サーキットから5分ほど歩くだけで、すぐに街は賑やかになった。ウィンドウショッピングを楽しんでいた人々が、こちらに気づいて手を振ったり、サインを求めたり、写真を求めてやって来る。その人混みをすり抜けてきた小さな女の子が、スカートをつまんでうやうやしくお辞儀をする。
「おや、素敵なお姫様。こんにちは」
「こんにちは、フェラーリさん。マント、かっこいい」
「ありがとう、大切な人から預かっているんだ」
 しゃがみこもうとしたとき、ぽん、とアルピーヌに肩を叩かれ、「あんま変なこと言うとスクープにされるから気を付けろよ」と、耳打ちされる。
「何人か"いる"ぞ」
 目だけで周囲をざっと確認する。カメラを向ける人の群れのなかに、どこの所属の記者だったかは思い出せないが、いわゆるパパラッチ風の者たちが確かにいた。
「仕方ないよ、ぼくたちは良くも悪くも目立ちすぎるからね。ぼくらが2人で歩いているだけでも、なにかしらは言われるさ」
 彼女は満面の笑みで抱っこをねだるように両手を広げてきたので、片膝をついてそっと抱き上げる。
「いいじゃないか。ぼくらはいつも通りにしてるだけだよ。────きみ、名前は?」
「アリエル」
「Benissimo.道理で可愛いと思ったよ、天使の名前だなんて。愛されているんだね」
 アリエルのおでこに、祝福の意味を込めてキスを落とす。
「アリエルの家族に幸せが訪れますように。誰か、この天使を迎えに来てくれるかい?」
 彼女の両親が迎えに来たので、彼女を引き渡し、母親には祝福のキスを、父親には温かなハグをしてもらった。アルピーヌは、ファンであろう女の子にサインをねだられ応じている。
「サインついでに聞きたいんだが、ここいらに良いコーヒー豆を扱っている店はないかな」
「え、パインちゃん、コーヒー豆が欲しいの?」
「そろそろオレたちのところの豆が無くなりそうなんでな。ついでに買っていこうと思うんだ」
 サインをもらった女の子は、嬉しそうにお礼を言いながら、コーヒーショップを教えてくれた。なんでも、そこは気になるコーヒー豆の試飲もできるようだ。それに、フランスで有名なマロンゴ社のコーヒーも取り扱っているとか。それを聞いた彼の瞳孔がさあっと赤くなった。歓声。
「フェラーリ、そこに行くぞ」
「了解」
「ありがとう、お嬢さん」
 アルピーヌは彼女の手を取り、手の甲に優しくキスを落とすと、周りから再び歓声が上がった。
 コーヒーショップに向かうアルピーヌの足取りは軽やかで、マロンゴ社のコーヒーがよほど嬉しいのか、小さく鼻唄も歌っている。
「しまった、一緒にお花屋さんの場所も聞くんだった」
「探せばどこかしらに出てくるだろう。さあ、多分ここだ。ついたぞ」
 程なくして目当てのお店に到着し、ドアを開けると、空気の流れに沿ってコーヒーの良い香りが2人を包んだ。来客に気づき振り返った男性の店員が、驚いて商品を落としかける。
「これはすごい、開店以来一番の大スター様のご来店だ」
 2人それぞれ握手に応じる。敬意のこもった握手に応じるのは、慣れてはいるものの、いつも嬉しくなる。レース中は観客のことなど見ている暇はないが、こうしてみると、実に幅広い年代のファンが性別問わず応援してくれていると実感する。
「このお店ではマロンゴ社のコーヒーを扱っていると聞いてね。試飲をお願いしたいんだ」
「ええ、ええ。ありますよ。すぐ用意しますので、待っていてください」
 窓際の小さなカウンターを勧められ、2人で並んで立つ。
「前に、モナコでホテルに招待されたことがあっただろ。ほら、コースの横に建ってるとこ」
「ああ、確か、オテル・ド・パリだっけ」
「そう。そこで提供されてんのが、マロンゴ社のコーヒーだ。ベルギーの王室御用達品として、王室紋章の使用も許可されている。言うなれば、コーヒー界のランボルギーニ、ってところかな」
 昔、フランスのコーヒーは美味しくない、と言われていた。それが今、技術が発展し最高級ブランドとして取り扱われているのは、とても名誉あることだ。だが、コーヒー界の"ランボルギーニ"と呼ばれるのは、いささか不満があった。
「そこは、フェラーリじゃないんだ」
「ランボルギーニの方が名前がかっこいい」
 フェラーリが不満を訴える代わりに唇を尖らせると、アルピーヌはさもおかしげに「冗談だよ」と笑った。
 コーヒー豆を扱う店なだけはあって、店内はコーヒーのフルーティーかつ新鮮で、濃厚な香りがずっと漂っている。店にいるだけで目が覚めていくようだ。アルピーヌと他愛のない談笑をしている間、電動で豆を挽く音は聞こえてこなかった。
「お待たせしました」
 おもむろにコーヒーカップが並べられる。立ったままコーヒーを飲むのは、どこかイタリアのカフェを思い出させて、なんだか落ち着いた。
「うん、最高だ。マロンゴ社の豆ってのもあるが、これは淹れた者の腕もあるな」
「ああ、良かった。お褒めに預かり大変光栄でございます」
 そのコーヒーには、ガツンと来る誇らしい苦味、深いコクと、その奥にキャラメルのような上品な甘味があった。どことなく、甘酸っぱい柑橘系の香りも漂ってくる。ああ、ぼくの飲んだことのある味だ、とフェラーリはそう思った。この味は、確か。
「勝利の味」
 そう呟いたフェラーリを、アルピーヌは見開いた目で見つめた。
「勝利の美酒……というべきかな。表彰台の中央に立ったときの、あのシャンパンファイトを思い出したよ。ドライバーと一緒に飲んだことがある」
「そんな、あのシャンパンと同じだなんて」
 店員は「すごい」と言葉をなくし、アルピーヌは「なるほど」と感嘆の声を漏らした。
「これがオレの国のコーヒーだ」
「素晴らしいよ、パインちゃん」
「もちろん、シャンパンとコーヒーは違う。そして、この美味さに勝るものはない。マロンゴ社のコーヒー、貰えるかな。オレのクルーたちに飲ませたい」
「在庫全て貰おうよ。皆にこの味を伝えたい」
 彼の言葉を聞いたアルピーヌは嬉しそうにニヤリと笑い、「そうだな、全て頂こう」と、フェラーリを後押しした。
「……っと、すまないがマスター、商品をオレのモーターホームまで届けてくれないか。あまり重たいものは運べないんだ」
「ああ、あのサーキット場ですね。お安いご用です。ラッピングはどうしますか?」
「そうだな。とびきり大きなリボンをかけてくれ。あと、これは入場許可証と、チップだ。コーヒー豆を運んだらあとは自由にしてくれて構わない」
 おすすめのフラワーショップの場所を聞き、会計を済ませ、二人は店を出る。「ありがとうございます」と、うやうやしくお辞儀をされた。