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 痛いよ、とシュカが呟いていた。くすくすと笑う精霊の声が聞こえてくるような気がして、ふわふわとマントはシュカのそばを飛び回る。まるで何かに手を引かれるように、シュカはゆっくりと立ち上がった。柱の影に丁度隠れるような形になってしまったマコトとサヤカに、そちらを振り返らずにシュカは言う。
「先に戻りますね」
「……分かった」
 かつんかつん、と階段を降りる足音がした。やがて、足音が途絶え大扉が閉まる音がする。来たときは気が付いていなかったけれど、どうやら扉があったのか──そう考える間もなく、サヤカは自分を包むようにしているマコトに声をかけた。
「…………助けてくれてありがとう」
「……当然のことをしただけだよ」
「……誰にとって?」
 座り込んだマコトは、自分が引き寄せたサヤカをためらいなく抱きしめていた。恥ずかしいやら、状況が飲み込めないやらでされるがままになっているサヤカは問いかけた。いつかの町できいたことと、全く同じ言葉だった。
 吹雪の音が途切れ、雲間から空が見えていた。白んだ夜に、まだ残る月明かりが二人を照らす。いつだって、話をするときは夜だったような、そんな気がした。
 マコトは迷うことなく、はっきりと答えた。
「僕にとって」
「……騎士として、じゃないの」
「僕にとって、失いたくない人だから。……助けるし、守るよ」
 当然だよ、と照れたようにうわずった声が耳に触れる。
「……王子さまじゃなくて、やっぱり騎士さまだね」
「そうだといいんだけど」
 サヤカはおずおずと、マコトの背に手をまわした。まだ鐘はゆらりゆらりと風に揺れ、かすかに春を響かせている。
 雪の積もった地に花開くように、いつかのサヤカの魔法のように、春は国へと広がっていった。長い冬は終わりを告げたのだ。
「初めて会った時も、マコトに助けてもらったね」
「空中に投げ出されたのは僕だったけどね」
 後で帽子探さなくちゃね、とマコトは笑った。春の精の起こした風に吹き飛ばされたのはサヤカだけではないのだ。サヤカは塔の上になんとか残っているけれど、一緒にどこかへ飛ばされてしまったお気に入りの帽子は雪景色に溶けていた。
 引かれた腕が熱かったのを、ひどく覚えている。
 二人の間を、透明な沈黙が流れていった。どちらからともなく身を離し、雑に座り込んだまま見つめ合う。サヤカが、ふわりと笑って見せた。
 肌寒い風が吹き荒れて、ゆったりとサヤカを攫っていく──マコトはそんな風に感じた。雪景色に、そして春に溶けてどこかへ行ってしまいそうだ。いつかも同じように感じたのだったか。それはずっと昔のような気も、昨日のような気もした。
 サヤカが話を切り出す前に、マコトがサヤカの唇に人差し指を当てた。
 僕から言わせて、と、まるでサヤカが何を言うかわかっているかのようだった。反論する暇もなく、マコトがサヤカに笑い返しながら、ゆるやかに紡ぐ。余裕そうなくせして緊張しているのか、微かに声がふるえていた。
「……約束が終わっても、一緒にいてくれませんか」
 サヤカはその言葉に、春に色づく桜のように、花開く蕾のように、わらった。