素敵な街だ。人々は穏やかで、気候は安定していて、天気もいい。コーヒーも紅茶も美味しいし、なによりF1も開催するサーキット場がある。また来たいと思えるだけの要素が揃っていた。
「あれ?」
 丘へ向かっていると、よく見る姿がこっちに向かって歩いてきていた。駆け寄ってイタリア語で話しかけると、アルファロメオはフェラーリに気づいていなかったのか、少し驚いた表情を浮かべた。
「ヘビちゃん。どうしたんだい、こんなところで」
「どうもしない。散歩がてら街を見ていた」
 流暢なイタリア語が返ってくる。
「そうか。今からちょっと夕日でも見に行こうと思うんだけど、一緒にどう?」
 彼は空を見上げて、「トワイライトと呼ぶにはまだ時間がありそうだが」と聞き返す。フェラーリが丘の上を指差し「散歩の延長線に」と誘うと、なるほど、と納得したようにうなずいた。くるり、と踵を返し、自分が今来た道をスタスタと迷うことなく戻り始める。先を行くアルファロメオの背を追いかけ、隣に並ぶ。
「同意ってことで、いいのかな」
「どうせサーキットにいたって走れない」
「ああ、そうだね。まだ設営が終わってないチームもいるからね」
「設営準備期間中は危ないから走れないのは分かっている。だから、さっきまでガレージにいた」
「そういえばこの前……先週のレース前、それこそ準備期間のとき、コースに出てたよね」
「よく覚えているな、そんなこと」
「珍しいからさ。きみ、コースを下見なんてしたことないじゃないか」
「する必要性がない」
「そのあと、エステートがわざわざヘビちゃんの様子を見に行ってたけど、なにか言われたの?」
 ロメオの眉間に、ギュッとシワが寄る。案の定、なにか言われたようだ。不機嫌そうに前を睨み付けながら「釘を刺された」と、こぼしてくれる。
「コース内を歩くなら構わないが、走っちゃダメだと念を押された。……あいつがいないところで、軽い準備運動をしようと思っていただけなんだが」
「走る気マンマンだったってことだね」
「サーキット内を"歩く"なんて堪えられん。おれは、一刻も早く走りたいんだ」
 その口調はわがままな子供のようで、思わず笑ってしまった。
「かわいい」
「有り難いお言葉だね」
「すぐ拗ねる。そんなところもかわいい」
 フェラーリはロメオの腕を捕まえて、そのまま慣れた手つきで腕を組む。
「なんだ、甘えてきて」
「たまにはいいでしょ。ぼくのママだもの」
「いつの話をしているんだか。だが、積極的なやつは嫌いじゃない」
 素直な気持ちでお礼を言うと、彼の目がふっと細くなった。
 走れなくて、よほど暇だったのだろう。妙に口達者というか、いつも言葉少ない寡黙な彼が、今日は積極的に話してくれる。
「珍しいね。ヘビちゃんがこんなに喋ってくれるなんて」
「黙っていてほしいのか? 我慢比べは得意だぞ」
「違うよ。嬉しいんだ。普段、こうしてゆっくり話すこともないから」
 そうだな、と同意が返ってくる。が、だからといって格段、共通の話題があるわけでもなかった。2人で並んで静かに歩くだけで、とても穏やかでリラックスできる。ちらり、と顔を見ると、アルファロメオもまた、フェラーリの顔を見ていた。微笑みかけると、何事もないかのように目をそらすところが、昔から変わらなかった。
 ファンらしき人と目が合う。アルファロメオもそれに気づいたらしく、ファンに向かって「シー」と、唇に人差し指を当てて牽制した。
「ファンサービスならぼくもやるよ、さっきだってサインとかに応じて」
「花が萎れる前に帰りたいだろ」
 ハッとした。フェラーリの様子をきちんと観察した上での配慮だった。さすがはアルファロメオ、というところか。フェラーリと腕を組んだそのときから、彼はちゃんと歩幅を合わせて歩いてくれている。
「早くしないと夕日が見れないぞ」
 歩くスピードを速めたアルファロメオに、今度はフェラーリが合わせる。
 優しい母だ。アルファロメオのエンジニアだったエンツォ・フェラーリが独立し、自身の車会社としてフェラーリを立ち上げるときにも、見送ってくれた。レースでフェラーリがアルファロメオに勝利したときにも、心から祝福してくれた。決して顔には出ない深い愛情を、フェラーリは今も感じ取っている。
「ほら、ついたぞ」
 草原の丘につく頃、空は朱色に染まっていた。ここから時間の経過と共に鮮烈な赤色に変わり、夜の境目が見えはじめ、やがて濃い紫に変化していくだろう。いろんな世界でいろんな夕日を見てきたが、どこで見ても、変わらず綺麗だ。
「ママと一緒に夕日を見れるなんて思わなかった。ありがとう」
「おれも、息子と一緒に見れるとは思わなかったよ。あいつとも、な」
 少し遠くを見ている彼の目線を追いかけると、テールカットの長い裾をなびかせながら、不機嫌そうに眉間にシワを寄せたエステートが歩いてきていた。
「やっと見つけた。探したぞ、フェラーリ」
「ぼく?」
 今のエステートの歩き方は、怒気を孕んでいるというか、のしのしという擬音語がピッタリだ。「デコを出せ」と、同じく怒気を孕んだ声で指示される。彼はフェラーリの額に左手を添えると、その手ごと右手でフェラーリを叩いた。
 これは元々、日本の文化である一方的な罰ゲームをエステートなりにアレンジしたもので、彼なりのペナルティの与え方だ。大きな音と衝撃はあるが、驚くほど痛くない。
「ろくにガソリンも入ってないのにチョロチョロと歩き回るな。お前のピットクルーたちが心配していたぞ」
「歩くだけだし、紅茶とかコーヒーで足りるかなって思ってたんだけど……」
 心底呆れたと言いたげに大きなため息をついたエステートは、「ったく、あいつらも大変だな」とぶつぶつ言いながら頭をかいた。
「戦略を考えるやつらは、常に最悪の事態を考え、それに備える。あいつらは、もしもお前さんの身に何かあったらって考えが常に頭の中にあるんだよ。分かるだろ」
「親の心子知らず、ってやつか」
「ロメオもだぞ。おれの目を盗んで出掛けるとは、中々やるじゃないか」
 ロメオに睨みを効かせると、彼はその視線から逃げた。夕日を受けた彼の影が草原に伸びる。
「追いかけっこか? オーバーテイクしてやろうか」
「エスはおれたちを追い越せないだろう」
「どうかな」
 エステートも、元となった車に比べれば走行性能は格段に上げられている。だが、相手は元から速く走れるようにと設計された究極のフォーミュラカーだ。極限まで考えられたデザインも、搭載しているエンジンも、重量さえも明らかに違う。本気を出せば、2トン近いステーションワゴンのエステートなど簡単に撒ける。
 だが、今の彼らは互角の戦いをしていた。ロメオの態度とエステートの表情から察するに、お互いにごっこ遊びをしてふざけあっているだけだ。まるで、子供みたいに。
 エステートも、本気では怒っていなかった。フェラーリ、アルファロメオを見つけたときに、彼が一瞬だけ安堵の表情を見せたことに、フェラーリは気づいていた。心配していたのだろう。
「よし、捕まえた」
 首根っこを掴まれたアルファロメオは、不機嫌を隠すことなく表情に出す。滅多に自身の感情を表に出さない彼が、普段なら絶対に見せることのない顔だ。
「さ、帰るぞ。帰ったらまず、ピットクルーたちに遅くなったことを謝るんだぞ」
「うん、分かった」
「いい返事だ。お母さんの教育の賜物だな」
「全くだ。親の顔が見てみたいよ」
 夕焼けに照らされたフェラーリの大切な花束は、まだ生き生きとしている。つぶれないようにそっと胸に抱いて、サーキット場のある方向へ、家路へと急ぐ。