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モーターホームに着いた頃、辺りはすっかり暗くなっていた。しかし、サーキット場はライトが煌々と光輝き、コースは照らされ、まるで昼間のように明るい。アルファロメオはその光に吸い込まれるように、ふらふらとコースに歩いていく。
「走りたい」
このままでは走り出してしまうと察したか、アルファロメオのピットクルーたちが彼を捕まえようとバタバタ駆け寄っていく。
「設備点検も兼ねて照らされているんだな。この明るさならナイトレースでも問題なさそうだ」
コースの様子を視察するエステートの目の前を、アストンマーティンとアルファタウリ、レッドブルが賑やかに談笑しながら素通りしていく。レッドブルの手には、ポテトチップスの袋が握られていた。
「なーにーをー食ってやがるんだ、レッドブル」
声をかけられてようやく気づいたのか、「ゲッ」とあからさまなぐらいに慌てふためきながら、チップスの袋を背中に隠すが、もう遅いことは本人ですら気付いていた。
「アタシ知らない、食べてませーん。タウリ行こ」
アストンマーティンに手を捕まれたアルファタウリは「えっ」と困惑の声をあげるが、そのまま半ば引きずられるようにその場を立ち去る。そんなアストンの背中に「裏切り者」というレッドブルの叫びが刺さるが、彼はブリティッシュグリーンの髪をなびかせながら、「ツイてなかったわね」と吐き捨てゲラゲラ笑いながら逃げた。
「お、オメーもう帰ってきたのか。心配したんだぜ、もう涙がちょちょぎれるぐらい」
1人残されたレッドブルは、気まずそうにぎこちない笑顔を浮かべ冗談を飛ばすが、エステートの顔を見て「あ、こりゃダメな感じか?」と、さすがに察したようだった。
「明後日フリー走行だろうが! 今すぐそこで重量測定しろこのバカ牛!」
「おわー!」
2人がおいかけっこをするその光景に、自分の目を疑い、思わず生唾を飲んだ。先程のロメオとは違って本気で逃げているはずのレッドブルに、エステートが追いすがっている。
「すごい、レッドブルと対等に戦ってる」
彼らが全力でコースを走る姿を見ていると、突然ぞわっと熱いものが込み上げてきた。血が沸き上がるようなこの感覚は、レース開始前と同じだ。レースの始まりを告げる信号機だけを見つめる、オールレッドからブラックアウトまでの、神経が研ぎ澄まされるその数瞬。走り出す瞬間を今か今かと待ちわびているあの時。
あのエステートと、本気で戦ってみたい。
「あらあら、エステートったら。ずいぶん遅いと思ったら、子牛ちゃんと遊んでたのね」
その凛とした愛しい声に、振り返って満面の笑みを浮かべる。そこにはやはり、メルセデスのセーフティカー……GT Rがいた。
「やあ、ウサギちゃん」
「こんばんは、花束の妖精さん。エースー、速く捕まえてー」
GT Rの呼び掛けに応えるように、エステートはさらにスピードをあげる。そしてレッドブルの首根っこを目で捉えると、そこに手を伸ばした。
「いでででで、壊れる壊れる!」
「壊れない。そのまま徐々に減速しろ」
レッドブルは言われた通り、徐々に減速する。エステートが掴んでいるおかげか、ぐっと速度が落ちた。
「あーーー、ポテチ没収か」
「どこで手にいれたんだ」
「タウリのファンが寄越したんだよ」
話を聞くと、現地のファンがアルファタウリにポテトチップスの箱詰めセットを送ってきたらしい。色々な味が楽しめるその中には、辛いものも混じっていたらしく、それを代わりに食べていたと言う。
「アイツ辛いの苦手だから、代わりにアストンと食ってやってたんだよ。もったいないだろ」
「お前なあ、」
エステートの説教が始まりそうになって、レッドブルは慌ててポテチをつかんで彼の口に放り込む。思わぬところでポテチを口にいれた彼は、なすすべなくそれを咀嚼し、その辛さに、雄叫びに近い悲鳴をあげ、むせかえった。
「レッドブルお前、ッお前ってやつは」
「美味いだろ、ホットチリ"レッド"ペッパー味。俺の名前も入ってる」
「髪のワックス溶かしてやろうか牛野郎」
「ぎゃーーーもげる!」
暴れるレッドブルを押さえつけ、重量測定器まで引きずっていく。入れ替わるようにフェラーリチームのピットクルーたちがやって来た。
「ごめんね、みんな。心配してくれてありがとう」
皆は一斉に、フェラーリの髪をとかしたり服のほこりを払ったりして、点検ついでに一通りの身だしなみを整えてくれる。
「ガソリンは……うん、まだ入ってる。大丈夫。事故も起こしてないし、マシントラブルはないよ」
そう伝えると、ピットクルーたちは安心したようにそれぞれの持ち場に帰っていく。明日、本格的に車検をされて、明後日から万全な体制でフリー走行に挑めるだろう。
持ち場をふと見ると、それぞれのテーブルには人数分のコーヒーカップが置いてある。アルピーヌがあのコーヒーを振る舞ったのだろう。少し遠くで様子を見ていたアルピーヌに手を振ると、手をあげて応えてくれる。
「ねえ、ウサギちゃん」
「なにかしら」
「お星さまにプレゼントを渡したいんだ。彼が今どこにいるか分からないから、一緒に探してくれないかな」
フェラーリの言葉に、GT Rはなにかを察したように「もちろん」と、笑みを添えて頷いた。
「でも、探す必要はないわ。あなたが会いたいと心から願ったから、彼に届いたみたい」
GT Rが指し示した方に目を向けると、飛び込んできた景色に心拍数が上がった。そこには、新たな衣装に身を包んだ彼が微笑みを浮かべて待っていた。GT Rは先にメルセデスに駆け寄ると、くるりと身体の向きを変えて「おいで、フェラーリ」と、2人で胸を広げて待ってくれる。
膝から崩れ落ちそうになるのをぐっとこらえて、フェラーリは二人の胸へ、ゴールへと歩みを進める。半世紀以上の歳月を、F1だけに捧げてきた。だが、このゴールより愛しいものが、いまだかつてあっただろうか。抱き締めていた花束を落としそうになる。バラの花束をGT Rに、シャンペトルブーケをメルセデスに渡し、フェラーリは2人に抱き寄せられた。
「お帰り、フェラーリ」
「ただいま」
2人の胸のなかで、かつて味わったことのない幸せを噛み締める。あまりに贅沢で巨大すぎる幸福に、今すぐ溶け出してしまいそうだ。
「ウサギちゃん、お星さま。迎えに来てくれてありがとう」
メルセデスとGT Rに差し出された手を、そっと包み込むように取る。ここがフェラーリの帰る場所なんだと、その2つの手の温もりが確かに教えてくれた。