね。季節的にも、まだ日が沈むには早い時間ではありますが、私達は森の広ささえも全く知らないのですから、後日出直すべき……。夜叉さんはそう言いたいのでしょう?」
「ま、そういう事だよ」
「それは確かに、そうですね。今日の所はこの村で一泊させて貰いましょうか」
「……は?」

 夜叉は、耳を疑った。
聞き間違いでなければ、今この陰陽師は何と言った?

「おい陰陽師、今てめぇ何て言った?」
「嫌ですねえ夜叉さん。この村でお泊まりさせて貰いましょうって言ったんですよ」

 聞き間違いであれば、どれだけ良かっただろう。
陰陽師の表情を見れば、その言葉が冗談や嘘では無い事くらい、容易く理解出来た。
夜叉からすれば、理解したくも無い話ではあったが。

「一応聞くが、都には帰らねえのか?」
「だって、今都に帰ったら、また明日の朝ここまで来る事になるんですよ? だったら、今晩一泊させて貰った方が、明日の時間を有効に使えます」
「てめぇ、分かってんのか? この村に人はもう居ねえんだよ。居るのは妖だけだ。そんな場所で寝るなんざ、死にに来たのと変わらねえだろ」
「大丈夫ですよ。だって私には、夜叉さんがついてますから」

 それを言われてしまえば、夜叉とて口を噤むしか無い。
陰陽師の言葉を否定してしまえば、夜叉が陰陽師ひとり守れやしないと認める事になってしまう。
夜叉の自尊心が、己の弱さを肯定する様な事を認める訳が無い。
つまりは、その言葉を出された時点で、夜叉の負けだった。

「チッ、分かったよ。てめぇを守りゃ良いんだろ」
「お願いします、夜叉さん」
「いけしゃあしゃあと言いやがって……」

 元来た道無き道を戻って行く陰陽師の背中に、夜叉は悪態を吐き捨てる。
草に紛れて見えなくなってしまわぬ内に、夜叉も気怠い足取りでその背中を追いかけた。