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「ミコトも旅を続けるのかと思ってたんだけど」
 ゆったりと歩くマコトが、ぽつりとそう呟いた。汀の門の反対側、半島に続く風濤の門をふたりで潜り抜けたばかりのサヤカが、寂し気にこくりと頷いて、振り向いていた。さっきまで門の際で二人を見送ってくれていたミコトの姿は既になく、王都を出入りする人々によって埋め尽くされている。彼との別れは済んでいた。
「でも、それだとお城を出る時にシュリちゃんがミコトの上着を持ってたのがおかしいよ」
「言われてみればそうか」
 まあいいか、そういうやつだしね。マコトがそう言いながらふと空を見上げ、サヤカもそれに倣ってくいと顔をあげた。サヤカの頭に乗っている帽子は、城でなくしたものと同じ形ではあれど新たなもので、黄色のリボンのついた茶の下地の意匠のものだった。結局前に持っていた濃紺の帽子は城にいる間には見つからなかったが、この新たな帽子はまだ旅を続けると言ったサヤカにマコトとミコトがふたりで買ってくれたものである。
 当の彼──ミコトは風濤の門まで来て、ひらりとふたりに手を振った。共に王都を回っておきながら、俺は王都に残るから、と告げられた時の衝撃はもちろんあったけれど、同時に柔らかな納得もあった。夢があるから、と言って、どこかナツに似た様子でさばさばと別れを告げる彼に一瞬寂しそうな顔を見せたものの、マコトもこくりと頷いていた。
* 馬車が2人の横を駆け抜けて行った。さりげなくサヤカのことを安全なところまで導いたマコトに、少し笑って話を続けた。
「でも、はじめは二人で旅し始めたんだったよね」
「その前は一人旅だったでしょ、サヤカは」
「マコトだってそうだよ」
「まあ、期間が違うから。ここからしばらくは二人だけど」
「……もうひとりには戻れないなあ」
 そう言って微笑んだサヤカに、マコトがこくりと頷いて笑う。左手に結ばれた約束の包帯は既になく、ふたりを結ぶ約束は新たに形作られたばかり。雪が溶けかけたような道が遠くに見えていた。そこからもうひとつのリチアドが顔を出し、そしてサヤカとマコトを迎え入れている。
 海の向こうには地平線が姿を現していた。風濤、王都を守る門の片割れのその名に相応しく、海上に吹く春風は優しく海の波を作り上げている。マコトは、その景色と新たな装いのサヤカを目に焼き付けながら微笑んだ。
「ひとりにしないよ。──僕が」
 サヤカは、その言葉に思わず目を見開いた。マコトの言葉で、マコトの決断で、ずっとそばにいてくれると──そう言ったのだろうか。見たことのないほどに爽やかに笑うマコトにつられて、サヤカは紅潮した頬を緩ませた。その表情にか、ひた、とマコトの手がサヤカの頬に触れ、愛おしいと叫ぶような指先が輪郭をなぞるようにして去っていく。
「頼もしいかぎりです、騎士様」
「リチアドの王女様にそう言っていただけるとは、身に余る光栄です」
 芝居がかった声音でそう軽口をたたき合い、足を止めたままわざとらしくお辞儀してみせた。傍目から見れば仲のいい旅人同士の戯れにしか見えないそれは、お互いが乗り越えた傷のあとに触れる言葉だった。サヤカとマコトは違うようでいて同じ痛みを味わい、翳りを潜めた目で旅をして──そして、お互いと出会った。隣に歩くぬくもりがどこまでも愛おしく、サヤカは思わず目を細める。
「…………まいりました」
「え?」
 急にどうしたの、とマコトが眉尻を下げながら問いかける。
「僕ら、特に勝負なんてしてない……よね」
 不安げな顔をしたマコトに、サヤカがくすくすと小鳥のような笑いを零す。そのまま続きを告げようと口を開けば、マコトは神妙な顔をして聞く姿勢を正していた。
「……一緒に行きましょう、私の負けです」
「…………ああ、なるほど。よく覚えてるね」
 サヤカが諳んじたのは、一緒に旅をし始めたときのマコトの文句だった。数拍置いてそれに気が付いたらしいマコトが少し笑って、「やっぱり僕の負け」と言ってみせる。
「そうかなあ」
「そうだよ」
 何の勝負かも決めないままに、勝敗だけを決めていた。マコトはそんな戯れに頬を緩ませ、サヤカの手を取ってみせる。サヤカは照れたように笑ったまま、その手を預けた。
 触れられた手が熱を持ったのが、ありありと分かった。時間にしてみたらあまりにも短い旅路だったくせに、だってこんなにも鼓動が速い。マコトと一緒に居たい、期間限定の相棒なんかじゃなくて──ずっと、隣に。そんな願望を抱いてしまったので、サヤカとしては自分のの負けと言わざるを得ないのだが、マコトは勝敗をひっくり返すつもりはないようだった。
 マコトは、なんでもないような様子でそっと手の甲に口づけを落とす。サヤカの頬がどうしようもなく赤に染まった。
「……僕の負けの罰は、これでいい?」
「これ、マコトにとっては罰なの?」
「……違うけど」
「それならいいや」
 これは私が勝ったご褒美ね。サヤカの言葉にきょとんとしたマコトの手を取って、同じように口づけた。端正な顔が赤く染まり、それからはにかむように笑って見せる。照れ隠しにか顔を背け、マコトがそのまま手を引いて歩きはじめる。サヤカは蕩けるように相好を崩して、マコトの頬の赤みには敢えて触れずについていった。
 雪上を埋めていたふたりの足跡が、降り注ぐ陽光に溶けて消えていく。風濤の門は遠ざかり、あらたな未来がやってくる。春風に靡く髪と散る花びらが、ふたりを彩っている。
 サヤカの告げた春は確かに、ふたりのもとへと届いていた。



                             Fin