6. 君はデンドロビウム
春はあっという間に目の前を通り過ぎていった。
あの旅行から帰ってきたときに二人を出迎えてくれたのは、里の近くに咲く桜だけだった。あのときは満開という言葉がふさわしいほど見事な様であったのに、二週間も経った今ではもう潔く散っていて、その枝からは新芽がちらつき、初夏の匂いを漂わせている。
五月晴れ、とはよく言ったものだ。ついこの前の春霞なんて忘れるくらいの晴朗な空である。この嘉日に、里ではまさにおめでたい行事が行われていた。
高砂に戻る花嫁は、この晴れの舞台に似合わないぶすくれた表情をしている。
作り笑顔が疲れたわけではない。最愛の人が自分の結婚式に出席しているからだ。しかも隣には妻が居て。
胃のあたりはきりきりと痛み、喉の奥がカラカラに渇ききっている。注がれてからだいぶ放ったらかしにされているシャンパンを一気に飲み干してみるが、喉の渇きは変わらなかった。
結婚式に招待客が夫婦で列席することくらい普通だ。こちらだって夫婦二人分の席も名前も用意してある。常識的にそうしておかないとまずいことくらい、いのにだってわかっている。「最愛の人が自身の結婚式に出席している」ということ自体が、非常識だということも。
「どうかした?」
隣の席で自分の身を案じてくれるサイ。
山中家に婿養子に来てくれた彼は、俗に言うイケメンの部類に入る顔で、元から決して嫌いというわけでもなかった。ただ、本心なのか定かではないが突拍子も無い発言をすることもしばしばあったり、掴みどころのない性格の彼とどう接していいかわからなくなることもあった。
山中家を受け継いでいくためには、次期当主として生まれた女である自分が、婿養子を取らなくてはならなかった。そこに白羽の矢が立ったのがサイであった。彼は婿養子としての条件を満たしていたため、この縁談はすぐに現実味を帯びたものとなったのだった。
「別に……」
ぶすくれた顔のまま呟く いのは、手付かずでいたメインを食べようかと思ったが、ナイフとフォークを握るのも面倒になってやめた。
いのがここまで機嫌が悪いのは、シカマルが妻のテマリと自分の結婚式に出席している、ということだけではなかったのだ。
*****
遡ること一週間前。つまり、あの旅行から帰ってきてからちょうど一週間後。
今日の任務の報告を終え、帰ろうと火影室から出たところでシカマルと偶然会った。会いたかったのだが、いざ目の前にシカマルが現れると、何だか気恥ずかしい。少しお茶でもしない?と、明るく振る舞ってみせたが、なぜだかシカマルは少し浮かない顔をしていた。
よく行くあの喫茶店。平日の夕方ということもあって、店内はそこまで混雑していなかった。
長居はできないだろうと、いのはダージリンを頼む。最近だいぶ暑くなってきたからアイスにするか迷ったが、結局ホットにした。シカマルも、いつものブレンドを手短に頼んだ。
「あれからどう?」
「何が」
「その…怪しまれたりしてないかなって…」
「今のところ大丈夫そうだけどな…」
そっか、と溢した視線の先に揺れる指輪。旅行のときは外してくれていた、あの指輪。戻すのは、当たり前なのだろうけど。胸がきゅっと締め付けられる。落としていた視線を上げて無理にでも明るく振る舞おうとした。
「ねえ!また行きましょうよ!旅行!」
音量を落としてはいたが、弾む いのの声色に驚いたシカマルは思わず辺りを注意深く見渡した。
「……お前な…ちょっとは危機感持てよな」
「何よお。大丈夫でしょ。お客さん少ないんだし、誰も聞いてないわよー」
「そうかもしれねぇけど…ていうかそういうことじゃなくて…」
言葉を濁すシカマルの眉間の皺が深くなる。その上溜息まで漏らされ、さすがに いのは苛立ちを覚えた。
「何よ、はっきり言いなさいよ!」
「……なあ、俺達、ちょっと会うの控えねえか?」
ホットティーにして失敗だっただろうか。掌に汗が滲んでいる。それともこれは、今の言葉のせいなのか。
乱れそうな呼吸を整えるように深呼吸をひとつして、シカマルに問いかけた。
「どういう…意味よ……」
「お前も来週結婚する。お互いに既婚者になる。このまま会い続けたり旅行をしょっちゅうするのは、かなり危ねぇと思う」
「そ、そんなの、大丈夫よっ!」
「何を根拠に?」
「えっ…」
言葉を詰まらせる いの。気を持ち直すように紅茶を飲むが、舌が痺れているかのように味がわからない。掌にはやっぱり汗が滲んでいる。
「ほら、あんたも言ってたじゃない!忍には極秘任務もあるから案外バレないもんだって…!」
「極秘任務がそう何回もあると思うか?ましてや長期の単独任務なんて…」
「そ…んなの……あるときはあるでしょ!大丈夫よ!わたし、あんたとまた旅行がしたいのよ!」
「お前な。それはちょっと我儘なんじゃねぇか」
これにはさすがにカチンときた。思わず声を荒げる いの。その声は怒りと恐れで震えている。
「どこが我儘だってのよ!」
「落ち着けって。あのな、いの。別にこの関係をやめようって言ってんじゃねぇよ。様子を見てまた行けそうだったら行けばいいじゃねぇか。立て続けはさすがにヤベェって言ってんの」
「……」
「里の人に一緒に歩いているのを見られても、俺らが幼馴染ってのはわりと有名だから大丈夫かもしれねぇけど、その頻度が高いってのもまずいだろ」
「……」
いつにも増して口数が多い気がする。まるで何かに言い訳しているかのように。
「なんで…なんで急にそんなこと言い出すのよっ!」
「別に急じゃねぇよ。今は、ちょっと控えようって言ってるだけだ」
「……わたしのこと…嫌いになったの…?」
「だからそうじゃねぇって!」
声を荒げるシカマル。その音量は周りに聞こえない程度ではあるが。痺れを切らしたようにも、苛立っているようにも見てとれる。シカマルも、自身を落ち着かせるようにブレンドを一口飲み、小さな深呼吸をした。
「…いの」
ワントーン下がった声のシカマル。瞳は真っ直ぐと いのを捕らえている。いのも背筋を伸ばして真っ直ぐと見つめ返した。
こうしていると、絶望の刃に胸を貫かれたあのときを思い出す。政略結婚のことを聞かされたあのときを。
「何よ」
「…俺は、お前のことを、嫌いになったわけじゃない」
単語ごとに句切ってゆっくりと確認するようにシカマルは話した。「むしろ…好き過ぎて困ってんだよ」と続けた彼の顔は、僅かながら確かに赤らんでいて。襟足の辺りを弄る、その癖がどんなときに出る癖なのかも、いのは知り尽くしている。
そんな姿を見て余計に、じゃあなぜ距離を置こうなんて言い出すのか、ともう一度問い質そうとしたそのとき、シカマルに先を越された。
「この関係をずっと続けたい。それはお前も一緒だろ?」
そんなことは彼女には愚問だ。間髪入れず首を小さく縦に振る。
「だからこそ、もっと慎重になるべきだと思う。一切会わなくなるとかそういうんじゃなくて、今までよりは控えようってことだよ。周りから変な勘繰りされないように、様子を見ながら自然にしてようぜ。な?」
いのは唸るように返事をする。肯定しているとは言い難いくらいの曖昧なものであったが。
ダージリンはすっかり渋みが増してしまい、何だか飲む気すら失せてしまう。だからと言って砂糖を入れたりしないのだが。熱さは和らいで飲みやすくなったかと思っていたのに、と 溜息をひとつ溢した。
帰り道、二人の間で交わされる会話は少なかった。
どうもシカマルにうまく言いくるめられた気がしてならない いのは、ずっと怪訝な面持ちだった。
暗くなり始めた街を照らす街灯が視界の隅で切り取られた。いつもなら人目に付かないよう路地裏に入って甘いキスを交わすのだが、今日はそんな気分じゃない。重い足取りでつく帰路はとても長く感じた。
*****
先週のその出来事だけならばまだしも。
結婚式に出たくない。そう言っていたのはどこの誰よ!と、いのは呑気にワイングラスを傾けているシカマルを睨んだ。
主賓の次に上座とされる席にシカマルを配置していた(仕方のないことだが妻はその隣にいる)。チョウジもそのテーブルだ。一番付き合いの長いシカマルやチョウジは、異性と言えど本来新婦側の席につくのかもしれないが、招待客の殆どが同期のため、男性か女性という括りで席次を決めた。
時折目が合いそうになるが、シカマルは意図して目を合わせないようにしているのか、こちらから送った視線もそれとなく逸らされる。それが余計に いのを苛立たせた。
「ほら、せっかくの美人さんが台無しだよ」
にっこりと微笑むサイに、いのは少し吹き出した。どうもサイには調子を狂わせられる。
「それは本心で言ってるのかしら?」
「勿論」
「へぇ?最近読んだ本は何?」
「"女心を掴む方法"」
サイは飄々と笑いながらそう返し、メインの肉料理を口に放り込んだ。思わずふふっと小さな笑い声を溢す いの。
「その本の著者も、大したことないわね」
にっこりと笑いながらそう言うと、きりきりとした胃の痛みが少し和らいでいることに気が付いた。先程は手をつけるのをやめたメイン料理に手をつけてみる。美味しいわね、とサイに話しかけると、今頃知ったの?とまた笑った。
彼は読書が好きだ。本の内容を鵜呑みにして苦手な人付き合いを克服しようとする、不器用だけど健気なところがある。
彼には婿に来てくれたことも含め、感謝しなければならないところが沢山ある。今だってそうだ。刺々しい気持ちが少しだけ和らいだのも、彼のおかげなことに間違いはない。
「…ありがと」
唇を滑るように小さく呟かれたその言葉は、彼にちゃんと届いていたのであろうか。いのは自嘲の笑みを溢した。
一方のシカマルはというと、これだけ多くの人が集まる結婚式という行事にテマリを連れてきたのは正解だったかなと、ひとり悦に入っていた。いのには悪いけど、と付け足して。
大勢の前で妻と仲良くしているところを見せつければ、妙な噂も立ちにくいはずだ。また一口含んだワインは格別だった。
時折感じる鋭い視線は いのからのものだということくらい、彼女を見なくたってわかっている。しかしどうしてだか今は、カモフラージュしなくてはいけないのだと、どこか焦燥の色を帯びた気持ちがシカマルの胸の中を行き交っていたのだ。
*****
綺麗にプレスされたワイシャツ。面倒くさがりの彼がアイロンなんてかけるわけがない。隣で笑っているあの女がやったと思うと、一層忌々しさが込み上げてくる。拳を握りしめ下唇を噛み、怒りを抑えようとするがうまく自制できない。
「いの」
ふと呼ばれた自分の名。昔からの馴染みのある声。振り返るとそこにはやはりサクラがいた。ボルドーのカクテルドレスを身に纏い、控えめにストールを羽織っていて、実にサクラらしいコーディネートだ。
「おめでとう、いの。サイも。」
「サクラー!」
「ありがとう」
「とても綺麗ね。写真、撮ってもいい?」
「ふふ、いいわよー」
最初は三人で撮り、その後 いのと二人で並んで撮った。
そのときだった。サクラの声が いのの耳に僅かに届く。いの以外の誰にも聞こえないように声を潜め、表情ひとつ変えず口元もほぼ動いていない耳打ちだった。
「…いの」
「何?」
「……あんた…今は我慢しなさい。辛いだろうけど、大勢の人がいるのよ。不機嫌そうな顔しちゃダメ。バレちゃまずいんでしょ。」
「サクラ……」
さすがに付き合いの長い親友だけある。気付かれていた。シカマルとの関係のことも、不機嫌そうな顔をしていたことも。サクラにはまだ何も話していないのに。
「私が気付いていなかったとでも思ったの?何年の付き合いになると思ってんのよ、いのブタちゃん」
「……ふん、デコリンサクラのくせに」
皮肉混じりに吐き捨てるように言ったつもりだが、それが いのの嬉しさの表れであることも、サクラは知っている。
写真の写り具合を確認し終わったサイ。こちらを見て片手でOKサインを作っている。サクラは いのに向き合い、手を取った。
「今度話聞くから。だから今は、笑ってなさい」
「……うん」
真っ直ぐ見つめ返した。今はサクラに救われた思いだった。サクラの手を握り返す いの。その手に込められた力に「ありがとう」という思いが込められていたことを、サクラも感じ取っていた。
今度サクラに聞いてもらおう。独りで抱え込み煩悶(はんもん)する必要はないのだと、いのは安堵の息を漏らした。
顔を上げると、スポットライトに煌々と照らされた。この歓談の後はブーケプルズの時間だったか。やたらと流暢に話す司会者の言葉を聞いて我に返る。サイにエスコートされ立ち上がり、前を向く。その顔は、先程までの不機嫌な顔ではなかった。
*****
華々しい演出の披露宴に、お色直しも済んで きらびやかなドレス姿になった美しい花嫁を、会場の中で誰よりも羨ましそうに見つめる女性が一人いた。シカマルの妻、テマリだ。お酒はあまり得意な方ではないはずなのに、今日はよく喉を通るのはきっとこのワインが良い代物だから。
自分が結婚式を挙げたときのことを思い出す。
里の同盟のためもあって、ここまで華々しい演出を取り入れた披露宴を仲間内でできなかった。厳かに行われたことに不満はないのだが、キャンドルサービスやブーケプルズ、エンジェルサービスに撮って出しのエンドロール等、所謂今風のもう少し凝った披露宴をしたかったのが本音だ。
司会者の方を見るふりをして、もう一度 いのをちらりと見る。真っ白いウェディングドレスからお色直しした後の淡い紫色のドレスはいかにも彼女らしいセレクトだ。いつもはおろしている長い髪の毛も、今日はアップにされていてそれは美しいの一言だった。つい見とれてしまう。
自分だって幸せだ。こうして隣に夫がいて、堂々としていられて。
時折目を合わせては微笑んでくれる夫が、いつものシカマルとは別人のようで、テマリはどう反応していいのかわからなくなる。幼馴染の結婚式で機嫌が良いだけなのか、それとも、少しは自分のことを見てくれるようになったということなのか。後者だったらいいのにと、ぎこちなく微笑み返し、ワインをまた一口流し込んだ。花嫁の手紙が読まれ、そろそろ披露宴も終盤に差し掛かる。
仲睦まじい夫婦に見えているだろうか。以前自分の耳に容赦なく突き刺さってきたあの噂は、これで途絶えてくれるだろうか。そんなふうに周りの目ばかり気にしてしまう、そんな自分を情けなくも思う。
テマリがやりたかった演出のうちのひとつでもある、撮って出しのエンドロール。こうして見るとああ良い式だったなと振り返ることができ、感動も一入(ひとしお)だ。映像が終わり拍手が沸き上がると、照明が徐々に明るくなった。目を細めて笑っているシカマルに微笑み返す。
何も怖いことなんかないはずなのに、なぜ自分はこんなに焦っているのだろうか。何処からともなく溢れてくる焦燥感に、テマリの胸は押し潰されそうだった。
披露宴が終わり胸を撫で下ろしていたのも束の間、テマリが感じていたその焦りは、いとも容易く大きな不信感へと繋がるのであった。
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2017.08.10
Gleis36