5. チューベローズに溺れて
翌朝シカマルは鋭い風の音で目を醒ました。小刻みに揺れている窓の外は、まだ薄暗い。隣で愛しいひとが規則正しい寝息を立てている。その安らかな顔を微笑みながら見つめる。毎朝、起きたら一番にこの顔を見ていたい、などともう叶いもしないことを考えながら。
もう一度だけ隣で眠っている いのを見つめ、頬に優しくキスをしてから身体を起こす。昨晩の気だるい空気がまだ残っていた。今は心地よくとも感じるその空気を吸い込む。
ふと天気が気になり、障子を少し開けてみることにした。風は強いが今のところ雨は降っていないらしい。昨晩、天気予報を見そびれたことに今頃気が付いた。どうも雲行きが怪しい。この旅の行く末を暗示しているようで気分が良いものではなかった。
「…おはよ」
「あ、わり。起こしちまったか」
布団にくるまったまま いのはううん、と言った。いのの傍に寄りおはようと返し、いのの暖かい唇に触れる。
「なんだか天気悪いわね…」
障子の隙間から覗く空の色を見ながら呟いた。相変わらず風は強いままだ。
「まあ今日無理に秘湯に行けなくてもいいだろ。天気がこうも悪くちゃ、ただでさえ ろくな情報がない秘湯探しも難航するだろうしな。ここにもう一泊するってのも手だぜ?」
「んー…そうねー。ゆっくりするのも、悪くないわね」
昨日の様子だと、いのはアットホームなこの宿を気に入ったようだし、きっとこの提案に乗ってくれるだろうとシカマルは思っていた。
付き合いが長いとお互いの考えが手に取るようにわかる。こういうとき楽だと思う。やはり自分には いのしかいない。そう改めて実感するシカマルは、布団から出てきた いのを抱き締めた。
結局その日は部屋でだらだらと過ごした。時折共有スペースのようなところに降りてきて、この周辺の情報を集めたりもした。
女将はとても気さくなおばあさんだった。嫌な顔ひとつせず連泊を受け入れてくれ、むしろ久しぶりの若い客の連泊に喜んでいるようで、いのとお喋りを楽しんでいる。宿主であり女将の夫であるおじいさんは無口な人だったけど、優しそうな面持ちをしていた。どちらも噂好きなようには見えないから、この二人から噂が立つことはないだろうと安心した。
「土の国を越えた山合いの深いところに秘湯があるってどこかで聞いたことあるんですけど、知ってますか?」
すっかり打ち解けた女将に、いのがそれとなく聞いてみる。
「うーん……聞いたことないねぇ。あんた、知ってる?」
少し離れた所に居る夫に声をあげてみるが曖昧な唸り声しか聞こえてこない。
「力になれなくて悪いねぇ」
心底申し訳なさそうにする女将に、いのは首を振ってにっこりと笑った。
「いいんです。急ぎじゃないし。あったらいいなって思ってたくらいだから。それに、ここ気に入っちゃったもん」
あらまあそれは嬉しいことを言ってくれるねえ、と 女将は目を細めた。目尻にできた皺の深さが人柄の良さを伺わせる。
「明日探しに行ってみて、もしその秘湯がなかったらまた来ちゃうかもー」
いのが笑うと、いつでもおいで、と女将も笑った。
「秘湯のこと、知らないってー」
部屋に戻ってきた いのが言う。天気予報を見ていたシカマルは小さな溜め息を吐いた。それにつられて いのも溜め息を吐く。
「今日はずっとこんな感じの天気だとよ。よりによって台風とぶつかるとはな」
「いいじゃない。この宿気に入っちゃったしー。それに、」
「ん?」
シカマルに近付いてきてその首に腕をまわす いの。耳に息がかかる。あのときの、このままでいいと言ったときのことが甦る。
「…こうしてあんたとゆっくりイチャイチャできるわけだし」
耳が熱くなるようだった。
「イチャイチャって…」
お前なあ、と呆れるふりをするのが精一杯だった。そうでもしていないと、今すぐにでも押し倒してしまいそうだ。
窓はまだ揺れている。雨も強まってきて今がピークなのか、朝より風の音が大きい。多少の音もこの風の音に掻き消されるだろう。結局 いのの誘惑に負けてしまう自分の理性の無さに小さく苦笑した。
今は誰にも邪魔をされない。こんなときくらい二人だけの世界に酔いしれて危険な快楽に溺れてもいいだろう、と都合のいいことを考えている自分にまた苦笑しながら いのの熱い唇を奪った。
*****
昨日の大荒れの天気が嘘のように、今朝は清々しいくらいの晴天だ。気だるい身体を起こし障子を開けると、昨日は一度も拝めなかった陽の光が部屋いっぱいに差し込んできた。シカマルは思わず目を細める。
「もし探している秘湯が見付からなくて宿に困ったら、またおいで」
身支度を済ませた二人を見送る。すっかり いののことを気に入っている様子の女将は、寂しそうに言った。女将の手を握る いのもとても寂しそうだ。
「うん。ありがとう。でも…見付かって欲しい気持ちもあるけど、おばあちゃんにもまた会いたい気持ちも強いな」
嬉しいことを言ってくれるねえ。と目尻に皺を寄せて笑った。そろそろ行くか、とシカマルが いのに目で合図する。
「急な連泊なのに色々よくしてくれて、本当にありがとうございました」
「すっかり世話になっちまった」
丁寧にお辞儀する いのと、軽く会釈するシカマル。
「いやいや。私達も久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ。ねえ、あんた」
「ああ…」
女将の一歩下がったところから小さな相槌が聞こえた。宿主は無口というか、照れ屋なのだろう。
宿代は思っていたより安くすんだ。余計なことを詮索されなくてよかった。そして何よりも、いのがとても嬉しそうにしていたことが、シカマルにとって一番嬉しかった。秘湯の前にこんなに良い所を見付けられたことは、奇跡じゃないことを願う。
「また来るね」
また、来る。いつ、来れるのだろうか。いのは自分で言っておきながら少し悲しくなった。シカマルもまた然り。老夫婦に見送られ、二人は宿を後にした。
「素敵な宿だったわねー」
「ああ」
「…また、来れるといいわねー」
「……そうだな」
青空を見上げる。心の底から楽しんでいたあの頃が懐かしい。どうして今は、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
人里を避けるように回り道をしながら土の国を目指す。だいぶ険しい道なりになってきた。手を繋ぎたい。いのは特にそう思っていた。
「…ねえ。指輪、どうしたの?」
急に何を言い出すのやら。不安そうな顔をした いのを見返したシカマル。
「なんだよ急に」
「いつも首から下げてるじゃない。待ち合わせに来るときは、もうしてなかった。」
「気付いてたのか」
「当たり前じゃない」
「……付けられっかよ。今は、お前といるんだ。」
耳に熱が集まる感覚が自分でもわかるくらいだ。目を逸らして誤魔化そうとしたが遅かったか。すると いのは頬を赤らめ、幸せそうに笑った。ふいに持っていかれた自分の手。それは春風のように自然に。
「え、ちょ…おい、いの…!」
「いいじゃない、ちょっとくらい!こんな所に誰もいないわよー」
辺りは見渡す限り岸壁が立ちはだかっていて、極めつけに足場も悪い。こんなところ旅行者が通るような所ではない。確かにそうかもしれないが、任務で忍が通ることだって考えられる。シカマルは思わず怪訝な顔をした。その顔を見た いのはむくれながら言う。
「物陰になるようなところはないし、ちゃんと気配感じ取ってるから大丈夫だってば」
険しい岩肌は数十メートルの高さはあるだろう。それが延々と続いていて、辺りには木や草むらなど人が隠れられそうな所もなく、確かに見晴らしはいい。気配を感じるのも容易なはずだ。それでももし誰かに出くわしたら、足場が悪いとかうまく誤魔化せばいい。
「まあ…それもそうだな」
困った笑顔を向けると、彼女は嬉しそうに笑い、繋いだ手の力を強めた。外でこうして手を繋いで歩くのは久しぶりだ。くすぐったいような、気恥ずかしいような、付き合いたての頃を思い出す。本当は、いつだってこうしていたい。二人は同じことを思っていた。
この日は結局、秘湯の手がかりもなく見付けることができなかった。今からあの民宿に戻れるような場所でもなかったため、仕方がなく今晩は野宿することになった。できれば川の傍に野宿したいところだが、乾いた土地だから川を探すのにも一苦労だ。ようやく川を見付けた頃には、すっかり日も暮れていた。
「暖かくなったって言っても、夜になるとやっぱり冷えるわねー」
「そうだな。風邪ひくなよ」
ん、と短い返事をする。猫のように身をすり寄せてきた いのを自分の羽織の中に引き寄せて抱き締めた。すっかり日も暮れ、辺りは暗闇に飲まれようとしている。焚き火の炎が夜風に揺らめいた。
「……好き」
「…うん」
「…愛してる」
「……俺も」
こんなとき言葉が邪魔だったりする。伝えたいことは沢山ある。好きも愛してるも、何度言ったって足りない。そんなことは全部、ぜんぶ、わかってる。お互いに。
ゆっくりと眼を閉じてキスをする。二人の夜は、静かに静かに更けていった。
*****
やっと秘湯に辿り着いたのは、それからもう一晩野宿をしたあとのことだった。
今日こそは見付けないと、秘湯にすら泊まれず帰ることになるのではないかとシカマルは焦っていたが、いのは相変わらず「あんたと居られれば見付からなくたっていい」と笑っていた。
そんな矢先に、休憩がてら寄った甘味処のおばちゃんに秘湯の噂を聞いたのだった。噂だから当てにならないよと言われたが、そのつもりで来ているわけだし、無いなら無いでいいと いのも言っていることだし、取り敢えず話を聞いてから甘味処を後にした。
険しい山道を抜け、教えられた道を進む。乾いた土地ばかりだったのが徐々に色彩を帯びていく。木々の緑と、春の花の色々。花の名前やら花言葉を楽しそうに話す彼女の弾んだ声を耳に、シカマルの胸も僅かに弾んでいた。
山合い深くまでやってくると、どこからか硫黄の香りが漂ってきた。
「いの!」
「これって…!」
「だな!」
温泉の匂い!と二人で声を合わせて笑った。
足を早め匂いを辿る。すると小さな集落のような所に出た。湯けむりの上がっている建物が、おそらく宿だろう。宿は二、三軒か。どれも小さな宿だ。建物の数としては然程多くないが、念には念を、と集落の外れにある一番小さな宿にした。
シカマルだけが先に中に入り、様子を伺う。奥から女将が慌ただしく小走りで出てきた。
「いらっしゃいませ〜。ご予約の方ですか?」
予約客が他にいるということか。シカマルは少し警戒する。
「いや、それが…予約してないんスけど、今晩二人、一泊できますか?」
「大丈夫ですよ。食事はどうします?」
「いただけるなら…」
「今からなら夕飯にも間に合いますし大丈夫ですよ」
時計を横目に、にっこり笑う女将。民宿といい、ここといい、夕食にありつけるなんて実に運が良い。
二晩野宿だったし多少の贅沢くらいしてもいいかな、とシカマルは思わず喉の奥を鳴らす。
従業員もあの民宿のように宿主と女将の二人だけで、こちらも夫婦で切り盛りしているといったところか。位置付けとしては旅館なのだろうが、旅館というよりは民宿に近い雰囲気が漂う宿だった。ここなら大丈夫か、とひとつ息を吐(つ)くシカマル。
じゃあお願いしますと頭を下げ、外にいる いのを呼びにいった。
案内された部屋でくつろいでいると、部屋の外から声が聞こえてきた。他の宿泊客だ。どうやら他の宿泊客は初老の夫婦一組だけのようだ。自分達のことを知っている誰かと繋がりのある夫婦でないことを祈るばかりだ。
「見付かってよかったわねー。もう無いかと思っちゃった。」
二晩野宿だったため、ろくにお風呂に入っていなかった。いのはすぐにでも温泉へ行きたいと声を弾ませていた。
「俺も。ほぼ諦めてたわ。一泊しか泊まれねーけどな」
「だーかーらー!いいの!野宿だろうが何だろうが、あんたと一緒にいられるなら、それでいいんだってば!野宿も楽しかったし!」
ずいと身を乗り出すようにしてむくれた顔を近付ける彼女の勢いに負けそうになった。シカマルは力なく笑う。ふと、いのに意地悪をしてみたくなった。
「でもよ、」
わ、と いのが短く声をあげたのはもう押し倒された後のことだった。唇同士が触れ合いそうな距離まで顔を寄せられ思わず息を詰める。
「野宿じゃこうしてゆっくりできねーもんなあ?」
口角を上げ、目を細める。ふふん、と鼻を鳴らし、任務服にしては長過ぎるスカートの裾に手を忍ばせると、自分の下にいる愛しいひとは顔を真っ赤にして慌て出した。
「ちょっ…!急にびっくりするじゃない!」
脚をばたつかせ ささやかな抵抗をするが、シカマルはびくともせず覆い被さったままだ。悪戯に、襲ってやろうかなんて企んだシカマルだが、彼女の顔を見ているうちに、心の中にある何かが すとんと落ちる感覚がした。
「…いの。」
「…な、なによ」
そして溢れ出てくるのは いのへの愛しい想いと、甘く切ない言葉。先刻までの勢いは何処へいったのやら、自分でも全くわからない。
「……愛してる」
唇を滑る言葉。それを受け止めるように、いのの睫毛が揺れる。
「…わかってる」
「本当に……どうしよもなく、好きなんだ。お前を…愛してるんだ…」
いのの頬に温かな液体が落ちてきた。シカマルが泣いている。あの、シカマルが。長い付き合いだから泣き顔を見るのは初めてのことではないけど、まさかこんなに間近で見るなんて。
「シカマル……」
「………っ」
「…うん。わたしもよ。好き。大好き。あんたのことを、世界で一番愛してるのは、わたしだけよ…」
シカマルの頬に手を当てる。紅潮しているそれは、じんわりと いのの手のひらを温めた。自然と目の奥が熱くなる。
「…愛してる…本当に…」
「うん…うん…」
自分で言っていて、かっこ悪いってわかっている。男がこんなふうに女にすがるなんて。だけど、止まらない。愛してるの言葉も、涙も、想いも。
ああ、溺れている。危険な快楽だけでなく、この関係に、この愛しているという想いに、山中いのという、ひとりの女性に。溺れている。息も、できないくらいだ。息を求めるように、愛を確かめるように、甘くて深い口づけをした。
*****
さすがに秘湯というだけある。ささやかながらも露天風呂があり、湯加減も湯心地も格別であった。眺めも雰囲気もまずまずだ。深く息を吐きながらゆっくり首を回しリラックスする。もともと温泉は好きだが、万病に効能のある温泉だとか記載されているのは ろくに信じないシカマル。そんな彼ですら、湯上がりに足腰が軽く感じるくらいだった。もとより、ここ数日間険しい道を歩きっぱなしだった(しかも神経は研ぎ澄ませていたのもあった)わけだから、久しぶりの広いお風呂で身も心も癒(ゆ)されているのだろうけど。
どうしてあんなに涙が溢れてきたのだろうか。シカマルは先程のことを思い出していた。いのの前であんなに泣いたのは初めてのことだった。
本当はいつだって、こうして いのと触れ合っていたいのに、もうそれもできない。こんなふうに、こそこそと偶(たま)さかの逢瀬を堪能することしか、今はできない。そんなどうしようもない現実から逃げたくて、でもどうにもできなくて。いのへの想いも募り溢れ、でもやっぱりどうにもできなくて。苦しくて、苦しくて、気が付いたら涙が溢れていた。自分でも状況を飲み込むことができず、溢れた涙を止めようにも止まらない。そんな自分を優しく抱き締めてくれた いの。まるで母が赤ちゃんをあやすように、背中を優しくさすりながら。
「かっこわりーな…」
もうあんな情けない姿を見せるわけにはいかないな、と溜息混じりに溢した言葉は星が煌めく澄んだ夜空に溶けていった。
「お風呂、よかったわねー」
上機嫌に部屋に戻ってきた彼女の頬は赤く染まり長湯していたのが伺える。
「遠いから明日にはここを出なきゃいけねーもんな…」
「そうねー」
「…もうちょっと、居たかった?」
「そりゃあ、本音を言えばね。でも場所も覚えたわけだし、次来るときはもっと長く泊まれるでしょ」
ふふ、と笑いを溢すが、その目はどこか淋しそうで。次来るときは。それがいつになるかも、わからないわけだから。シカマルも いのと同じことを思っていた。いつかまた来れるといいなという言葉を飲み込んで力なく微笑み、そうだなと返した。
「遠いからどうしても前泊後泊に野宿挟むのがちょっと難点だけど!」
「…だな!」
場の空気を明るくしようとそう言った いのが笑う。つられてシカマルも笑った。
一緒に居られる時間は残り僅かになってきている。せめてこうして一緒に居るときくらい、なるべく明るく振る舞っていたい。
この幸せな時間がずっと続くといいのに、明日が来なければいいのに。シカマルに寄り添う いのは窓から覗く満月を眺めながら思っていた。
それでも時間というものは無情に流れるもので。昨晩たんまりと夜更かしした分、障子の隙間から射し込む朝陽が目に痛い。
まだ布団から出たくない。乱れた布団は決して寝心地の良いものではなかったが、愛する人とこうして手を繋ぎ寄り添っていられるあたたかい布団の中は、幸せそのものであった。
化粧なんかしなくても可愛い顔してんのに。間近で見る いのの寝顔に、ふとそんなことを考えていたシカマル。
うーん、と唸り寝返りを打とうとする いのを抱き寄せる。すると いのは目を醒ました。
「おはよ」
「…はよ」
あまりに自分のことをじっと見つめるシカマルに、思わず いのは何よと眉を顰める。
「小せぇ頃から見ていたこの顔が、やっぱり一番好きだな」
「なっ…?!」
慌てて起き上がり顔を赤くする いの。その反応にきょとんとしているシカマル。
「(起きて早々なんなのよ、もう…!)」
高鳴る胸の鼓動。朝っぱらから身体に悪い。
確かに、彼が好きなのは化粧していないときの自分の方だということは以前から知っている。だけどこの歳になって素っぴんでいる自信もなく、また女性の嗜みでもあるため毎日化粧は欠かせない。
「す、素っぴんでいられる歳はとうに過ぎたのよ!」
そうかあ?なんて気の抜けた声を出すもんだから人の苦労も知らないで!と、いのは心の中で小さく叫んだ。
「でもまあ」
「?」
「化粧したお前も、綺麗で好きだけどな」
「ばっ…!」
不思議と素直に気持ちを伝えられることに、昔の自分なら驚くだろう。結婚してしまってから、いのと一緒に居られる時間は限られてしまった。せめてこのときくらいは、自分の気持ちを包み隠さず伝えたい。そうシカマルは思っていたのだ。そんなシカマルの言動にどぎまぎし、恥ずかしくて居たたまれなくなった いのは、何よもう!と呟いて腰を上げた。
すると、ぐいと腕を引っ張られ、体勢を崩した いのはそのまま布団の上に倒れた。シカマルに軽く受け止められ目が合う。
「……まだ何か?」
「いや…」
「?」
「今日は野宿になるだろうし、まだ朝飯には早ぇし…」
どことなく、気まずそうに口を開くシカマル。襟足の辺りを弄りながら目を逸らすのは照れているときの彼の癖。すぐに察する いの。自分の手に当たった彼のその感触にも気付いてしまった。もう、しょうがないなあと言う いのもどこか嬉しそうで、結局自分も彼に溺れているのだと気付かされる。
*****
朝食前の時間帯の朝風呂は誰かと出くわすかと思っていたが、意外にも浴場には誰も居なかった。これ幸いと手際よく髪を上げて、軽く汗を流すように身体を洗い露天風呂へ向かう。長湯をするつもりはなかったが、昨晩見えなかった景色くらいは堪能しておこうと、朝陽に目を細め深呼吸しながら露天風呂を楽しんだ。長湯が好きな いのだったが、朝食前であったため、ものの数分で温泉からあがった。
鏡の前の自分を見る。肌の調子が良い。温泉効果なのか、愛する人と一緒に居られる悦びからか。
明日からはいつもの生活に戻ってしまう。だからせめて今この時を、自分達に許された時間を思い切り楽しもう。許された、と言っていいものなのか、世間からしたら許されないのかもしれないけれど。複雑な思いが入り交じり、リップを塗ったばかりの唇をぎゅっと噛んだ。
最後に長いながい髪の毛を丁寧にとかして、化粧台を後にした。今日の化粧が何となく薄い仕上がりになったのは、先刻シカマルに素っぴんを褒められたからではないのだと自分に言い聞かせて。
*****
良い温泉宿だった、と満足そうな笑みを浮かべて いのは言う。また行きたいという言葉が喉まで出てきたが、飲み込んで。シカマルも同じ気持ちだった。
そのあとは野宿だったが、二人で寄り添うように静かに過ごした夜も、今となっては温泉と同じくらい大切な想い出だ。
木の葉隠れの里が近付いてきている。足を止め、ここからは別行動するかと提案するシカマル。いのは俯いて唇を噛んだ。
「再来週…」
喉から絞り出すように出てきた言葉は意外な単語だった。言いにくそうにしている いのを見つめるシカマルは、その続きを待った。
「あんたは…式に来るの?」
「お前の?」
「……うん」
再来週には いのはサイと結婚式を挙げる。招待状には出席と書いて返信したが、正直のところ行きたくない。
「…そうだな……出席って返信したけど、行きたくねぇのが本音だな」
珍しく素直に自分の気持ちを言ってくるシカマルに、いのは驚いた。それが嬉しくて、でも悔しくて。複雑な気持ちだった。どうして自分達はこんな運命に生まれてしまったのだろう。こんなに惹かれ合っているのに。と、自嘲の笑みを溢す。
「あーあ!もう、ほんと、どっか行っちゃいたいわねー!このまんま!」
投げやりに少し大きな声をあげる いのの横で、そうだな、と返すシカマルは、一週間ぶりに煙草の火をつけた。
「あっ、煙草ー!」
「お前と居ると苛々しねぇからな。旅行中は吸ってなかったけどよ。もうすぐで里だと思うとつい、な」
困ったような笑みを浮かべたシカマルは、煙草の煙を一気に肺まで送り込んだ。久しぶりだからか、ほんの僅か一瞬だけ、軽い目眩がした。
「それにお前、煙草嫌いだもんな」
歯を見せるようにして悪戯に笑い、わざと煙を いのに吹きかけた。
「わっ、もう!サイアクー!」
いのはむせながらシカマルを小突き、口では怒っているようだったが、どこか嬉しそうだった。
夕陽が沈んでゆく。今日の色に染まりながら。明日はどんな色に変わるのだろうか。同じ色になることは二度とない。明日も、これから先もずっと、二人でこんな夕陽を見れたらいいのに。いのの頬に涙が伝う。吹き抜ける春風でそれを乾かしながら、沈む太陽を見つめていた。
陽が落ちるまでには里に帰らなくてはならない。そんなことくらい、いのだってわかっている。だけど、足に根がはったかのように地面から離れない。
「……行くか」
一番聞きたくないその言葉が耳に刺さる。シカマルだって言いたくないのはわかっている。旅行中に伸びた爪が拳の中で痕を作る。痛いはずなのに、胸の痛みの方が勝っていて、何も感じなかった。
--------------------
2017.04.04
Gleis36