「春霞、たなびく山の、花桜。見れどもあかぬ、君にもあるかな。」
「なに言ってんだよ」
「えー大野くん、知らないのー?ふふふっ」
(まさか、こいつにこんなふうに言われる日が来るとは。)
大野けんいちは不貞腐れたようにむすっとした。
*****
小学四年生に上がる少し前、父親の仕事の都合で東京に引っ越すことになったけんいち。
生まれ育った場所は、富士山の麓に位置する静岡県の清水。少し自転車を走らせれば空と同じ色をした海にだって行けたし、家の周りは茶畑や田圃などの緑に溢れていた。遥か昔から日本人に愛されてきた富士山はいつだってそこに悠然と佇んでいて、雲がかかってすらいなければ、いつだってその姿を拝むことができた。
それらの景色を当たり前のように感じていたけんいちが東京に引っ越してきたとき、大きな衝撃を受けたのは言うまでもない。
無限に広がるはずの青空はどこまでもくすんでいて、しかもビルの隙間からほんの僅かしか覗けない。空気だって、深呼吸しようものならば噎せ返ってしまう。海へ遊びに行くのだって、車だの電車だのを利用して何時間もかけて行かなければ辿り着かない。やっと辿り着いたかと思えば、三保の松原のような美しい海岸でもなく、青とはほど遠い、東京の空と同じくすんだ色をした海だったりする。初めて東京で迎えた夏に、東京近郊の海へ家族で出掛けたけんいちは心底落胆し、そこではしゃぐ家族連れに冷やかな目を向けてしまうほどであった。
お茶畑や田圃なんて勿論あるはずもなく、街の一角に申し訳なさそうにひっそりと佇む小さな公園に、ほんの僅かな自然を見れる程度。道ゆく大人たちは誰もが無口で無愛想で、子供までもがそれを真似しているかのように見えた。
転校先の東京の小学校。クラスメイトも皆、流暢な東京弁。まだ静岡の言葉が抜けないけんいちは、自然と口数少なくなってしまうのであった。清水にいる自分の親友のように、腹かち割って話せるような友達もなかなかできなかった。東京の人間は、どうも上辺だけの付き合いのような気がしてしまう。皆が皆、そうではないのだけれど。
けれども当たり障りなくクラスメイトと仲良くなり、勉強も人並みに頑張り、清水に居たときからやっていたサッカーも続けたりして、けんいちはただなんとなく日々をやり過ごしていた。
そんなけんいちに朗報が舞い降りたのは、中学二年生に上がる前の頃のことだった。
「中途半端な時期になっちゃってけんちゃんには申し訳ないのだけれど、」
申し訳ない?自分の母親が何を思ってそう言っているのかが、自分にはわからなかった。父親の仕事の都合で、清水に帰れることになったのだ。この上ない朗報ではないか。とけんいちは歓喜した。
小学生のようにクラスでお別れ会なんてものを開くこともなかったが(そもそもこれも東京だからなのか?とけんいちは思ったりもしたが)、仲の良い友達同士で集まって、その友達の家でささやかなお別れパーティーを開いてくれた。
上辺だけの付き合いをしているような気はしていたけれど、いざお別れとなると案外淋しいものなのかも、などと考えながらも、心のどこかでは清水に帰れる喜びの方が勝っていたけんいちでなのであった。
*****
そして中学二年生になったけんいちは、清水へ帰ってきたのであった。
巴川沿いの道で聞く川のせせらぎ。まだ残雪が残っている富士山。澄み渡るほど青く高い空に、散りきった桜によってできた薄桃色の絨毯。新茶の季節をもうすぐ迎える茶畑は、若々しい色彩を帯びていた。
あの頃と、何一つ変わらない。
そんな、懐かしい景色を目に焼き付けるようにして、新しく通う中学校へと足を運んだ。
「おい!大野!お前、相変わらずだなー!」
「杉山こそ!変わってねぇなあ」
小学生の頃と変わらない親友の様子を見て、けんいちはほっとした。久しぶりのこの感じを、人はどう表現するのだろうか。とにかくけんいちの胸には、懐かしさで溢れていた。
小学生の頃は学級委員長の選挙に必死だった丸尾は、今では生徒会の役員になるための選挙に夢中であったり、一回りも二回りも大きくなったように見える小杉の食欲も前と変わらない。小学生の頃より血相が悪くなったような藤木の横には、身長が結構伸びた永沢。相変わらずつるんでいる。花輪は以前に増して高飛車になったような気がするし、城ヶ崎なんてそれ以上だ。B級トリオなんて呼ばれていた はまじにブー太郎に関口も、クラスが変わったにも関らず、休み時間の度にやってきてはあの頃のように教室の隅でふざけ合っている。山根の胃腸の調子は前よりは良くなったのか、以前よりは顔色良く見える。山田の落ち着きのなさだって、相変わらずだ。
皆、変わらない。
身長が伸びたり、声が変わった男子や、お洒落になった女子もいたりはするが、根本的なところというのか、人間の本質的なところというのか、あの頃と変わってはいなかった。
そんな教室の片隅で、そう、あの頃もこんなふうに、窓側でよくお喋りしていた二人がいる。
おさげと眼鏡が特徴のたまえも、あの頃と変わらない。そして、その隣りで、女のくせに大きめな声で笑っている彼女は、肩のラインで切り揃えられた黒い髪を揺らしていた。その髪型も、小さな身体も。さくらももこは、あの頃と何一つ変わってはいなかった。
いつもそうやって過ごしていた。
こちらに気付いたももこは、けんいちの元へと駆け寄ってきた。
「大野くん!久しぶり〜!元気だった?」
「おう。さくらこそ、元気だったか?」
「元気元気!いやあ、前より男前になってねぇ〜!よっ、色男♪」
「お前なあ…相変わらずだな…」
なんて言いながらも力なく笑ってしまうけんいちだった。
東京にいた頃は、こんなふうに女子と話すことができなかった。できなかった訳ではないが、億劫だったのだ。
けんいちが女子と少し話したり仲良くしようものならば、すぐに好きだの付き合ってくれだの告白してきたりして、断ればぶすくれて去っていき、翌日にはシカトときた。
そんなやりとりが面倒くさくなって、結局女子と必要最低限のこと以外では関わらないように自分から避けるようになったのだ。
小学生の頃と変わらないももこと前のようにこうして話せることが、けんいちは素直に嬉しかった。
こうしてあの頃の友達とも再会し、自分に合った環境の中でけんいちは中学時代を楽しんだ。
勉強は得意という訳ではなかったけれど、それなりに本気を出せば学年上位をキープしていたし、サッカー部に所属して部長も務めた(ちなみにさとしは副部長で、長谷川がキャプテン)。
部活三昧の夏休み。お盆の時期だけ少し休みがあったので、小学生の頃のようにさとしと富士山に登りに行ったりした。
そういえば、あの頃と少し違うことがあった。
さとしはたまえと仲良かったのだ。付き合っているとかではなさそうだが、以前は一緒に遊びに行くなんてこともなかったのに、いつの間にか二人の距離は縮んでいた。
必然的にその隣にいるももことけんいちも、以前よりも確実に仲良くなっていったのだった。
*****
「おれ、穂波のこと、好きなんだ。」
親友からそう告げられたのは中学三年生の夏の終わりだった。
部活帰りに二人でみまつやに寄り、アイスを食べながらだらだら歩いていたとき。陽が長いこの時期にも関らず、部活が長引き夕暮れ時を迎えていた巴川沿いの道。海からの風が止み、山からの風へと切り替わる無風の瞬間。この夕凪特有のむわっとした暑さの中、さとしはひとつひとつの言葉を紡ぐようにして言った。
「いつからとか、そういうの、わかんねーんだ。でも、なんかこう、すっげぇ大切なんだ。穂波のことが。」
さとしが真面目な顔をして言うもんだから、けんいちは目を丸くした。自分の親友がそんな顔をするのを初めて見たからだ。
だからけんいちは、さとしのことを茶化したりすることなく、静かに相槌を打ちながら聞いていた。
山からの風が吹き始めた。
切り取られたようなその瞬間を、けんいちは忘れることはなかった。
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2014.07.31
Gleis36