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いつだって、その時々によって時代を牽引するものは変わっていく。ある時はウイリアムズ、ある時はマクラーレン、ある時はフェラーリ。そして、今は。
────────黒いマントが揺れるのを、遠くから見ていた。そのマントは風を受けて柔らかくなびき、受けた光をシルバーに変えて深く輝く。他を寄せ付けぬ荘厳な雰囲気と、艶やかな王者の風格と、あまりにも美しい佇まいに、ため息が出た。フェラーリの口から「綺麗だ」という言葉が、こぼれ落ちる。
「見つけたよ、ぼくのお星さま」
メルセデスに声をかけると、表情をパッと明るくさせ、胸を差し出してきた。「やあ、私の宝物」いつも見る光景なのに、ひどく浮き足立って、いつものように彼の胸に飛び込む。ぎゅっ、と抱きすくめられる感覚は、いつもと変わらずフェラーリの心をときめかせた。
「逢いたかったよ、フェラーリ」
「ぼくもだよ、メルシィ」
お互いの顔を見合うと、大きな瞳にフェラーリの顔だけが映りこんでいる。きっとフェラーリの瞳にも、彼の顔だけが映っているのだろう。そうに違いない。
「逢えない間、お星さまのことばかり考えていたよ」
「私も一緒だ。目を閉じるたびに、君の顔が脳裏に浮かぶ。でも、想像のフェラーリよりも本物のフェラーリの方がずっと素敵だ。ちゃんと焼き付けておかなくちゃ、ね」
メルセデスの手が、壊れ物を扱うようにフェラーリの頬にそっと優しく触れ、その温もりと繊細さに安心して身を委ねる。この愛が少しでも伝わるように、その愛を余さず受け取れるように、瞳の奥をのぞき込んで、じっと深く見つめあう。吐息がかかるほど近いのに、恥ずかしさよりも先に喜びが勝った。メルセデスがまばたきをする度に、その微かな音が聞こえる度に、彼に対する恋心がはずんでくらくらとめまいがする。
「ああ、どうしよう。お星さまに会うたびに、喜びでバーストしそうになるよ」
「それは大変だ。大切なパーツをなくさないように、私が全て回収しなくちゃいけないね」
「ぼくを、拾ってくれる?」
彼はその言葉に広角を上げ、自身の香りとペトロナス社のオイルの匂いが移ったシルクのマントをフェラーリの肩にそっとかけて、そのまま包み込んだ。
「一片も残さず」
胸の高鳴りの隙間から、すう、と息を吸う音を聞き取り、呼吸をするのを忘れていたことに気づいた。ときめきとはこういうものか。目の前の愛しい存在に心を奪われ、生命の維持すら忘れてしまう上、いっそこのまま時が止まればいいとさえ思ってしまう。時が止まってしまうのは、ダメだ。絶え間なく流れ続ける時間の中で、どれだけの愛を受け取り、また伝えられるか。それが、この世に生まれ出でた理由だから。
「フェラーリに出会えたことで、私が生まれてきた理由がわかった。こんなに愛おしい大切な存在に出会い、愛するのが、私の使命だったんだ」
「じゃあ、ぼくはきみから愛されて、またきみを愛するために生まれたんだ。なんて幸福なんだろう」
「そうだよ、私の宝物。愛している」
「すごく嬉しい。ぼくもお星さまを愛しているよ」
いつもの流れで、互いの頬に軽くキスを落とす。スッと身体が離れて「そのマント、そのまま預かってくれるかな」と頼まれた。理由を訊くと、彼は優しい笑みを投げ掛け、耳元で「夜、私のガレージに持ってきて」とささやく。
「それは私に逢うための片道切符だ」
ぽん、と肩を叩いたメルセデスは、人差し指をたてて唇の前におき、フェラーリの前を立ち去った。「犯罪級だよ」無意識のうちに、手で顔を覆い隠していた。頭のなかで、メルセデスの言葉がくるくる回る。片道切符。帰りの切符はきっと渡してくれない。喜びに胸が湧いた。
取り残された彼は自身のガレージに入っていそいそと上着を脱ぐと、持ち主と同じようにマントを羽織る。さすがにメルセデスの持ち物だ。柔らかくしなやかで、とろけるように手に馴染む極上の触り心地が、布を通してもよく伝わってくる。浮き足立つ心でマントを味わっていると、背後から足音が聞こえてきた。
「メルセデス?」
聞き馴染みのあるテノールに振り返ると、戸惑った顔のアルピーヌが立っている。羽織るマントの色から、メルセデスかと勘違いしたのだろう。
「ここ、フェラーリのガレージでいいんだよな」
そうだよと返事しつつ彼を招き入れる。アルピーヌは誘われるがままガレージ内に入り、適当なイスに腰を下ろすとカウンターに頬杖をついて「どうしたんだよ、そのマント」と興味ありげに聞いてきた。
「預かっているんだよ。ねえパインちゃん、コーヒー飲むでしょ。カフェラテとカフェモカなら、どっちがいい?」
「カフェオレは?」
「ドリップコーヒーはないかなあ」
「そうか、じゃあカフェラテ」
「仰せのままに」
シェル製のオイルやエンジン冷却水などが詰まった棚から、お気に入りのコーヒー豆の缶を用意する。
「そんなところに置いているのか。匂いとか移らないのか?」
「いつでも取り出しやすいところにしまってあるの。イタリアチームのいいところだよ。それに、密閉していれば……」
缶のフタが、開かない。
大抵のフタは、閉めるときよりも開けるときの方が力がいる。普通のネジやボルトですら、閉めるときの3倍ほどの力を加えないと緩まらないというのだから、密閉されたフタを開けるときは、同じぐらい、もしくはそれ以上の力が必要なのだろう。
何度か持ち変えながら、んん、と唸っていると、アルピーヌに「開けてやろうか」と手を差し伸べられる。と、同時にフタが開いた。顔を見合って、お互いに笑う。
「こんな風にちゃんと密閉していれば匂いも移らないし、そもそも移る前に飲み切っちゃうからね。パインちゃんのところは、どこにしまってあるの?」
「オレんとこは、確か空力関係のところと、冷蔵庫の中だな」
常設のエスプレッソマシンにコーヒー豆、水、ミルク、コーヒーカップをそれぞれセットして抽出させる。この機械は、ボタンひとつ押せば、全自動でコーヒーを抽出してくれる優れものだ。コーヒー豆を挽くときの、けたたましいグラインダー音がもう少し小さければもっといいのだが、まあ、仕方がないだろう。あまり文句を言うとコイツも機嫌を損ねてしまう。運転中でも熱くならないパーツをポンポンと軽く撫でると、グラインダー音が止まり、ほどなくしてエスプレッソの抽出が始まった。
「メルセデスとフェラーリで思い出したが、いつも2人でやってるアレはなんだ?」
「あれって?」
「なんか、2人で手を取り合って見つめあって、お互いに好きだって言い合うやつ」
真正面から改めて質問されると、なんだか気恥ずかしくて、「ああ」と生返事をする。
それは、どちらが言い出したのか思い出せないほど昔に、ゲームの一環として始めたものだった。元々は日本で流行っていたもので、互いが照れて笑ってしまうまで相手に『愛してる』と言い合うゲームだったはずだが、そんな言葉で照れ笑いをするほど色恋沙汰に奥手な2人ではなかったし、2人とも負けず嫌いだったので、勝敗はずっとつかずにいた。そしていつのまにか、顔を合わせれば互いを褒め称えるようになり、今では勝敗など抜きにして、本気で口説き合うような仲になってしまった。
「そんな経緯があったのか、呆れるな」
「結構楽しいんだよ。やってみるかい?」
「いやだ」
食いぎみに拒否されて、思わず笑ってしまう。「パインちゃんとならいいんだけどな」と聞こえるように独り言ちると、「その手には乗らん」とやはり拒否された。
「でも、不思議だよね。ふざけて言い合っていただけなのに、本気で好きになっちゃった」
「そんなにメルセデスのことが好きか」
アルピーヌの言葉に、間髪いれず「うん」と即答する。
「大好き」
「そうか。そんなに愛されているなんて、シルバーアローも幸せだな」
「幸せだといいな。さ、熱いうちにどうぞ」
小さなコーヒーカップを2つ並べてアルピーヌの隣に座る。このコーヒー豆は元々、フェラーリがどうしても飲みたくて、チームに無断でイタリアからこっそり取り寄せた豆だった。値は張ったが、優しい酸味と上品なコクのある苦味に加えて、その奥深くに香るほのかな甘さがフェラーリの心に突き刺さった。そして結局、チームのみんなにもこの豆の美味しさを知ってほしくて、皆に淹れたのだった。
「美味い」
「フフ、でしょう」
フェラーリは、アルピーヌの目元が柔らかくなったのを見逃さなかった。ふわりと瞳孔が白くなるのは、リラックスした証拠であり、心から美味しいと思ってくれた証だ。フランスのチームであるアルピーヌが、イタリアのコーヒーを美味しいと言ってくれたことに安堵して、自分のカップを傾ける。
「ああ、美味しいね」
いつもの新鮮な美味しさとミルクのほのかな甘味が、口のなかで華を咲かせると、ふと、2人の顔が脳裏をよぎる。メルセデスとGT Rにも、この美味しさを味わってほしい。きっと彼らも気に入ってくれるはずだ。
「そういえば、ぼくになにかご用?」
「いや、特になにも」
フェラーリのガレージにメルセデスがいると思っただけだ、と、アルピーヌはコーヒーをすすりながら続けた。
「じゃあ、お星さまに用事があったの? メルセデスと思ったから話しかけたんでしょ?」
「別に、用事なんかねーよ。……ま、あるとしたら、このコーヒーをもらいに来たってだけかな」
コーヒーカップを空にしたアルピーヌは、「ごちそうさま」と立ち去ろうとする。フェラーリは彼の手をぱっと掴むと、にっこりと広角をあげた。
「ちょっと街まで付き合ってくれないかな」
「そんなに暇じゃないって言ったら」
「今度のレースで手加減しない」
彼は微笑むフェラーリの真剣な目を見て、ふっと吹き出した。いつだって、手加減なんかしてないだろう。くつくつと笑いながら、瞳がそう言っていた。
「情熱的な誘い文句だな、気に入った。いいよ、どこにいくんだ」
「フラワーショップ」
「いいねぇ、フランスの伝統的なブーケを見繕ってやるよ」
ナンパがうまくいったフェラーリは、カフェラテをぐっと喉の奥へ流し込んだ。
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