「ねえ」
眉間に皺を寄せ唇を尖らせる目の前の彼女は明らかに不機嫌そのもの、といった顔つき。視線を宙にを泳がせて口ごもっているオレに、彼女はむくれてもう一度口を開く。
「ちょっと。和谷、聞いてる?」
ずいと顔を寄せられ、思わず後ずさってしまった。
「え、ああ…なんだっけ。」
「そ。じゃあ、もう一回聞くわね。さっきの言葉は一体どういう意味かしら?ちゃんと説明してくれないとわからないわ。」
さっき、というのはほんの数分前だ。棋院から市ヶ谷駅までの大した距離ではない道を二人で歩いていた、ほんの数分前の出来事だった。
院生が終わってから伊角さんや進藤達は、残って今日の対局の検討をしていた。オレは森下師匠の家に行く用事があったから先に帰ることにした。彼女───奈瀬明日美は、学校行事の準備があるだかで仕方なく早く帰らなくてはいけないらしく、それなら駅まで一緒に帰ろうということになったのだが。問題はそこからだった。今日の院生での出来事や学校のことなどの他愛のない会話をしていたのだが、話題はその学校行事の準備のことになった。
なんでも、近々文化祭があるようで彼女のクラスはメイド&執事喫茶をやることになったらしい。友達とメイド服の調達に出るというのが今日の彼女の用事だった。彼女は余程今日の対局の振り返りをしたかったのか、盛大な溜め息をつきながら「なんでよりによってこんな日に買い出しなのよ〜」と愚痴を溢していた。彼女と然程歳が変わらないオレが言うのも変だけど、これくらいの年頃のだいたいの女子は青春を謳歌するために学校行事に命を懸けていそうなのに、それよりも囲碁の方が大切なんだとはっきり言いきる彼女は、いかにも彼女らしい。そんな彼女を見ていると素直に嬉しい気持ちがあふれてきて、思わずオレは顔を綻ばせた。
「(奈瀬のメイド姿か…)」
検討ができず落ち込む様子を肩で感じながら、オレはメイド服を着た彼女の姿を想像していた。
お世辞でなくても彼女の顔立ちは整っていると前々から思っていたし、やましい目で見ているわけではないが容姿も良い方だと思っている。ふと横目で盗み見ると、長い睫毛に大きな瞳、通った鼻筋と透き通った白い肌、手入れの行き届いた綺麗な栗色の髪を揺らし、もう一度大きな溜め息を吐く彼女がいた。今日履いているスカートはメイド服と同じくらいの丈なのだろうか。メイド服なんてろくに見たこともないからわからないけれど。白くて細い脚に視線を落とさぬよう慌てて目を逸らす。
「……悪くねぇな。」
あろうことか、オレは思わず心の声を溢してしまったのだ。しかもその口許は僅かに緩んでいたような気がして。
「…え。」
「げ。」
怪訝な顔つきでオレを見ている。まずい。咄嗟に口を抑え、ばつの悪い様子でそっぽを向いたが時既に遅し。
「…和谷、いま、なんて?」
こうなりゃ白(しら)を切るか。
「………さあ?」
「悪くないって、何が?どういう意味で?」
「知るかよ」
「一体どういう意味なの?ねえ、和谷ってば」
「………」
じりじりと詰め寄ってくる彼女。その顔はどんどん雲ってきている。
「…もしかして、さっきのメイド服の話?」
「………」
ねえ、と彼女は口ごもっているオレに向かって続ける。
「ちょっと。和谷、聞いてる?」
ずいと顔を寄せられ、思わず後ずさってしまった。
「え、ああ…なんだっけ。」
「そ。じゃあ、もう一回聞くわね。さっきの言葉は一体どういう意味かしら?ちゃんと説明してくれないとわからないわ。」
こうなってくると彼女も聞き出すまで引かないだろう。何のことやら、と負けじと最後まで白を切ろうと試みる。そうこうしていうるちにJR市ヶ谷駅に着いた。足早に改札を潜り抜けホームへと続く階段を降りる。帰る方面が真逆だから、ホームに行って電車が来てしまえば逃げたも同然だ。待ちなさいよ、と後ろから声がする。わざと聞こえないふりをして階段を降りる足を早めた。
「あ〜!ひょっとして、和谷、あたしのメイド姿、想像したでしょ?!」
「しっ、してねぇよ!」
階段の途中で止まって振り向き、思わず大きな声を出してしまった。
「あ、図星〜!」
コツコツとブーツのヒールをリズミカルに鳴らせてすぐに追い付いた彼女は、オレに向かって悪戯な笑みを浮かべた。
「変な想像、していないでしょうねぇ?」
「するかっての!」
「フーン?」
慌てて否定したものの、これでは彼女のメイド姿を想像していたことを認めたような言い方ではないか、と後になって気付き焦った。
間もなく電車が参りますと耳慣れたホームの放送が鳴り響く。彼女が乗る方面の電車が先にやって来る。
手を後ろに組んで歩く彼女は、なぜだかどこか嬉しそうな顔をしている。大きな音を鳴らせてホームに滑り込む黄色い帯の電車。風圧に舞い上がる彼女の栗色の髪は、やっぱり綺麗だった。
「次の土曜日だから。」
「は?」
スピードが落ちきって電車が停まるのと同時に振り向く彼女。瞬きもできずに見ていると、その全てがスローモーションで再生されているようだった。
「文化祭。明日美ちゃんの可愛いメイド姿を拝みにいらっしゃい、和谷クン!」
「ばっ…!!?」
顔に熱が一気に集まる。ウインクをしてスカートを翻しながら車内へ入っていく彼女は、まるで蝶のように華麗だった。
電車はあっという間にドアを閉めて走り出してしまった。車内からにっこりと余裕の笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振っている彼女が見えた。スピードを上げてすぐに見えなくなってしまったが、その様子をオレは電車のドア越しに唖然と見つめていた。
「……行けるかっての」
小さな舌打ちと一緒に唇を滑る言葉。それは、自分でも信じられないくらい不貞腐れたような口ぶりだった。
電車の音が遠ざかって行く一方で、ばくばくと異様な音を立てる自分の心臓が煩いのはなぜなのだろう。まだ顔が熱い。瞼を閉じると、脳裏に焼き付いて離れないあの栗色の髪がまた揺れる。さっき、彼女にほんの少しだけ見とれてしまったのは、紛れもない事実だった。オレは慌てて首を振り、ぐしゃっと髪を掻きあげて、自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
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2020.12.27
Gleis36