02

 目が覚めなければ良かったのに、と思ったのは初めてだった。
 あちこちが痣だらけなのだろう、と見なくても分かるほど痛む身体で、トウトは呆然と空を見上げていた。あれから何日経ったのか、それとも夜が明けて朝が来ただけなのかはわからないが、朝日のまぶしさが瞳を焼く。真っ黒に濃い瞳を持つシュヴァルツとコハクに比べ、トウトの瞳の色は髪の色と同じように薄いのだ。爽やかな空色と、陽に照らされる新緑の葉だけはいつも通りで、吐き気がした。
 上手く回らない頭でも、運よく野犬やら野生の動物やらに食われなかったらしい、ということだけは分かった。それから、あの惨劇が夢じゃないことも。なにより大切だった少女がああして死んだのに、自分が生きていることは、体中の痛みが証明していた。
 トウトが緩慢な動作で首を動かすと、視界に入ったのは隣に倒れているシュヴァルツだった。ひとまとめにされていたはずの長い黒髪が解け、朝露に濡れた地面に張り付いていた。頬に痣がいくつも浮かんでいるのを見たとき、トウトの胸がどくりと痛み、鼻の奥がつんとしびれた。
 瞼の端から涙がこぼれおちる。彼も死んでしまっていたらどうしよう、とトウトは思った。暫くそうして逡巡したのちに、ゆっくりと寝返りを打つように彼のそばに寄り添えば、か細く息をしていることが分かった。すべてを失ったわけではない、とせめてもの希望にすがるように、少年はシュヴァルツの手を握った。
 少女を失ってしまった今、トウトが守るべき家族は彼だけだ。きっと少女がいない今、彼もこの世を恨み死んでしまいたいと思うだろうけれど、止めなければならない。少女がどれだけ自分たちのことを思っていたのか、それだけは忘れないようにしながら、生きなければならないのだ。不幸か幸いか、生き延びてしまったのだから。
 だから、もういっそ死んでしまいたいなどと思ってはいけない。地を這ってでも、少女が愛した彼だけでも救わねばならないのだ。
 そう思い、緩慢に体を起こしたトウトは、ふと忌まわしき湖に目をやった。明るい陽のもとで見る湖は、夜に見るよりも大きな気さえした。あの中に、少女は飲み込まれたのか。黒光りしていた水面は透明に澄んでいたが、湖の中へと泳いでいって下を見れば少女が沈んでいるのかと想像してしまって、むしろ恐ろしかった。
 目まぐるしく過ぎさった夜のことは、思い出すだけで背筋を冷やす。もう考えるのをやめよう、と遠景を見るために目を細めたとき、トウトはその湖に何かが浮かんでいることにようやく気が付いのだった。
 それは、岸から少し離れた場所にあった。水面を揺らすこともなくただ浮かぶなにかに気を引かれ、トウトは痛む身体に鞭打って立ち上がり、目を凝らす。
 あの晩はなにもなかったはずの場所に、確かになにかが浮かんでいる。それは、まるで人影のように──人間の少女のように、見えた。
 それに気が付いたトウトがすべての痛みを忘れたように走り出して、ばっと上着と靴を脱ぎ捨てて湖へと飛び込むまで、数秒とかからなかった。本当はもっと服を脱いだほうがよかったのだろうけれど、気が急きすぎていたのだろう。朝の水はひどく冷たく、傷に痣に痛みが走ってから、トウトはそう思った。けれど、そんなことも気にならないほど、心臓が早鐘を打っている。
 あの人影が少女──コハクかもしれない、と一度思ってしまえば、居ても立ってもいられなかった。生きているはずはない、とどこか冷静な頭は叫ぶけれど、もしかしたらまだ息があるかもしれないと期待してしまう。そうでなくても、湖の底に沈んでしまうのではなく、自分たちの手で弔ってやれるならそれだけでもよかった。すべてを奪われたまま終わらないなら、少しでも少女に報いることができるのなら、痛みなどなんの障害にもならないのだ。
 湖は、やはりひどく深いようだった。その割におそろしいほど透明な水底には、なにやら遺跡のようなものが眠っている。その瓦礫群は白か青かと水を思わせる色ばかりをしていて、それはこの湖の中すべてに広がっているような気がした。
 揺らめくむこうの瓦礫を一瞥してから、トウトは必死に泳ぎ続けた。必死に水を掻いて、トウトは浮いている人影へ向かう。水と傷で思い通りに動かない身体がもどかしく、それでも急いだ。近づけば近づくほど、希望の足音も近づいてくるのだ。
 風が凪ぐ。緩やかに波が起こり、木々がざわめいた。あの晩はしなかった鳥の声が、祝福を継げるように重なり響く。
 人影は、少女──コハクだった。その身体は湖の真中に、それも死んだ者が無様に水に浮かぶ様子ではなく、胸の前で手を組みまるで眠るように浮いていた。手の中になにかを抱きこみ、その頬から澄んだ水をしたたらせ、真白い肌を陽に照らしながら、まるで大木の下で穏やかに昼寝でもしているように。その光景は、傷跡が醸す痛々しさ以上に、神聖ささえも思わせるほど、静かに美しいものだった。
 トウトが手を伸ばしてコハクの身体に触れたとき、ひやりとした空気があたりに吹きつけ、波紋が大きく広がっていった。震える指先で、湖の底へ沈んでしまったはずの彼女をゆっくり引き寄せれば、その喉からはかすかな呼吸音がする。あれほどひどい傷を負って、何度も地に叩きつけられたというのに、そうして水に沈められたというのに、少女の胸は小さく上下していた。
 奇跡だ、とトウトは呟いた。
 感情のままに少女を抱き寄せれば、少女の身体からはゆっくりと力が抜けていく。トウトにすべてを預けるように穏やかになった呼吸を聞いて、トウトの両目から零れ落ちた涙がちいさな波紋を作った。まだ俺たちは生きていけるのか、と思ってしまえば、涙はとめどなくあふれて止まらないのだ。少女を大事そうに抱えて泳ぐ少年の背後で、水底の瓦礫が淡く青色に光っていた。
 少女は、生きていた。それはきっと、奇跡だった。
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