序 奇跡

 木枝が踏まれ、折れる音がしていた。
 それは、夜空に銀の月がきらめく夜のこと。普段は静謐さを保っているはずの森に、幾人もの怒号と足音が響いていた。夜の闇を燃やし尽くすようにたいまつの灯がともり、こうこうと燃え盛る。それを持つ大柄な男たちが数人、草花の上に火の粉が落ちることもいとわず走り、なにものかを追いかけていた。止まれ、逃げるな、大人しくしろ──などと怒鳴る野太い声ばかりがあたりを支配していて、眠っていた鳥たちが羽をはためかせどこかへ飛んでいく。彼らは決して山賊などではなく、どこかの街の兵士のようだった。
 そんな彼らに追われ、街道から少し外れた森の中を走るのは、三人のこどもたちだった。それぞれ薄茶と黒の髪をもつふたりの少年が木々を掻いくぐるように進み、白髪〈はくはつ〉の少女がふたりに手を引かれ半ば引き摺られるようにして追いすがっていく。三人が背負った荷物は旅をするにはいささか少ないように見えるけれど、こうして逃げているぶんにはひどく重そうに見えた。
 少女がか細い声で、少年らに言う。
「もう、もういいよ、ねえ」
 少女の白髪は、木々の隙間から射す月の光で銀色に光っていた。決して老齢には見えない少女の髪色は生まれつきなのか、艶やかに風に舞う。肩のあたりでふわふわとなびくそれを振り乱しながら、息を切らして少女は訴えていた。
「置いていって」
「いくわけないだろ! 逃げ切るぞ、絶対にだ!」
「シヴァとトウトなら、ふたりなら、逃げられる、から……わたしのことは、」
「コハクがいなきゃ逃げても意味ねえんだよ! 絶対置いてかねえからな、今は黙って走れ!」
 薄茶の髪の少年──トウトは少女にそう怒鳴り返して、それから繋いだ手にきつく力を籠める。少女は悲しそうに一瞬顔をしかめてから、小さな声で「わたしなんて」と呟いた。それに返答を返す余裕もなく、少年は黙って速度を速めた。彼らが兵士たちに追われているのは、どうやら今も足をもつれさせながら走っている彼女のせいらしかった。
 もう片側で少女の手を握る黒髪の少年が、速度を緩めることなくちらりと後ろを伺った。やはりというべきか、夜の中の強行軍に慣れていないこどもたちと違い、大人の、しかも兵士の走る速度は早い。さっき振り返ったときより格段に近づいてきている大人たちの影に、黒髪の少年がきつく唇を結んだ。それから一拍置いて、あきらめたように続ける。
「トウト」
「お前までなんだよ、黙って走れ!」
「じき追いつかれる。だから俺が囮になる」
「はあ?!」
 居場所が割れては困るからとランプも持たず、ただ前を向いて走っていたトウトは、並走している少年の顔をばっと振り向いた。不愛想に足元の小石を蹴散らした少年は、そのトウトの驚愕の声にはそれ以上のことばを返さない。彼は無口なたちのようだった。
 少年は、息を切らして目尻に涙を浮かべる少女に、尋ねるような視線を向けた。目の前の少女が必死に首を振るのを見て一瞬眉尻を下げ、それから不格好にほほえんでみせる。誰しもが強がりだとわかるような笑みだった。
 森の闇に紛れて逃げ走る彼らをあざ笑うようにぱっと森が開けたのも、その瞬間のことだった。岩場を避けるようにして走り、急いて道を曲がった彼らの目の前からは木々が消え、ただ大きな湖だけがそびえている。
 眼前に広がる湖はうねるように黒く光り、月明かりを空に返している。街ひとつ沈んでしまいそうなほど大きなその湖に驚いて一瞬止まりかけた足が、兵士と彼らの距離をいっぽ、またいっぽと近づける。少し走れば森に戻れそうな地形ではあるが、これではどこへ向かったかすぐに割れてしまうだろう。けれど湖に完全にとおせんぼされるよりは幾分もましだと、トウトは歯を食いしばった。
 あと少し逃げ切れば、再び深い森が始まる。希望は限りなく零に近いけれど、まだ逃げ切れる算段はあるはずだ。トウトは自分に言い聞かせるように、心の中でそう何度も反芻して、一瞬ひるんだように緩んだ足を再び全力で動かした。一度見つかってしまえば、大人の兵士から逃げ切ることが難しいなどと考えるのは、おそろしかった。
 少女が息も絶え絶えに、黒髪の少年を「シヴァ」と呼ぶ。囮になどなるな、と訴えているようだったけれど、少年はそれにも言葉を返さない。彼は湖を一瞥し、それから一度だけ少女の手をきつく握ると、次の瞬間にはぱっと離してみせた。すぐさま踵を返し、慣れない手つきで腰にさげられた剣に手を伸ばして立ち止まる。その間にも男たちは、すぐそこまで迫ってきていた。
「シュヴァルツ! 馬鹿、戻れ!」
「行け」
「コハクが、俺がこんなこと望むと思って……っ、おい、コハク!」
 くそ、とトウトが吐き捨てる。トウトが彼のことを振り向いたのもつかの間、少女がトウトと繋いでいた手を振り払い、黒髪の少年──シュヴァルツの背を追ってしまっていた。
 男たちが追い付くまで数秒、トウトも立ち止まったシュヴァルツとそれに追いすがった少女に追いつくように方向転換した。体力の限界を超えて走っていたからか、一度でも止まってしまえば足がひどく痛んでいる。それでもと腰に下げられた剣を抜き、慣れない手つきで構える。ふたりの少年は、剣を握ったことなどほとんどなかった。
「コハク、」
 囮である自らを追ってきてしまった少女に、シュヴァルツが伏し目がちなその瞳を大きく見開いた。シュヴァルツの発した言葉は男たちの怒号に紛れて搔き消え、その中でなにもかもを諦めたような、少女の声だけが響いた。それを追うように、トウトがふたりの前に飛び出していく。
「もういいよ」
「馬鹿、良くねえよ! お前だけでも走れ!」
「わたしが悪いの。白く生まれたわたしが悪いから、もういいから……」
「そんなことないから逃げろ、ここは俺とシュヴァルツがが引き付けるから……ッ、」
 トウトが少女の肩を掴んで後ろに追いやったのもつかの間、追いついてきた兵士たちの腕がトウトに、そしてその背後のシュヴァルツに伸びた。松明の光があたりを明るく照らし、月明かりを打ち消すように視界が赤く染まっていく。離せ、と先に叫んだのは、トウトとシュヴァルツのどちらだったのだろうか。
 少年たちが必死に守ろうとしたはずの少女は、あっけなく男たちにとらわれた。彼女の瞳は穏やかにたたずむ夜のごとく黒く、諦めをたたえていた。しかしそれも白い睫毛に伏せられて見えなくなっていく。閉じられた瞼の端から、涙がひとつぶ落ちていった。
 トウトたちが慣れない手つきで振るう剣など、争い慣れている兵士たちには赤子同然のものにしか見えなかったのだろう。軽くいなされたのち、ふたりはそれぞれ兵士に馬乗りにされ、地面に組み伏せられた。砂利と岩が体に食い込み、痛い。抜け出そうと暴れる手足を強く押さえつけられ、ぷつり、と血が流れた感覚がした。
 俺たちはなにもしていない、なんていうトウトの言葉が聞き入れられることはなく、容易く自由を奪われる。すり減ったトウトの視界の端で、少女が数人の男に張り倒されるのが見えた。
「コハク、コハ、ぐっ……」
「お前のせいだ! お前の、お前らのせいで、ノズは!!」
「コハクのせいじゃない、離、せッ……!」
「黙れ! 水龍さまのお力を不当に扱う背信者め……!」
「違う!」
 どんな時でも美しい月の光と、炎のゆらめきが憎たらしかった。
 兵士たちの言葉ひとつひとつに反論しては殴られるトウトと相対的に、シュヴァルツはただ唇をきつく噛んでいた。その間にも少女を詰る声は止まず、その華奢な体は地面にたたきつけられたり宙に浮いたりと散々な扱いを受けている。聞いているだけで痛みが伴うような音ばかりが響き、トウトは耳を塞いでしまいたくなった。
 彼らの行いは刑罰というには手酷く、少女を捕らえる気概など初めからないかのように振舞った。あびせられる罵声は聞くに堪えないほど口ぎたないものばかりで、まるで少女がここで死んでもいいと言わんばかりに力が振るわれる。少女はそうした扱いを受けるほどの凶行を行うようには見えなかったけれど、彼らは兵士としての義務以上に、まるでなにかに憑りつかれたかのように、少女を憎んでいるようだった。
 トウトは、揺らぎ始めた意識が途切れないように舌を噛んだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。少女たちは、ただ生きていただけなのに。ただ、生まれもった特質のせいで、こうまでして虐げられなければならなかったのだろうか。こども三人を森の奥まで追いかけて、殴り倒してでも命を奪ってでも償わせなければならないほど、それは罪だっただろうか? 否、そんなことはないはずだ。ないはずなのだ。
 抗わなければならない。そう誓ったトウトが暴れる横で、シュヴァルツがきつく拳を握る。その口から低く小さく漏れた「守りたかったのに」という一言に答えたのは、トウトではなく少女のほうだった。
「シヴァのせいじゃない」
「白の子が口を開くな、黙れ!」
 少女がひとつ口を開くだけで、男たちは少女を怒鳴り腕を振るった。剣で一思いに殺すことすらせずに、まるで鬱憤を晴らすかのようにただ暴力だけを振るい続けている。シュヴァルツの言葉にはまだ続きがあるようだったが、少女がこれ以上口を開かないようにか再びきつく唇を噛んだ。
 それでも、ひゅう、と話しづらそうに喉を鳴らしながら、少女はえ続けた。
「ふたりは、悪く、ないよ。ずっと、わたしに、縛り付けて……ごめんね。……ふたりと、家族で、いられて……良かった、っ」
「ッコハク、いくな! お前だけでも──」
 いままでありがとう、という言葉と、状況に似合わない柔らかな微笑みと共に、少女が再び殴りつけられる。その拍子に跳ねた体がぼちゃんと音を立てて湖に落ちた。水しぶきがあがるのが、とうとうかすみ始めた視界の隅にも映り込んで、トウトのありったけの血の気が引いていく。
 死ぬな、と隣で組み伏せられたシュヴァルツが呻いた。口を開く度強く殴りつけられることと、もう何時間も全力で走り続けていたことが重なって、トウトの身体はもうほとんど動かなかった。涙か、意識の混濁か、目の前がゆがんでいくことだけが分かる。シュヴァルツの両目からは、痛みからかはたまた悲しみからか、既にぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
 湖の浅瀬に倒れる少女から、声が発せられることはついぞなかった。男たちは意識を失ったらしい少女の胸倉を掴んで雑に湖に放り投げ、挙句に足元の石まで投げこんでからこちらへ戻ってくる。その足音を聞きながら、動かない体に鞭打って指先だけでもと暴れていたトウトもいよいよ抵抗を失っていった。
 コハクは、どうなっただろうか。己が視界の隅で湖に沈められていたのを見たはずなのに、それが現実のこととして頭に入ってこない。男たちの怒号は止み、一仕事終えたとでも言いたげな雰囲気が漂っていた。シュヴァルツは気を失ったようで、ぐったりと地面に伏せて目を閉じていた。
 随分と深く見えた湖の底に、自分の大切な家族が沈んでしまったと考えるだけで、トウトの抗う気力さえも奪われていく。せめてもの希望をと思って湖を見つめても、少女の身体が浮かび上がってくることはなかった。ほんの少し前まで罵声が響いていた森が、鳥の声ひとつしないほど静まり返っているのがひどく不気味だった。
 組み伏せられた状態から解放されても、起き上がるだけの力はトウトにはもうなかった。背の荷物が奪われる感覚と共に、最後の一撃と言わんばかりに蹴られる。男たちの憎悪に満ちた視線が、トウトを焼いていた。睨みつけようとしても、上手く目に力が入らなかった。
「水龍様のお力を使う女を湖に棄てて大丈夫ですかね、隊長」
「ほとんど息はなかったし、力を使う間もなく死んだだろ。使うにしたって、あんな死にかけじゃろくなこと出来ねえさ」
「それもそうっすね。この辺は集落もないし、巻き込まれたとしてもこいつらだけか……こいつらはどうします?」
「身ぐるみ剥いで放っとけばいずれ野垂れ死ぬさ。白の子に加担してノズをめちゃくちゃにした悪魔なんだから、野犬にでも食われてもらわねえと割に合わねえよ」
 悪魔はお前らだ、と吐き捨てたトウトは数発蹴られて、それから意識を失った。
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