上弦の月灯りが、私の部屋を不気味に照らす。カーテンを揺らすぬるい風に、読みかけの本のページが拐われた。
こんな夜は、独りで泣けばいい。
そう。
ロック・ア・コーなんかを、飲みながら。
「…なぁ…お前、ひょっとして組織にいた頃…」
貴方に、そう問いかけられた。私は、その先の言葉を言わせないように、遮るようにして別の話題で誤魔化した。
貴方に、知られたくなかった。あの人が、私の何もかもを見透かしてること。不覚にも落としてしまったたった一本の髪の毛が、私のものだとあの人に気付かれてしまったこと。貴方に、知られたくなかったのに。
「…貴方は、勘が鋭いものね」
そうしてまた、ロック・ア・コーを一口飲む。
特有の香りと、鋭い喉ごし。アペリティフとしても好まれている。昔から、好きだった。
…いいえ。
昔は、好きだった。
「何で…覚えてるのよ」
自分の髪の毛の先を、弄ぶようにして指先に絡める。あの人の横顔が、一瞬だけ浮かんだ気がした。だけど、ここに、あの人がいるわけでもなく。溜め息をひとつ吐(つ)き、目を伏せた。
*****
新薬の開発に追われ、パソコンに向き合う日々が続いている。電子顕微鏡やら試験管やらを代わる代わる見ては、その都度データを入力したり修正したり。ここ最近は、そんな毎日。研究所から出ることすら許されない。まるで牢屋から出られない奴隷のように、私は言われるがまま、新薬の開発を進めていた。
「シェリー」
「何?」
今日も研究所に篭りきり。組織の連中と言葉を交わすことは多少なりともある。だけど、もとから人と関わりを持つのが苦手だった私は、独りで居ることが好きだった。だから、こんな風に名前を呼ばれても、パソコンに向き合ったままの姿勢で返事をするのが、いつの間にか癖になっていた。
そんな私の世話役でもあったあの人は、さぞかしやりづらかったでしょうね。
「今日はそのへんで終わりにしろ」
やっと向きを変え、あの人に顔を向ける。そして、嫌味をたっぷり込めて言ってやった。
「あら。意外ね。ここ最近、遅くまで閉じ込められてたから、今夜もそうなると覚悟してたのに。少しは労ってくれてるのかしら?」
「フン、相変わらず可愛いげのない女だ」
「最高の誉め言葉ね」
気が付くと、研究室内は私達だけになっていて、窓の外の空も橙色から群青へと塗り替えられていた。
次々と機器類の電源を落とす。あの人は煙草をくわえたまま、ブラインドの隙間から落ちてゆく陽を見つめていた。
「今夜、俺に付き合え」
顔をこちらに向けようともせず、煙を深く吐きながらあの人は言った。
その言葉に心底驚いた。聞き間違えなんじゃないかと思うほど。私が驚いて言葉に詰まっているのがわかったのか、あの人は続けた。
「なあに、殺しはしねえさ。お前に死なれちゃ、俺らは困るからなあ」
「………」
「いや…」
「……?」
鋭い視線が交わる。刹那、私の鼓動が速まった気がして。
「お前に死なれちゃ…俺が、困る。」
心臓を射抜かれたようだった。
思わず目を逸らしてしまいそうになる。どういう意味と取っていいのやら。私の思考回路は、完全に麻痺していた。
「…な、によ、それ」
「お前が死ぬ時は、俺が殺す時だ。」
「…あら。それは光栄ね」
辛うじて、平静を装うことができただろうか。目を細めて微笑みかけた。勿論、皮肉を込めて、ね。
「フッ…ハハハハハ!」
急に高らかに笑い出すあの人。そして、怪訝な顔でいる私の元へと近寄ってきた。思わず身構えてしまう。
「ますます気に入ったぜ、シェリー…」
耳元で囁かれた言葉と、私の頬を掠めた銀髪に、どうしてだか、私は目眩がした。
その日、初めて私はあの人に抱かれた。
どうしてそうなったのか、覚えていない。
気付いたら、あの人の腕の中にいた。
薄暗い寝室の中、上弦の月灯りに反射するあの人の銀髪があまりにも美しくて。吸い込まれそうなあの人の深緑の瞳を見つめていたら、自然と涙が頬を伝った。
その涙をそっと拭うあの人の指は、幾人もの尊い命を奪ってきたなんて到底思えない程、優しくて。
私の全てを。
あの人に身を委ねた。
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2011.05.04
Gleis36